Month: October 2017

信長の野望・嵐世記 – Wikipedia

『信長の野望・嵐世記』(のぶながのやぼう・らんせいき)は、2001年にコーエー(現・コーエーテクモゲームス)から発売された歴史シミュレーションゲーム。「信長の野望シリーズ」の第9作。「嵐世紀」は誤り。Windows版が発売された後に、Xbox(通常版(以下、無印)のみ)、PlayStation 2(以下、PS2)に移植された。「コーエーテクモ定番シリーズ」などの廉価版も発売されている。 信長の野望シリーズをはじめコーエー作品のパッケージイラストを多く手掛けている長野剛の画集『長野剛 人物イラストレーションワークス』(ISBN 4-7758-0433-2)では本作のパッケージイラストが初めに取り上げられている。 概要[編集] ゲームの目的は全国から大名を1名選択し(本作以降マルチプレイ不可)日本全土を統一することである。前作『烈風伝』までと同様に「武力統一」、つまり全国全ての城を自分の支配下に置くことによってクリアとなるが、それ以外にも『覇王伝』において採用された従属大名のシステムが復活したことで「同盟統一」、すなわちプレイヤーが全ての大名を従属させることによるクリア、および「従属統一」、すなわちプレイヤーが従属した大名が同盟統一することによるクリアも可能となった。なお本作では大名を従属させることはできるが、(対等な関係の)同盟は結べない。ただし姫を嫁がせ婚姻関係を結ぶことはできるので、これにより互いに攻め込まれる確率を下げられる。 ターンが大名の名声順(ただし従属大名は独立大名の後)に一ヶ月ごとに回ってきて、順番に命令を出すシステムになっている。前作に比べ登場大名や武将数が大幅に増加した。また今までの作品ではコンピュータ担当大名の配下に家臣が一人もいない場合、大名死亡時にはその大名の治める城は空き城になっていたが、本作では「遠縁」という設定の架空武将が後継者に迎えられ、大名の後継となる。また婚姻を結ばない限り、血縁以外の武将を後継者に指名できない(プレイヤー大名が、血縁不在の状況で死亡した場合、ゲームオーバーになる)。1700年を迎えても勝利条件を満たさないと、時間切れでゲームオーバーになる。 音楽は山下康介が担当した。音楽面では内政時の音楽は前作では大名居城のある地方に応じた曲が流れていたが、本作では大名の規模により曲が変わるようになった(ただし他家に従属中は規模によらず専用の音楽が流れる)。一方、合戦時には戦地の地形に応じた曲が流れる。 なお本作から初心者向けにゲームのチュートリアルがWin版にも搭載された(コンシューマ版では前作『烈風伝』のwithPKにもチュートリアルは搭載されていた)。 またPC版で本作から以降の作品に引き継がれることになったことは多数あり、 強制フルスクリーン化(『創造』からは強制ではなくなった) BGMの非CD-DA化(ゲーム時以外にサウンドトラックとして使うことができない) 戦闘リアルタイム化によるマルチプレイ不可 シリアルによるユーザー登録(=中古購入者はユーザーズページ利用不可) PlayStation 2に移植されるようになり、また移植時には改良されたり新要素が追加されるようになった などがある。 それ以外の細かいところでは、本作より(名目上の主人公である)織田家の家紋(織田木瓜)がそれまでの明るい青から濃い赤での表示に変更された。 本作のPC版においては発売直後にバグが多発したことで公式掲示板などで批判があった。PS2版withPKについてはある程度はPC版無印での不満点も解消されている。 なおソースネクスト版無印及びダウンロード販売版(2011年9月販売終了)については、たとえ新品で購入してもシリアルは付属しない。従ってユーザー登録はできないため、PKを別途入手してもパッチのダウンロードができない。それ以前にダウンロード販売版はPKのインストール自体ができず、またVista対応も行われていない。ただしソースネクスト版でもwithPKにはシリアルも付属している。

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ダコタ・ステイトン – Wikipedia

ダコタ・ステイトン(Dakota Staton、1930年6月3日 – 2007年4月10日)[1]は、アメリカ合衆国のジャズ・ボーカリストで、特にチャートの4位まで上昇した1957年のヒット曲「ザ・レイト、レイト・ショウ (The Late, Late Show)」で国際的に知られた。また、アフマディーヤのイスラム教に改宗して、アリーヤ・ラビア (Aliyah Rabia) というムスリム名を名乗った時期があった[2]。 ペンシルベニア州ピッツバーグのホームウッド(英語版)地区に生まれた彼女は、ジョージ・ワシントン高等学校(英語版)を経て[1]、ピッツバーグのフィリオン音楽学校 (Filion School of Music in Pittsburgh) で音楽を学んだ。その後、ジャズが盛んだったヒル・ディストリクト(英語版)で、ボーカリストとして活動し、ピッツバーグの地元で人気のあったジョー・ウェストレイ楽団 (Joe

