Month: January 2018

松平忠学 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “松平忠学” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年10月)   凡例 松平忠学 時代 江戸時代後期 生誕 天明8年7月19日(1788年8月20日) 死没 嘉永4年7月10日(1851年8月6日) 改名 栄次郎(幼名)、忠学、松翁

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二条師基 – Wikipedia

二条 師基(にじょう もろもと)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。関白・二条兼基の子。官位は従一位・関白(南朝)。 南北分裂後は南朝方に属し、正平一統の際には後村上天皇の下で関白を務めるなど、南朝政権における重鎮の一人であった。 父は関白・二条兼基。母は源兼任の娘である。父について、『公卿補任』正和元年(1312年)の条は、兼基の子である道平とする一方で、兼基が死去した建武元年(1334年)の条では、道平と師基が8月22日に「父」の喪に服した旨が記されている。また、道平と師基の年齢差を考えても親子より兄弟とした方が自然である。また、正応2年(1320年)に道平に嫡男良基が誕生して以後、師基の昇進が緩やかになったことが指摘されており、良基誕生以前は二条家の後継者として扱われ、道平の猶子として位置づけられていたと考えられる[3]。以下では、兼基を父、道平を兄として解説する。 鎌倉幕府の滅亡と建武中興期[編集] 応長元年(1311年)6月15日、11歳で元服、従五位上に叙され、禁色・昇殿を許される。文保2年(1318年)に後醍醐天皇が即位した時点で、正二位権大納言となっていた。後醍醐は鎌倉幕府の打倒を目指し、元弘元年(1331年)、元弘の乱が勃発。元弘3年/正慶2年(1333年)5月7日に六波羅探題が陥落した後、九州における幕府の重要拠点である鎮西探題を攻略するため大宰権帥に任ぜられ、軍を率いて九州へ向かうが、鎮西探題は既に少弐貞経、大友貞宗ら九州の御家人によって5月25日に陥落しており、大宰府において尊良親王を中心として戦後処置が行われていた。師基は大宰府で尊良を補佐した。 大宰権帥となった師基は、長門国守護を兼任したという説がある[4]。重要史料である「長門国守護職次第」[5]には、鎌倉時代最後の守護である北条時直(元弘3年(1333年)5月26日降伏)の後、建武中興期に後醍醐天皇によって守護に任じられ建武元年(1334年)5月10日に入部した厚東武実の前に、「輔大納言」という人物が守護であったことを記載する。この人物について、当時、権大納言であり筑前国の大宰府にいた二条師基が相当する可能性はあるが、万里小路宣房[6]または地元豪族である豊田氏の一族[7]とする見解もある。 なお、建武2年(1335年)2月4日、建武政権で内覧左大臣を務めていた兄の道平が49歳で没している。 足利尊氏の反乱[編集] 建武2年(1335年)、足利尊氏が関東で反旗を翻し京へ攻め上ってくると、後醍醐の失政に不満をもつ諸国の武士もこれに呼応し蜂起する。京では防御態勢が整えられ、師基は西北の山陰道方面の守りを任せられて、証月坊慶政開基の法華山寺(京都市西京区御陵峰ヶ堂)に布陣する。しかし、同3年(1336年)1月8日、但馬・丹後の兵を率いた久下時重らに撃破され、大枝山が占拠された。この軍勢は、新田一族の江田行義の軍によってその日のうちに追い払われたが、結局、その年の5月に京都は足利軍に奪われ、天皇とその軍勢は比叡山に籠った。6月に入ると比叡山は東西から繰り返し攻められるが、新田義貞等の奮闘により防衛に成功する。足利軍の士気が低下したのを見て、建武政権軍は6月30日に反攻に転じ、京都市中に侵攻するが撃退される。『太平記』によると、この失敗により意気消沈していたところ、7月5日、二条師基が加賀・越前の軍勢を率いて建武政権軍に合流したことで再度奮起し、第2回・第3回の京都市中への攻撃を実行、師基も兵を率いて参戦する。しかし、いずれも撃退され、膠着状態になったところで足利尊氏と後醍醐との和睦へと物語は展開する。しかし、この3回に渡る京都侵攻作戦は、『梅松論』『常楽記』が6月30日の出来事として記すもので、『太平記』ではストーリー構成上、この日の戦いを3分割して描いていると推定されている[8]。 