斎藤銀次郎 – Wikipedia

斎藤 銀次郎(さいとう ぎんじろう、1904年〈明治37年〉10月7日- 1979年〈昭和54年〉12月15日)は、将棋棋士[3]。石井秀吉七段門下[3]

1904年、東京府(現:東京都)で生まれる[3]

1927年に二段で石井秀吉に入門[4]。1929年(昭和4年)に四段[3]

1937年(昭和12年)に八段[3]。第2期名人戦(1937年 – 1940年)から八段リーグに参加し、第1期順位戦(1947年)ではA級に参加[3]。1965年(昭和40年)に引退[3]

借金癖があり、所属する日本将棋連盟に多数の苦情が寄せられる事態となり、引退後の1967年(昭和42年)に日本将棋連盟から退会か除名かを選ぶよう迫られて自主退会した[3][注 2]

1979年(昭和54年)12月15日に脳軟化症で死去[3]。75歳没。斎藤の死去は毎日新聞で報じられた[5]

弟子に平野広吉七段がいた[3][6]。平野門下には所司和晴がおり、所司門下の渡辺明(永世竜王・永世棋王資格者)をはじめとする多数の棋士・女流棋士は、斎藤の曽孫弟子となる。斎藤の弟子にはもう一人関口慎吾六段(贈七段、1918年2月25日[7] – 1945年2月18日[7])がいた[8][9]。関口は棋才を高く評価されていたが[8][9]、第二次世界大戦での二度の召集の末、ニューギニア戦線で1945年に戦病死した[7][8][9]

2020年現在、日本将棋連盟公式サイトの「棋士データベース 七段 平野広吉」に「師匠:(故)斉藤銀次郎八段」とあり、僅かながら斎藤の名前と段位呼称が残っている[6]

  • 1927年 二段で石井秀吉に入門[4]
  • 1928年 三段[4]
  • 1929年 四段[4]
  • 1931年 五段[4]
  • 1933年 六段[4]
  • 1934年 七段[4]
  • 1937年 八段[4]
  • 1965年 引退[3]
  • 1967年 日本将棋連盟を退会[3]
  • 斎藤銀次郎(編)『東京都三多摩地方将棋愛棋家名鑑』、1960年。[10]
  • 斎藤銀次郎(編)『将棋紳士録』、1965年(第1版)-1977年(第13版)。[13]
    • 日本全国のアマチュア有段者の段位と住所を記した名鑑。
    • 余白ページには斎藤による棋譜解説や随筆、詰将棋などが掲載されている[14]
    • 1977年版(第13版)の斎藤の巻頭言[4]によれば、初出版は1965年で、以降1977年まで毎年出版していたという[4]。この1977年版巻頭言で斎藤は、自身の健康状態の悪化のため「今回の第13回刊行を以て、本誌の発行に終止符を打たざるを得ぬかと存じております[4]と述べている。
    • また斎藤は1977年版の巻頭言で、1965年の初出版時には日本将棋連盟の一部から反対を受けたとも述べている[4]

注釈[ソースを編集]

  1. ^ ここでは便宜上、四段昇段日をプロ入り日として扱うが、斎藤のプロ入り当時は初段昇段時から専門棋士として扱われていたとされる。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、「初段からが専門棋士」だった[1]。その頃、奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立されていった[2]
  2. ^ 1968年に刊行された「将棋年鑑〈昭和43年版〉」の「引退棋士一覧」には、斎藤の名前がない。

出典[ソースを編集]

  • 加藤治郎、原田泰夫『[証言]将棋昭和史』(執筆)田辺忠幸、毎日コミュニケーションズ、1999年。