Author: lordneo

広橋真光 – Wikipedia

日本の政治家 広橋真光 ひろはし ただみつ 新妻の梨本宮家規子女王と。1926年 生年月日 1902年12月11日 没年月日 (1997-05-21) 1997年5月21日(94歳没) 出身校 東京帝国大学卒業(現東京大学) 前職 内閣総理大臣秘書官 現職 特別調達庁横浜局長(旧防衛施設庁) 称号 従三位 配偶者 広橋規子

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平岩米吉 – Wikipedia

動物研究者の平岩米吉。本項で詳述。 明治の将棋棋士七段・平岩米吉(1831年-1912年)。本項人物の父。連珠七段でもあり、また、「六代目平岩甚助」の名で豪商、亀戸村長としても知られた[1]。 平岩 米吉(ひらいわ よねきち、1897年〈明治30年〉12月4日[注釈 1] – 1986年〈昭和61年〉6月27日)は、東京生まれの在野の動物学者、作家。雑誌『動物文学』を主催。研究対象は、犬と狼、猫の生態、またそれらの歴史や彼らの飼い主である人間側の民俗史など。 長女の平岩由伎子は父親の後を継いで「平岩犬科生態研究所」「動物文学界」「純潔日本猫保存会」の代表を務めた[3]。 1897年(明治30年)12月4日、東京府南葛飾郡亀戸村の江戸時代から続く裕福な竹問屋の六男として生まれる[4]。10代から20代にかけては、連珠、短歌、登山に熱中。連珠では七段にまでのぼった[5]。また、川端玉章に日本画を師事する他、動物学、心理学、国文学、仏教などを独学。 1928年(昭和3年)、日本犬保存会の設立に参画[6]。 1929年(昭和4年)、荏原郡婢衾(現在の自由が丘)の広い土地に移り、家の名前を「白日荘」と命名する[7]。翌年には犬猫生態研究所を設立[8]、イヌ科、ネコ科、ハイエナ科、ジャコウネコ科、クマ科などの多数の野生動物を自宅邸内で飼育し、その行動を研究した。狼を連れて銀座を散歩したエピソードが知られている。日本犬、日本猫の種の保存について尽力した。 1934年(昭和9年)、雑誌『動物文学』を創刊[9]。雑誌では日本で初めてシートンの作品やザルテンの『小鹿物語(バンビ)』が紹介される[10]。昭和9年には愛犬の死を継起にフィラリア撲滅のためのフィラリア研究会を設立[11]。1936年(昭和11年)、動物文学会を発足[12]。 1949年(昭和24年)に研究者と共に哺乳動物談話会を開始し、昭和20年代後半に日本哺乳動物学会が結成される[13]。日本哺乳動物学会は1987年(昭和62年)に日本哺乳類研究会と合併して現在の日本哺乳類学会となった[13]。 1986年(昭和61年)6月27日、死去[14]。享年88。 『私の犬 動物文学随筆集』教材社、1942年 『動物とともに』平岩米吉編、筑摩書房、1956年 『犬の生態』同和春秋社〈観察と実験文庫〉、1956年 『動物を愛した人びと』山本耀也絵、実業之日本社〈おはなし博物館〉、1965年

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パレード (GO!GO!7188のアルバム) – Wikipedia