和睦成立後、比叡山にいた建武政権軍の大部分は、後醍醐と共に京都へ帰る者と、皇太子恒良親王を奉じて新田義貞と共に越前へ下る者とに分かれたが、師基はどちらにも加わらず、中院定平らと共に河内国へ落ちのびた。後醍醐は京都で幽閉されるが、12月21日に脱出に成功し、吉野において朝廷(南朝)を開く。こうして南北朝時代が始まり、師基は翌4年(1337年)1月に吉野に到着し、始めて参内している。二条家は、甥の二条良基が北朝に、叔父の師基が南朝に仕えたため、両家に分裂した。 師基は、延元4年/暦応2年(1339年)に後村上天皇が即位した時点で内大臣、その後、左大臣に任じられた。 観応の擾乱と正平の一統[編集] 正平5年/観応元年(1350年)、北朝方(幕府)の内部抗争である観応の擾乱が勃発する。劣勢に陥った足利直義は南朝方の力を借りて挽回を図ろうと12月に南朝に降伏を申し入れる。この対応をめぐって重臣らで議論がなされた。洞院実世は偽りの投降と見抜き、降伏の受け入れに反対、むしろこの機会に直義を討伐して北朝方の戦力を削減させるべきと主張する。これに対し、師基と北畠親房は受け入れに賛成し、直義派との合同により南北朝間の形勢逆転を図ることを主張した。その結果、後村上天皇は直義の降伏を受け入れ、12月13日に勅免の宣旨を下した。この決定を受けて、南朝方諸将は足利直義軍に合流し、翌年(1351年)1月、足利尊氏・高師直軍と交戦してこれを撃ち破るも、直義は京を制圧するや直ちに南朝から離反する。尊氏と直義は和睦をするが、両者間の火種は燻り続け、尊氏方・直義方・南朝の三つ巴状態に戻った。 次に南朝に降伏を申し入れてきたのは足利尊氏であった。南朝側首脳陣は、直義の裏切りを教訓にして今回は慎重にならざるを得なかった。しかし、一時的な偽降を逆手にとって、尊氏が直義を討伐するため京を離れている間に、京都を奪還し北朝を吸収し解消してしまう計画を立てたうえで、10月24日付で尊氏に対し勅免および直義追討の綸旨を下した。尊氏が京を発った後、北朝の崇光天皇を廃位し、関白二条良基の職務を停止し、南北両朝から一定の信頼を受けていた洞院公賢を左大臣に任じ京における公事を委ねた。そして、12月28日に師基は関白に任じられた。正平7年/観応3年(1352年)閏2月、関東と畿内において北朝軍と交戦を開始、19日に後村上天皇が男山(石清水八幡宮)まで行幸し、そこに留まった。北朝軍の反攻が厳しくなり、5月11日に男山が陥落、後村上は河内へ撤退するが、追撃も激しく撤退戦において南朝軍は多くの犠牲を出し、その中には、師基の次男教忠も含まれていた[9]。 南朝が撤退にあたって光厳院・光明院・崇光院の3人の上皇と、前皇太子の直仁親王を連れ去ったため、京都には、次期天皇となるべき皇族も、次期天皇の指名権を持つ治天も不在となり、北朝は消滅の危機に瀕した。幕府関係者や貴族たちが北朝復活のために奔走し、光厳院の母広義門院を治天に擬し、その意向として二条良基が関白に復任し、さらに治天として皇位継承者を指名する権限を行使して、光厳院の子息後光厳天皇が即位することになった。南朝方はこれを良基の策動と見なして、正平8年/文和2年(1353年)に京都を一時再占領した直後の7月11日、良基が逃亡して不在となっていた二条邸にある二条家歴代の家記文書を没収して師基に与えた[10]。またこの頃、北朝方にいた経家(左大臣近衛経忠の子)が南朝に降り、時期は判然としないものの、間もなく師基は経家に関白職を譲ったとみられる。 晩年[編集] 正平14年/延文4年(1359年)6月17日に59歳で出家。 正平15年/延文5年(1360年)4月25日、大塔宮護良親王の子で南朝方の興良親王(大塔若宮)が、赤松氏範らと共に南朝の本拠である賀名生(あのう)行宮を襲撃。翌日、「二条前関白殿」が大将軍に任ぜられて反撃を開始し、3日後に鎮圧した。興良親王は逃したものの、反乱軍のほとんどの兵は討ち取り、あるいは捕らえることに成功した。また、正平16年/康安元年(1361年)12月、細川清氏・楠木正儀らと共に、「二条殿」が京都の奪還作戦に参加している[11]。この両年の「二条前関白殿」「二条殿」については、師基に比定するのが一般的だが、もし出家した師基であれば、「入道前関白殿」などと書かれるべきであるため、息子の教基に比定する説も無視し難い[12]。ただし、同年頃に書かれたと推定される後村上天皇消息には「禅閤」が病気であったと見えており[13]、この「禅閤」は師基のこととしてほぼ間違いなかろう。

