バージー・ラーオ – Wikipedia

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バージー・ラーオ(マラーティー語:श्रीमंत बाजीराव, 英語:Baji Rao, 1700年8月18日 – 1740年4月28日)は、インドのデカン地方、マラーター王国の世襲における第2代宰相(ペーシュワー、1720年 – 1740年)。マラーター同盟の盟主でもある。バージー・ラーオ1世(Baji Rao I)、バージー・ラーオ・バッラール(Baji Rao Ballal)とも呼ばれる。

彼はシヴァージーの再来ともいえる人物であり、「シヴァージーに次ぐ、ゲリラ戦法の最も偉大な実践者」と後世に語られている[1]

また、その20年の統治期間の間に、マラーター同盟の軍はデカンを越えて北インドにまで進撃し、デリー近郊にまで勢力を広げ、その広大な領土は「マラーター帝国」と呼ばれた。

宰相就任[編集]

1720年4月12日、父であるマラーター王国の宰相バーラージー・ヴィシュヴァナートが死亡し、若干20歳の息子バージー・ラーオが宰相となった[2][3][4]。その世襲はマラーター王シャーフーに認められたものだった[5][6]

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バージー・ラーオは若年にもかかわらず、武勇と知略に非常に優れていた[7]。さらに兵士らにはとても人気があり、今日にまでそれは伝わっている。また、彼は宮廷において、シャーフーの目前で宮廷の人々にこういったという。

南インドへの遠征[編集]

バージー・ラーオが就任後に目を付けたのが、南インドのカルナータカ地方に存在したマイソール王国といった諸王国だった[8]。南インドはムガル帝国が撤退したのち、新興の政権あるいは在地の王権がいくつかでしのぎを削っていた[9]

すでに、1718年7月、前宰相バーラージー・ヴィシュヴァナートの代にムガル帝国領のデカン6州に関して、チャウタ(諸税の4分の1を徴収する権利)およびサルデーシュムキー(諸税の10分の1とは別に徴収する権利)がマラーターに認められていた[10]。その中にはカルナータカ地方も含まれていた[11]

1725年11月20日、バージー・ラーオは軍勢を率い、カルナータカ地方へと進軍し、1726年5月に本国に帰還した[12]

そして、1726年10月23日、バージー・ラーオは再びカルナータカ地方へと遠征し、1727年3月6日にマイソール王国の首都シュリーランガパッタナを包囲した[13]

ニザーム王国との戦い[編集]

とはいえ、マラーター同盟が北インドに進出するよりも、デカンにおける問題が発生した[14]

1724年にムガル帝国の宰相カマルッディーン・ハーンが独立し、デカン地方にニザーム王国を樹立すると、帝国にデカン6州の権利を認められ、マラーター王国との対立が始まった[15]。バージー・ラーオはその統治初期、このニザーム王国の勢力をデカンに押しとどめておくことに傾注した[16]

1727年初頭、バージー・ラーオがカルナータカ地方に遠征中、ニザーム王国が彼に敵対するマラーターの武将らとともに攻め込んできた[17]。同年4月にバージー・ラーオもカルナータカ遠征を終え[18]、ニザーム王国の軍と対峙するために本国へと戻った。

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1728年2月、マラーター王国はニザーム王国の軍にプネー及びその周辺の地域を占領されたが、遠征から戻ってきたバージー・ラーオはそれを破った(パールケードの戦い)。同年3月6日、マラーターはニザームにデカンにおけるチャウタとサルデーシュムキーを認めさせた[19][20]

この戦勝により、バージー・ラーオは敵対するマラーターの武将らを排除し、マラーター王国の実権を掌握した[21]

ムガル帝国領への遠征と領土拡大[編集]

ニザーム王国との戦闘ののち、バージー・ラーオはムガル帝国の北インドの領土に対し、長期的な遠征に開始した[22]。その目的は帝国の北インドの広大な領域を獲得し、チャウタを徴収する権利を帝国の官吏に認めさせ、その領域を同盟に割譲させることだった[23]

バージー・ラーオの軍は彼自身によって率いられており、士気はとても高く、各地でムガル帝国軍を打ち破った。マラーター同盟の軍が北インド各地でムガル帝国の勢力を駆逐し、その軍勢がマールワー、グジャラート、ブンデールカンドを席巻した[24]

この遠征には、バージー・ラーオとニザーム王国との戦いで共闘した武将マルハール・ラーオ・ホールカル、ラーノージー・ラーオ・シンディア、ピラージー・ラーオ・ガーイクワードらが随行した。彼らは北インド各地で独自に行動し、それらの獲得した領土は宰相によってその権利を保障された[25]

しかし、すべての武将がその行動に賛同したわけではなく、武将の一人トリンバク・ラーオ・ダーバーデーはグジャラートを自身の勢力範囲と見なしていたが、公然と反抗した[26]。この人物は1730年に父の跡を継ぎ、マラーター王シャーフーからはセーナーパティ(軍事長官)に任命されていたものの、ニザーム王国と組み反旗を翻した[27]

1731年4月1日、バージー・ラーオはグジャラートのダバイーで叛将トリンバク・ラーオ・ダーバーデーと戦い、敗死させている(ダバイーの戦い)[28]。これにより、彼に敵対するマラーターの武将らはほぼすべて一掃された[29]