パレード(PARADE)はGO!GO!7188の5枚目のオリジナルアルバム。 2006年10月18日に発売。 初回生産分にはライヴ映像(「Fatな彼」@SHIBUYA-AX 06/4/15)、プロデューサー対談(レコーディング・オフショット映像含む)のDVD付き。 初の漢字以外のタイトルであり、今までにないポップさを前面に押し出した内容となっている。プロデューサーとして片寄明人(GREAT3)、奥野真也(ソウルフラワーユニオン)、會田茂一(EL-MALO、FOE)が参加。 前作『竜舌蘭』から各自のソロ活動をはさんで2年ぶりに発売されたアルバム。 『パレード』発売時のインタビューでは、『竜舌蘭』を「内側に向かった、3人だけの世界」で作ったアルバムと話し、そこで自信を得たことによってプロデューサーを迎えることができ、 また、前年、ほとんどGO!GO!7188としての活動が無かったことから、ファンの間に漂っていた「このままソロ活動に移ってしまうのではないか?」という不安を払拭し、「続ける」ということを意識したアルバムになったと語る。 次作『569』発売時のインタビューでは「(『パレード』は)『竜舌蘭』の反動でポップになったのかもしれない」と語るなど、前作『竜舌蘭』と全く異なったアルバムとなった。 2006年11月から2007年1月にかけて、このアルバム曲を中心とした「みちづれツアー」が全国24ヶ所で行われた。 曲名 時間 作詞 編曲 プロデュース 1 近距離恋愛 3:33 浜田亜紀子 曾田茂一、GO!GO!7188

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宇田充 – Wikipedia

宇田 充(うだ みつる)は、映画プロデューサー。新潟県出身。Seventh Art Laboratory代表。ワーナー・ブラザース映画ファーストルック契約プロデューサー。 目次 1 略歴 2 作品 2.1 企画・制作アシスタント 2.2 製作 2.3 プロデューサー 3 メディア 4 脚注

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イラン建国二千五百年祭典 – Wikipedia

1971年10月に挙行された、イラン建国二千五百年祭典。 イラン建国二千五百年祭典(イランけんこくにせんごひゃくねんさいてん、英語: 2,500 year celebration of the Persian Empire、ペルシア語: جشن‌های ۲۵۰۰ سالهٔ شاهنشاهی ایران‎)は、キュロス2世によるアケメネス朝ペルシア帝国の建国以来のイランの君主制2500周年を祝って、1971年10月12日から16日にかけて開催された一連の祭典の総称。この祝典の目的は、イランの長い歴史と、当時のシャー(皇帝)であったモハンマド・レザー・パフラヴィーの治世における発展を、誇示することにあった。 建国二千五百年記念メダルのリボン ペルセポリス・メダルのリボン この行事の計画には、十年以上の年月がかけられた。キュロスの円筒碑文は、この行事の公式シンボルとして使用された。主会場は、シーラーズ近郊の古代都市跡ペルセポリスに定められたが、この地域のインフラストラクチャーは、シーラーズの空港や、ペルセポリスへの道路などを含め、整備が進んでおらず、改善が必要であった。報道陣や行事支援関係者たちはシーラーズの宿舎に収容されたが、おもな祭典行事はペルセポリスで行なわれ、現地にはこの行事のために周到に用意されたテント村が設けられた。ペルセポリス周辺の地域では、ヘビ類その他の毒のある動物が駆除された[1]。このほか、キュロス2世の墓とされる遺跡があるパサルガダエや、テヘランでも関連行事が行われた。 ペルセポリスのテント・シティ[編集] ペルセポリスのテント・シティ、1971年撮影。 「金色の都市