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韓浩 – Wikipedia

韓 浩(かん こう、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。曹操に仕えた。司隷河内郡の人。字は元嗣。養子は韓栄。妻は杜氏か。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」、およびそれが引く『魏書』に多くの記述がある。屯田制を提唱した優れた政治家として伝わるが、『演義』では韓玄の弟で愚鈍な武将の設定である。 夏侯惇に見出される[編集] 後漢末の戦乱の中、故郷の県が山岳地帯に隣接していたため、韓浩は人を集めて盗賊から県を自衛した(『魏書』)。 後に王匡から従事に任命され、董卓を討つため兵を率いて孟津に出兵した[1]。董卓が、河陰県令であった妻の父の杜陽を人質にして韓浩を招いたが、彼は応じなかった。この話を聞いた袁術は韓浩の態度に感心し、韓浩を招いて騎都尉とした(『魏書』)。 その後、韓浩の名声を聞いた夏侯惇は彼との面会を要望し、韓浩を大いに評価した。夏侯惇は韓浩に兵を率いさせ、征伐に随行させた(『魏書』)。 興平元年(194年)、呂布との戦いで夏侯惇が人質となった際には、主のいない軍をまとめ、かつ夏侯惇を人質にした者に対し厳しい態度で臨み、夏侯惇には国法を守るため、見殺しにすることを涙ながらに詫び、そのまま攻撃を加えた。夏侯惇を人質にしていた者が叩頭して謝罪したが、韓浩は赦さずに斬り捨て、夏侯惇を救出した。この態度は曹操に称えられ、韓浩のやり方はそのまま法律として用いられた。以後、人質を使う者が後を絶ったという。 曹操の護軍として[編集] 建安元年(196年)、曹操が政治について議論を行わせた時、韓浩は棗祗と共に屯田を急いで行なうよう提言したため、曹操に喜ばれ護軍への昇格を果たした(『魏書』)。 韓浩は領軍の史渙と共に忠義と武勇によって名を挙げ、列侯に封じられた。 建安12年(207年)、曹操が烏桓を討つため柳城まで遠征しようとした時、史渙は遠征に消極的であったので、韓浩と相談し協力して曹操を諌めようとした。しかし韓浩は「殿が計画を発動する時、そこに遺漏は無い。私とあなたは中軍の指揮官なのだから、兵士の士気を削ぐ様な事をすべきではない」と逆に史渙を説得した。韓浩は曹操に随行して功績を立て、官号を中護軍に改められ、配下に長吏と司馬をつけることを赦された(『魏書』)。 建安20年(215年)、曹操が漢中の張魯討伐に遠征すると、韓浩もそれに従軍した。張魯を降伏させた後、諸軍を統括し漢中を鎮守する者として、智略に優れた韓浩を推す声が強かったが、曹操は「わしが護軍無しにはできぬ」と難色を示し、供に帰還した(『魏書』)。漢中の軍事は杜襲が統括することとなり、夏侯淵と張郃が守将となった。 曹操は韓浩を大いに信任していたので、彼が病死するとその死を惜しんだ。韓浩には子がなかったので、一族の韓栄が養嗣子として後を継いだ(『魏書』)。 演義での韓浩[編集] 小説『三国志演義』では、当初は博望坡の戦いで夏侯惇の部下として登場し、劉備軍の諸葛亮の火計に敗れている。後に漢中攻防戦で夏侯淵配下の武将として登場するが、このとき長沙太守韓玄の弟として紹介される。劉備軍に投降していた黄忠が、自分の兄を殺害したと思いこみ、張郃や夏侯尚と共に兄の恨みを晴らすべく、黄忠・厳顔を攻める。しかし、逆に敵の策にかかり敗走し夏侯徳の陣に逃げ帰っている。最後は、そこに出陣してきた黄忠に対し一騎討ちを挑むものの、逆に討ち取られてしまう。 ^ 王匡自身も河陽津に出兵した(「董卓伝」)