デリー及びボーパールの戦いとマールワー割譲[編集]

バージー・ラーオ像

バージー・ラーオの軍勢は毎年のようにムガル帝国の領土に攻め入り、マールワーなどからチャウタを徴収していたが、1730年代後半にはデリー近郊にまで進出していた[30]

バージー・ラーオはムガル帝国のデカンの領土を支配下に入れ、それまで略奪先だった中部インドのマールワーや北インドのグジャラート、デリー近郊までもマラーター同盟の支配下に置いた。

そして、バージー・ラーオは北上し、1737年3月28日にムガル帝国の首都デリーを攻撃し、その軍勢を破った(デリーの戦い)[31]。アウラングゼーブの死後30年目に起ったこの出来事は、ムガル帝国の衰退をよくあらわしていた。

だが、バージー・ラーオはその帰途、ムガル帝国が要請していたニザーム王国の軍勢に遭遇し、同年12月24日にこれをボーパールで破った(ボーパールの戦い)[32]。敗れたニザーム王国軍はボーパールに包囲されたのち、講和を結ぶことに決め、1738年1月7日に講和した。これにより、マラーター同盟はニザーム王国にマールワーを割譲させた[33][34][35][36]

マラーター同盟と宰相政権の確立[編集]

バージー・ラーオの事跡碑

バージー・ラーオは、父バーラージー・ヴィシュヴァナートが基礎を築いたマラーター同盟の確立に力を入れ、それに成功した[37]。その治世、マラーター同盟はデカンの一政権ではなく、北インドに及ぶまで帝国なっていた[38]

バージー・ラーオは随行した武将であるマラーター諸侯(サルダール)に征服地を領有させ、諸侯が王国宰相に忠誠と貢納を誓い、宰相がその領土の権益を認める形をとった[39]。これにより、北インドにはシンディア家、マールワーにはホールカル家、グジャラートにはガーイクワード家がそれぞれ統治を許された。のちにこの統治形態を見たイギリス人は、これをマラーター同盟と呼び、その呼び名が定着した。

しかし、この統治形態はマラーター同盟を確固としたものに出来なかったとする説もある。
マラーター同盟の領土は拡大したものの、それを統治したサルダールらの関心は新たな領地にあり、民衆から徴税することに精を出していた[40]

とはいえ、バージー・ラーオは治世20年のあいだに、マラーター王権(ボーンスレー家)を名目化し、王国宰相が事実上の「王」となり、王国宰相が同盟の盟主を兼ねる「マラーター同盟」を確立させることに成功している[41]

また、1731年から1732年にかけて、バージー・ラーオはプネーに巨大な宰相の宮殿であるシャニワール・ワーダーを建設した[42][43]。当時、プネーはムガル帝国やニザーム王国との抗争で荒廃していたが、これを契機に宰相の都市として発展していくことになった[44]

こうして、彼はマラーター王国の首都サーターラーとは別に、プネーに独自の政権を樹立するに至った。このプネーに樹立された王国とは別の独自の政権は、一般的に宰相府あるいはペーシュワー政権と呼ばれている。

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1740年初頭、バージー・ラーオは10万の兵をもって再びデリーを攻めようと行軍していたが、4月28日にインドール近郊で熱中症に倒れて死亡した[45][46]。英雄の死はあまりにもあっけないものだった。その日のうちに、彼の葬儀はナルマダー河畔で行われた。

そして、バージー・ラーオの息子バーラージー・バージー・ラーオが、マラーター王国の新たな宰相となった[47]。この世襲による宰相就任もまた、マラーター王シャーフーに認められたものだった。

  1. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p31
  2. ^ PESHWA (Prime Ministers)
  3. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p31
  4. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p213
  5. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p31
  6. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p213
  7. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p31
  8. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p173
  9. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p172
  10. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p213
  11. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p173
  12. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p38
  13. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p38
  14. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p214
  15. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p172
  16. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p31-32
  17. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p214
  18. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p38
  19. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p38
  20. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p214
  21. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p214
  22. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p31
  23. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p31
  24. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p32
  25. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p31
  26. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p214
  27. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
  28. ^ Advance Study in the History of Modern India (Volume-1 1707-1803) – G.S.Chhabra – Google ブックス
  29. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
  30. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
  31. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
  32. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
  33. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
  34. ^ S.R. Bakshi and O.P. Ralhan (2007). Madhya Pradesh Through the Ages. Sarup & Sons. p. 384. ISBN 978-81-7625-806-7 
  35. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p214
  36. ^ Maratha Chronicles Peshwas (Part 2) Glory of the Peshwas
  37. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p32
  38. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p32
  39. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p31
  40. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p32
  41. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p32
  42. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215
  43. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p249
  44. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p249
  45. ^ PESHWA (Prime Ministers)
  46. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p215-216
  47. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p216

参考文献[編集]

  • 小谷汪之編 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年
  • 辛島昇編 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社、2007年
  • ビパン・チャンドラ著、栗原利江訳 『近代インドの歴史』 山川出版社、2001年

関連項目[編集]


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