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貴族院 (日本) – Wikipedia

貴族院(きぞくいん)は、明治憲法下の日本における帝国議会を構成する上院[1]。1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日まで設置されていた。貴院と略称された。両院制(二院制)である帝国議会の一翼を担い[2]、下院にあたる衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が有していた[3]。 貴族院令に基づき皇族議員、華族議員及び勅任議員によって構成され、解散はなく[3]、議員任期は7年の者と終身任期の者があった[4]。全議員が非公選であるが、有識者が勅任により議員となる制度が存在していた[4]。 1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行により華族制度と同時に貴族院は廃止され、国会の上院として参議院(さんぎいん)が設立された。参議院は、解散はないままで任期6年の3年毎の半数の改選による通常選挙で、総選挙による衆議院議員の選出と同様、全員公選の議員により構成されることになり[1]、皇族が議員の職に就くことはなくなり、終身任期制も廃止、勅任議員職も廃止された。 旧貴族院の銘板(参議院収蔵) 議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)[3]や貴族院規則、その他の法令に定められた。 議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員のうち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち、勅選議員については終身議員とされた。華族議員のうち、伯爵・子爵・男爵議員はそれぞれ同爵の者による互選により選出された[4]。 議員の歳費は議院法に定められた。それぞれ、議長7,500円、副議長4,500円、議員3,000円であった(いずれも1920年(大正9年)の法改正から1947年(昭和22年)の法廃止まで、衆議院も同額)。 貴族院規則は、草案の段階では議長が決めた議事日程の変更について議員が動議を提起する権利を認めていたが、お雇い外国人の英国人法学者ピゴットが伊藤博文にした意見などにより、同権利は削除された[5]。 1890年(明治23年)開会の第1回通常会から、1946年(昭和21年)開会の第92回通常会まで、議員総数は250名から400名程度で推移した。第92回議会停会当時の議員総数は373名であった。 貴族院は概して非政党主義を取ったため政党には厳しく、政府(行政府たる内閣)を窮地に陥れることもあり、独自性を発揮した。戦時下においても貴族院議長も歴任した近衛文麿首相による「新体制運動」の下に解体させられた政党が軍部に迎合していったのに対して総じて冷静であり、絶頂期の東條内閣を帝国議会で批判したのも貴族院であった[6]。 議員資格[編集] 皇族議員[編集] 満18歳に達した皇太子又は皇太孫と、満20歳に達したその他の皇族男子は自動的に議員となった(貴族院令第2条)。定員は設けられず、歳費も存在しなかった[3]。 貴族院規則4条で「皇族ノ議席ハ議員ノ首班ニ置キ其ノ席次ハ宮中ノ列次ニ依ル」となっていた。ただし、「皇族が政争に巻き込まれることは適正ではない」という考えから、皇族は議会で催される式典などに参列したり、傍聴することはあっても、貴族院議員として日常的に議会内に出入することはなく、登院は帝国議会史上、極めて稀であった[注 1]。また、皇族男子は陸海軍の軍人を務めることが常でもあった(皇族軍人)ので、「軍人の政治不関与」の建前からも、出席は適正ではないとされた[3]。ただし、憲政史上で立法府はともかく、行政府である内閣では、その長たる内閣総理大臣に皇族の東久邇宮稔彦王(皇籍離脱後:東久邇稔彦)が就任した事例はある(歴代日本の首相で最短任期記録)。 第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)5月23日、当時在任していた皇族議員が全員辞任した後、同年7月3日から10月8日まで賀陽宮治憲王のみがこれを務めたのを最後として貴族院から消滅した[7]。 華族議員[編集] 華族議員は男性華族から選任された。爵位によって、選任方法、任期その他の定めが異なった。なお、朝鮮貴族は朝鮮貴族令5条により華族と同一の礼遇を受ける者とされたが、爵位による華族議員となる資格は与えられず、別途勅任議員として貴族院議員に列した場合があった。 公爵議員・侯爵議員[編集] 満25歳に達した公爵・侯爵は自動的に議員となった[3](貴族院令第3条)。定員はなく、歳費もなかった。