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ソ連運輸省ER1形電車 – Wikipedia

ER1形(ロシア語: ЭР1)[1]は、ソ連運輸通信省(МПС СССР, Министерство путей сообщения СССР)が1957年から導入した直流電化区間用電車(エレクトリーチカ)である。 ソビエト連邦では1920年代後半から電化路線における通勤・近郊運用に用いる電車の開発が始まり、1929年からその第一世代であるS形電車が運用を開始した。しかし、S形の最高速度(85km/h)や起動加速度(1.45km/h/s=0.45m/sq)では次第に乗客増加に対応出来なくなった事から、1954年からは新型モーターやサスペンション式のボギー台車を採用し、最高速度を130km/hに引き上げたSN形電車の製造が行われた。だが、これらの電車のMT比は1:2(1M2T、もしくは2M4T)と低く、加速度や編成重量が大きな課題となっていた[2]。 そこでリガ車両製作工場は、リガ電動機製造工場やディナモ電機工場と協力し、これらの欠点を改善した新型車両・ER1形を開発した。1957年に試作車である10両が製造され試験運転が行われた後、1958年からSN形電車に代わって量産が開始され、1962年までに10両編成259本および先頭車4両が製造された[2]。なお1959年以降の製造車両のうち、付随車や制御車についてはトヴェリ車両工場で製造が行われた[2]。 ER1形は制御車+電動車、もしくは付随車+電動車のMT比が1:1となる2両1ユニットを基本としており、最短6両、最長12両まで編成を組む事が可能となっている。編成内の電動車の比率が増加した事で、加速度は2.16km/h/s(0.6m/sq)、営業最高速度110km/h、設計最高速度は130km/hと大幅な速度向上が実現した[3]。車体についてもSN形電車から300mm程長くなっているがモノコック構造を採用した事から10%の軽量化が行われている[4]。 扉は高床式プラットフォームに適した構造になっていたが、低床式ホームへの対応に難があった事から1962年以降に製造されたER2形電車では双方に対応した扉部の構造に変更されている[3]。 10両編成時の編成表(画像はER2形) 形式[編集] 形式名の「ER1」(ЭР1)は、「リガ車両製作工場(Р)で製造された第1世代の電車(Э)」と言う意味である。 また、これとは別にリガ車両製作工場では62-11と言う番号で呼ばれていた他、車種によって以下の形式番号が付けられている。 62-12 – 中間電動車(Мп)。日本国有鉄道における電車の形式称号で言う「モハ」に該当する。 62-13 –

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マーシャル・ラーナー条件 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年5月) マーシャル・ラーナー条件(英: Marshall-Lerner condition)は、一国の実質為替レートの下落がその国の貿易収支を改善させるかどうかについての条件式を与えるものである。経済学者アルフレッド・マーシャルとアバ・ラーナーによって提唱された。 経常収支 CA{displaystyle CA} は輸出額 EX{displaystyle EX} と輸入額 qEX⋆{displaystyle qEX^{star }} との差である。 q{displaystyle q} は実質為替レートであり、 EX⋆{displaystyle EX^{star