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関門連系線 – Wikipedia

下関市の火の山から見た関門海峡。関門連系線と関門橋は、最も狭い早鞆の瀬戸の上空を横断している。関門橋の手前側に関門連系線の鉄塔が写っており、左側が第94号鉄塔、右側が第95号鉄塔である。 関門連系線(かんもんれんけいせん)は、関門海峡を横断し、九州の電力系統と中国地方の電力系統とを連系する送電線(連系線)である。交流500 kV(50万ボルト)2回線で、長さ(亘長)は64.2 kmである[1]。電源開発(J-POWER)子会社の電源開発送変電ネットワークが所有する。 関門連系線は、九州電力送配電の北九州変電所(北九州市小倉南区)と中国電力ネットワークの新山口変電所(山口県美祢市)とを結ぶ500 kV送電線であり、関門橋の北東側に並行する架空線で関門海峡を横断する[1]。2021年時点で、九州と本州とを結ぶ唯一の送電線である。 亘長は、64.2 kmであり、鉄塔は170基ある[1]。 関門海峡横断部は、第93号鉄塔から第96号鉄塔までの亘長1,872 mである[1]。北九州市門司区の第93号鉄塔と下関市の第96号鉄塔とが引留鉄塔であり、両鉄塔間に張り渡した電線の途中を懸垂鉄塔である第94号鉄塔と第95号鉄塔で吊り上げる構造となっている[1]。第94号鉄塔と第95号鉄塔の間(径間998 m)に関門海峡がある[1]。海峡上の電線は、最も低い部分でも海面から70.28 mある[1]。これは、隣接する関門橋の海面からの高さ63 mに、保安離隔距離7.28 mを加えた値であり[1]、関門橋の下を通過できる船舶は、関門連系線の下も通過できるように設計された。 関門連絡線[編集] 関門連絡線は、関門海峡を最初に横断した送電線であった。日本発送電が関門鉄道トンネル内に20 kVケーブルを設置し、1945年(昭和20年)6月、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)上山田炭鉱に60 Hzで送電を開始した[2]。 関門幹線[編集] 関門幹線は、福岡県小倉市(現・北九州市小倉南区)の西谷変電所と山口県の長門変電所とを結んだ亘長30.23

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商館 – Wikipedia

商館(しょうかん)は、開港場・開市場の主に外国人居留地と呼ばれた地域内に設定された宿泊場と倉庫を兼ねた商業施設である。特定国の商人が1つの商館内に共住を義務付けられて自由な外出・取引が許されず、現地の政府より特許を受けた現地商人のみが商館を訪れて交易を行うことが許された。 居留地そのものが現地の住民と外国人の自由な接触によってもたらされる様々な摩擦を回避するために、外国人を隔離する目的で設定したものである。商館の周囲には防壁が囲い、商館への人の出入りを監督する役人が派遣され、商館を設置している国側も商館内の管理を行うための役人を常駐させて、滞在する商人はその指示に従う義務があった。 商館のルーツはヘレニズム時代に遡り、インドにはギリシア・ローマによる商館施設があったとされている。11世紀には、イスラーム系のフンドゥクと呼ばれる商館がファーティマ朝の領土をはじめとして地中海に作られ、旅館と倉庫を一つにしたような構造を持っていた。この他にハーンやカイサリーヤなどの同様の機能の施設があった。12世紀のヨーロッパのフォンダコは、フンドゥクを語源としている。フォンダコはイスラーム勢力圏との接点にあったシリアとシチリアに出現したとされ、ヨーロッパから近東一帯に設置されるようになった。アレクサンドリアにはアラビア人の商館、ヴェネツィアにはドイツ人の商館が設置された。ドイツ・ハンザ同盟のコントール(Kontor)、南ドイツのカウフハウス(Kaufhaus)も同様の施設である。ハンザ同盟が設置したロンドンのスティールヤードやノヴゴロドの聖ペテル館はよく知られていた。大航海時代以後にはアジア各地に商館が設置された。ポルトガルによるゴア・マカオの商館や、オランダの長崎商館、イギリスの広州・上海商館などはその代表例である。ヨーロッパでは19世紀の自由貿易の台頭によって商館の意義は薄れて消滅していくが、アジア・アフリカでは以後もインドや中国、開国以後の日本の開港地などをはじめとして各地に設置され、先進国による海外進出の拠点として機能した。 参考文献[編集] 宮下孝吉 「商館制度」(『社会科学大辞典 第10巻』 鹿島研究所出版会、1975年) M・N・ピアスン 『ポルトガルとインド 中世グジャラートの商人と支配者』 生田滋訳、岩波書店〈岩波現代選書〉、1984年。 安野眞幸 『港市論―平戸・長崎・横瀬浦』 日本エディタースクール出版部、1992年。 関連項目[編集]