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ジャック・クルトワ – Wikipedia

ジャック・クルトワ(Jacques Courtois、1621年12月12日 – 1675年11月14日)はフランス生まれの画家である。イタリアで活動し、イタリアではジャコーモ・コルテーゼまたはコルテージ(Giacomo Cortese 、Cortesi)と署名し、ブルゴーニュ生まれであることから「Il Borgognone」とか「 Le Bourguignon」の仇名でも呼ばれた。ローマなどで働き、主に戦争の場面を描いた[1]。 15世紀の末以来、1678年のナイメーヘンの和約までスペイン国王がブルゴーニュ伯として支配していた、現在のフランス、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏、ドゥー県のサンティポリット(Saint-Hippolyte)で生まれた。父親のジャン=ピエール・クルトワ(Jean-Pierre Courtois)は画家で、弟に画家になったジャン=バティスト・クルトワ(Jean-Baptiste Courtois:c.1627-?)とギヨーム・クルトワ(Guillaume Courtois: 1628-1679)がいる。 父親から教育を受けた後、15歳になった1635年頃、ミラノに移り、そこでスペイン軍に入隊し、3年間、兵士として働いた。兵士としての生活を送りながら多くの戦いの場面のスケッチをして過ごした[2]。 1639年に軍をやめ、ボローニャに移り、ボローニャの画家、グイド・レーニに才能を見出され、レーニからしばらく絵を学んだ。フィレンツェに移り、フィレンツェではオランダ出身の画家ヤン・アセリンらのグループに加わり、アセリンからも絵の技術を学んだ。1640年にローマに移り、ローマでは戦争画や風俗画家として人気になっていたミケランジェロ・チェルクォッツィ(Michelangelo Cerquozzi:1602-1660)に戦争画の技術を称賛され、支援を受けて、戦争画を専門とすることになった。この頃、弟たちもイタリアに移ってきた。ローマで画家、ヴァイアーニ( Alessandro Vaiani)の娘と結婚するが、7年後に妻が病死した。その後、メディチ家のマッテーオ・デ・メディチに招かれて、フィレンツェやシエーナで1655年まで働き、再びローマに戻った。 1657年にイエズス会の修道院に入り、しばらく宗教画を描き、1868年には司祭になった。1675年にローマで没した。

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平成3年台風第19号 – Wikipedia

平成3年台風第19号(へいせい3ねんたいふうだい19ごう、国際名:ミレーレ/Mireille[2])は、1991年(平成3年)9月に発生し、日本列島に甚大な被害をもたらした台風である。主に東北地方では「りんご台風」の別名で呼ばれている。 1991年9月16日にマーシャル諸島の西海上で発生し、9月23日にはフィリピンの東海上で中心気圧925hPa、最大風速50m/sの大型で非常に強い台風となった。9月26日に宮古島の東海上で北東方向に進路を変え、9月27日に長崎県佐世保に上陸し、山口県をかすめたあと加速しながら日本海上を進み、翌日朝に北海道に再上陸した。台風は北海道に上陸後、オホーツク海へ進み、同日15時に温帯低気圧へと性質を変えて、日本から遠ざかった。また、この台風は、福岡市や札幌市のほぼ真上を通過した。 九州上陸時の中心気圧940hPaは、1971年の台風23号以来約20年ぶりで、1951年の統計開始以後では史上5番目に低い(2005年現在)。北海道再上陸時の中心気圧は955hPaであった。さらに、台風が勢力を保っていた上、日本海を速い速度で北上する最悪な進路を取ったため、各地で暴風が吹き荒れた。阿蘇山で最大瞬間風速60.9m/s、広島市で58.9m/s、輪島市で57.3m/s、青森市で53.9m/sを記録するなど、最大瞬間風速は26箇所、最大風速は12箇所で観測記録を更新した[3]。非公式ながら、鹿児島県下甑島の航空自衛隊ヘリ基地の観測では、27日の13時過ぎに最大瞬間風速88m/sを記録した[4]。日本全土に被害を及ぼし、死者62名、負傷者1,261名が出た。保険支払額は史上最高の5,679億円に達した[5]。 この台風は、雨による被害が目立たなかった反面、各地に猛烈な風による災害をもたらしたことから典型的な「風台風」であった。「韋駄天台風」となって日本海を猛進、西日本のみならず北日本などを襲った点や、台風の進路、風台風であった点などが、1954年に北海道に甚大な被害をもたらした洞爺丸台風と類似していた[6]。 移動距離が長い台風 順位 名称 国際名 年 移動距離 (km) 1 昭和40年台風第32号 Faye 1965年 8,753 2 第2室戸台風(昭和36年台風第18号) Nancy 1961年

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