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山川麻衣子 – Wikipedia

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協材興業 – Wikipedia

協材興業株式会社(きょうざいこうぎょう、英文名:Kyozaikohgyo Co.LTD.)は、日本国内発生スケールの約70%以上を取扱う国内最大手のスケールリサイクル企業である。 1951年(昭和26年) 協材興業株式会社創立。本社(大阪)・大阪事業所・姫路出張所を開設。富士製鐵(現・日本製鉄)広畑製鐵所のスケール使用開始時における最初のスケール専門直納問屋に指定される。 1955年(昭和30年) 東海市北部企業団地内に名古屋出張所開設(現・名古屋事業所)。中部地区発生スケールを一手に取扱集荷並びに販売。 1963年(昭和38年) 富士製鐵、川崎製鉄(現・JFEスチール)、住友金属工業等高炉各社のスケール直納問屋に指定されスケール事業を全国展開する。 1964年(昭和39年) 東海製鐵(現・日本製鉄)名古屋製鐵所構内にスケール処理工場新設。 1969年(昭和44年) 名古屋事業所に造塊スラグ処理工場新設。 1971年(昭和46年) 新日本製鐵(現・日本製鉄)大分製鐵所構内に大分作業所を開設(現・大分事業所)。スケール選別並びに蛍石破砕作業を開始。 1972年(昭和47年) 大同特殊鋼知多工場構内にスケール処理工場新設。 1975年(昭和50年) 本社を東京に移転、東京営業所を開設。 1976年(昭和51年) 新日本製鐵(現・日本製鉄)名古屋製鐵所構内に転炉スラグ処理工場新設。スラグ砕石一手販売。

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細見彰 – Wikipedia

細見 彰(ほそみ あきら、昭和18年(1943年)3月 – 平成30年(2018年)9月9日)は日本の化学者(有機化学・有機金属化学・有機合成化学)。筑波大学名誉教授。 学習院大学客員教授。京都薬科大学客員教授。中央大学客員教授。日本化学会フェロー。 細見・櫻井反応 (the Hosomi-Sakurai reaction)の発見者として著名。有機合成化学、有機金属化学、有機ケイ素化学に関する和洋著書や論文多数(細見彰ホームページ参照細見彰 HP)。大阪府吹田市千里山出身。晩年は京都市中京区に居住。 吹田市立千里第二小学校、吹田市立第一中学校、大阪府立茨木高等学校、 京都大学工学部、同大学院工学研究科博士課程、東北大学理学部化学科助教授(この間 カリフォルニア大学サンディエゴ校博士研究員)を経て、 長崎大学薬学部教授、 筑波大学化学系教授、筑波大学化学系長・評議員、筑波大学大学院化学研究科長、筑波大学大学院理工学研究科長、筑波大学大学院数理物質科学研究科長・評議員(この間、分析センター長、アイソトープセンター長、ベンチャービジネスラボラトリー長等を歴任)、 大学評価・学位授与機構教授、 学習院大学客員教授、 京都薬科大学客員教授、現在 中央大学客員教授、