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マンローランドゴスウェブシステムズジャパン – Wikipedia

マンローランドゴスウェブシステムズジャパン株式会社は、新聞及び商業オフセット輪転機及び関連機器の設計・製造・販売・サービスを行うメーカー。旧社名は、株式会社ゴスグラフィックシステムズジャパン。米国ゴスインターナショナルのグループ会社として設立され、”GOSS“のブランド名として知られる。海外のグループ各社と連携を取った印刷技術を提供している。 株式会社ゴスグラフィックシステムズジャパンは、1885年創業の米国の総合印刷機械メーカー、ゴス・インターナショナルのグループ会社として1972年に設立された。国内外の印刷機械市場に商品やサービスを提供している。ロックウェルグループに買収され、ロックウェルグラフィックシステムズと社名を変更した。その後、一時ゴスに戻る。収益の悪化や新聞市場の縮小に対応できなかった結果、三菱重工、東京機械製作所にシェアをどんどん奪われいった。環境変化への適応によった希望退職をつのったが、逆に優秀な人材は辞めて行ってしまい、さらにビジネスチャンスとビジネスモデルを構築できずに苦しむ結果となった。工場縮小や売却転地、新規に輪転機を製作する機能を失った結果、現在は部品販売とこれまでなんとか残っている既存の顧客へのアフターサービスで糊口をしのぐいったカスタマーサービスを主力とする組織体系と、小モデルでのビジネス販売とした商業印刷に手を広げる体系となっている。現在では、それも限界を迎えを最終的にはマンローランド社に買収されて、マンローランドゴスウエブシステムズジャパン株式会社として、存続を保っている。 Goss Graphic Systems Japan Inc. was established in 1972 as a group company of Goss International, an American

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森川太地 – Wikipedia

森川 太地(もりかわ たいち、1975年2月25日 – )は、日本のビーチバレーボール選手。神奈川県横浜市出身。出身校は日本航空高等学校および専修大学。身長190センチメートル、体重78キログラム。1999、2000ビーチバレージャパン2連覇ならびに2年連続日本ランク1位。日本代表として主に海外を転戦。2003年に引退。ビーチバレーボランティアクラブチームFOVAキャプテンとして、藤沢市鵠沼海岸で年間30大会草ビーチバレー大会の運営に参加。(2008/11/1現在) 国内戦歴[編集] その他[編集] 海外戦歴[編集] 2008 Chennai IND Nishimura 7 800 0 20 2008 Stare Jablonki POL

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夜会 – Wikipedia

この項目では、中島みゆきが1989年から行っている舞台について説明しています。TBSテレビのテレビ番組については「櫻井・有吉 THE夜会」をご覧ください。 夜会(やかい)とは、字義通りには夜に開かれる舞踏会や晩餐会のことを指すが、以下では、シンガーソングライターの中島みゆきが1989年から行っている舞台について述べる。 コンサートでもない、演劇でもない、ミュージカルでもない「言葉の実験劇場」をコンセプトとして、1989年に開始した。1998年までは毎年開催されていたが、スケジュール上の都合で、現在は不定期開催である[注 1]。開催場所は2004年までの13回は、一貫して渋谷のBunkamura・シアターコクーンで、Bunkamuraの主催事業(オフィシャルサプライヤーシリーズ)として開催されていたが、2006年の公演は、青山劇場で行われ、また同公演からは大阪のシアターBRAVA!でも開催されるようになった。2008年11月 – 12月の夜会VOL.15からは東京については赤坂ACTシアターで開催されている。現在は東京公演はTBSテレビ、大阪公演は毎日放送の主催で行われる。 シアターコクーン時代はチケットの入手が非常に困難だったことでも知られる。席種によっては1万円を超えるチケットもあり、当時としては通常のコンサートよりも高価であった。また開演が20時、終演が22時40分頃と通常の音楽公演よりも遅かった。小学生以下の入場は禁止されている。 夜会のオリジナル曲の一部は、中島のオリジナルアルバムに収録されることがある[注 2]。また、夜会曲のみで構成されたオリジナルアルバムもある[注 3]。 開始当初は明確な主題が存在せず、それまで中島が行ってきた通常のコンサートの延長線的存在であったが、1991年からは古典(故事)や日本神話などに着想を得た内容となり演劇色が強くなり、1994年からは完全なオリジナルストーリーとなった。また、舞台上で歌われる曲は当初は中島が1993年までに発表した楽曲と各回毎に書き下ろされた少数のオリジナル曲で構成されていたが、1995年からはテーマ曲である『二隻の舟(二雙の舟)』を除き、全て各回毎に書き下ろされたオリジナル曲で構成される様になった。 2013年よりそれまでの夜会で歌われた楽曲を披露するガラコンサート『夜会工場』を始める。現在VOL.2まで開催されている。 シアターコクーンで上演されていた頃は、非常に大掛かりな舞台装置を使用したことでも知られている。 舞台の床を一度撤去してその回のために用意された床を設置する 舞台上に本物の雪を降らせる(Vol.3) 本物の水を用いて舞台上に雨を降らせる(Vol.5) 夜会1989と夜会1990では、バンドもステージの上で演奏していたが、VOL.3からは床下にオーケストラピットの様な空間が設けられ、その中で演奏するという形態に変わる。 公演一覧[編集] 夜会

