松平忠礼 – Wikipedia
凡例
松平忠礼 |
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松平忠礼 |
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時代 | 江戸時代後期 – 明治時代 |
生誕 | 嘉永3年6月14日(1850年7月22日)[1] |
死没 | 明治28年(1895年)3月19日[1] |
改名 | 樟之助・与十郎(幼名)、忠礼 |
別名 | 恭斎 |
墓所 | 東京都台東区の谷中墓地 |
官位 | 従五位下・伊賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 信濃上田藩主 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 松平忠優、井上氏 |
兄弟 | 忠礼、芳、忠厚、章子、土井忠直、忠隆、広閑院 |
妻 | 太田資始次女宝、山内豊福次女豊子 |
子 | 忠正 |
松平 忠礼(まつだいら ただなり)は、江戸時代幕末から明治期の大名・華族(子爵)。信濃国上田藩7代(最後)の藩主、伊賀守系藤井松平家9代。版籍奉還を願い出て許可され、知藩事に任命される。明治維新後はアメリカ合衆国に留学し、外務省に勤務。また、式部官を務めた[1]。
嘉永3年(1850年)6月14日(異説として6月23日)、6代藩主・松平忠優(忠固)の三男として誕生した。兄が早世したために世子となり、安政6年(1859年)に父が急死したため家督を相続した。
しかし若年の相続のため、藩内抗争が激化する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、明治新政府側に恭順して北越戦争、会津戦争に出兵し、戦功により翌年に賞典禄3000石を下賜された[2]。明治2年(1869年)6月、版籍奉還を経て上田藩知事となる。しかし8月16日には百姓一揆(巳年騒動)が起こるなど、なおも藩内は混乱した。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で藩知事を免職される。
明治5年(1872年)から弟の松平忠厚と共にアメリカのラトガース大学に留学した。忠礼は、アメリカの主要大学の卒業生の中から成績優秀者のみに与えられるファイ・ベータ・カッパ (Phi Beta Kappa) を受けている。明治12年(1879年)に日本に帰国し、明治13年(1880年)から外務省御用掛・外務省取調局に勤務する。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。
明治23年(1890年)の第1次帝国議会で貴族院議員に選出されるも、忠礼は辞退している。明治28年(1895年)3月19日に死去した。享年46。
- 1895年(明治28年)3月16日 – 正四位[3]
- 父:松平忠優(1812年 – 1859年)
- 母:井上氏
『平成新修旧華族家系大成』によれば家族は以下の通り[1]。
- 夫人
- 宝(太田資始二女)
- 豊子(山内豊福二女)
- 兄弟姉妹
- 芳(井上正直夫人)
- 松平忠厚
- 章子(戸沢正実夫人)
- 土井忠直(土井利教養子)
- 松平忠隆
- 広閑院(堀直虎夫人、のち離縁)
実子はなく、弟の土井忠直の次男・松平忠正(ただまさ、1886年 – 1963年)を養子に迎えて跡を継がせた。忠正のときに華族制度の廃止を迎えている。
- ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』下p.625
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下p.626
- ^ 『官報』第3513号「叙任及辞令」1895年3月19日。
参考文献[編集]
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
外部リンク[編集]
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『松平忠礼』 – コトバンク
日本の爵位 | ||
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先代: 叙爵 |
子爵 (上田)藤井松平家初代 1884年 – 1895年 |
次代: 松平忠正 |
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