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ジョルジュ・グルンツ – Wikipedia

ジョルジュ・グルンツ[1](George Gruntz、1932年6月24日 – 2013年1月10日)は、スイスのジャズ・ピアニスト、オルガニスト、ハープシコード奏者、キーボード奏者、作曲家[2]。ジョルジュ・グルンツ・コンサート・ビッグ・バンドや、フィル・ウッズ、ラサーン・ローランド・カーク、ドン・チェリー、チェット・ベイカー、アート・ファーマー、デクスター・ゴードン、ジョニー・グリフィン、メル・ルイスなどとの共演で知られる。 スイスのバーゼルで生まれたグルンツは、多くのオーケストラや交響楽団からの依頼を受ける、熟練したアレンジャーおよび作曲家でもあった。1972年から1994年まで、彼はベルリン・ジャズ・フェスティバル(JazzFest Berlin)の芸術監督を務めた。 ディスコグラフィ[編集] リーダー・アルバム[編集] Mental Cruelty: The 1960 Jazz soundtrack (1960年) 『ジャズ・ゴーズ・バロック』 – Bach Humbug! Or

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タトラK2S – Wikipedia

タトラK2Sは、スロバキアの首都・ブラチスラヴァのブラチスラヴァ市電を走る路面電車車両。1970年代から1980年代にかけて導入された2車体連接車のタトラK2を改造した車両である[1][2][3][4]。 概要・運用[編集] ビロード離婚を経て分離したチェコやスロバキア各都市の路面電車では、財政難の影響から車両の新造が抑えられた一方、既存の車両の車体や機器の更新が積極的に行われるようになった。その1つが、ブラチスラヴァ市電に1975年から1983年に導入された2車体連接車のタトラK2を改造したK2Sである。1998年以降、以下のような改造工事がパルス・ノヴァ(Pars Nova a.s.)によって行われた[1][4][5][6]。 車体修繕・更新 – 長年の使用で老朽化が進んでいた車体や構体に対し、腐食対策を含めた修繕が実施された。また、一部車両についてはT2と同型の車体を新造した上で交換された[1][2][5][6]。 乗降扉の変更 – 最初に更新された6両(7101 – 7106)は乗降扉の形状が両開き(プラグドア)に変更されたが、以降に更新された車両は両開き・2枚折戸式となった[1][2][5]。 運転室の変更 – 前面をグラスファイバーを用いた新造構体に交換した。デザインはインダストリアルデザイナーのパトリック・コタス(チェコ語版)が手掛けている。また運転台には従来の暖房に加えて冷房装置が追加された他、速度制御の方法が足踏みペダルからハンドルに変更された[1][3][4]。 内装の更新 – プラスチック製の座席が滑り止めも兼ねた布張り構造に変更された他、車内照明用の蛍光灯も交換され、車内案内表示装置も設置された。座席下部に設置されていたヒーターは側壁に移設され、性能も強化された[5][3]。 制御装置の交換

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團紀彦 – Wikipedia

だん のりひこ 團 紀彦 生誕 (1956-02-11) 1956年2月11日(66歳) 日本 神奈川県 出身校 東京大学 職業 建築家 子供 團遥香(タレント) 親 團伊玖磨(父、作曲家) 親戚 團琢磨(曾祖父、実業家)上野季三郎(曾祖父、官僚)團伊能(祖父、実業家)團勝磨(大叔父、生物学者)團名保紀(兄、美術史家) 表参道Keyakiビル(中央)

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