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カンガセイロ – Wikipedia

カンガセイロ(Cangaceiro)は、19世紀末からブラジル北東部で活動した盗賊の総称。農村社会からの逃亡者が盗賊団(カンガッソ)を編成し、武装して無差別に農村部を略奪した。しかし有力なカンガセイロの中には大土地所有者をも標的とした者がおり、彼らは農奴同然の生活を送る農場労働者から義賊として扱われた[1]。活動の最盛期はランピオンの登場した1920年代から30年代までとされている[2]。 時代背景[編集] 農村の状況[編集] ブラジルは1891年に君主制から共和制に転換したが、デオドロ・ダ・フォンセカ大統領は、副大統領フロリアーノ・ペイショトの敵意と、国家の権力集中を嫌う大農園経営者たちの反発を受けて辞職した[3]。以降の政権は軍部と大農園主たちの支持によって成立する政権となり、政府の権限はリオデジャネイロやサンパウロといった都市部に留まって、ブラジルの広大な「地方」はコロネル(大佐の意)と呼ばれた大農園主が支配する「王国」のまま残された[4]。そのため共和制に移行しても、人口比4%の大農園主が農耕地の60%を所有する状況[4]に変化はなく、土地を持たず農園で働かせられる労働者の生活も改善されなかった。特にブラジル北東部では旧来の大土地所所有制度(ファゼンダ)が温存された。その上、フォンセカ政権が工業生産や商取引の増加を過大に見込んで紙幣を乱発した[5]ため、庶民は搾取とインフレーションに苦しめられていた。 ブラジル北東部[編集] この状況でも海外で消費されるコーヒーやゴムが生産可能な南東部は収益をあげられたが、乾燥地帯の多いブラジル北東部では牧畜やトウモロコシ、綿花など旧来の作物に頼らざるを得なかった[6]。それらの主な消費者は商品作物を生産する労働者であり、国内での消費に留まったため収益性は乏しかった[4]。さらにその痩せた土地を農園主たちは私兵を雇い入れ奪いあい、特に有力な大農園主の元でファミリーを形成して抗争に明け暮れるようになる。中央の権限の及ばない地方では労働者の権利は無視され、武力を背景に報酬は最低限に切り詰められた。結果、余力のなくなった農場労働者たちに1889年、1898年、1900年、1915年と相次いで起こった旱魃が直撃し、餓死者や、豊かな南東部やゴムの特需に沸くアマゾンへの逃亡者が相次いだ[4]。また秘教的信仰を説く一派がカトリックや国家から離れ、バイーア州カヌードスで共同体社会を形成すると、一部の労働者もそれに合流した[7]。それらの農園からの脱落者の中で、アウトローと化して集団で農村を襲撃するようになった集団がカンガセイロと呼ばれる盗賊たちだった[7]。カンガセイロの語源は、ポルトガル語で「盗賊」を意味する「Cangaceiro」がそのまま定着したものである。 カンガセイロの主な活動地域 カンガセイロは、大土地所有者に搾取される農園労働者たちを母体としたが、北東部で顕著にカンガセイロが活動したのは、土地が貧しく農業から脱落した労働者が多いことと、その気風に拠っている。弱体な地方権力により労働者たちは法の保護を受けられず、治安機構も大農園主たちと癒着していたために労働者は公権力を信頼していなかった。そのため、自分たちの共同体に関わる問題は法に委ねず、私的制裁で解決する傾向が強い[6]。しかし私兵集団を持つ大土地所有者への報復は、労働者には果たせない難事であった。その鬱屈を抱える労働者にとって、時として大土地所有者をも襲う一部のカンガセイロは私的制裁の代行者とみなされた[8]。そのため庶民の間で実像とは異なる「神話」が形成され、特にランピオンは義賊として人気を獲得している。また現在も不平等はブラジルに未解決のまま残された課題のため、カンガセイロは単なる無法者ではなく義賊として、度々再評価の対象になっている[8]。 著名なカンガセイロ[編集] アントニオ・シルビーノ[編集] 後列左から二番目に立っている人物がアントニオ・シルビーノ 最初にカンガセイロとして有名になったのはアントニオ・シルビーノであり[1]、1896年から1914年の長期間にわたって大農園を襲撃し続けた。シルビーノは読み書きの教養がある富農の出自だったが、殺害された家族の復讐のためにカンガセイロに参加した。シルビーノはやがて頭目となり、略奪以外にも農地の境界線策定の調停、労働者の家族の保護者として振る舞った[9]。一躍その名が知られたのは鉄道会社が敷設を進めていた電報網への襲撃で、国家権力への抵抗者と周囲からは見做された。一方では近年の研究により、シルビーノが地元の大土地所有者の庇護下にあったことが判明している。シルビーノによる他の大土地所有者への攻撃は、権力者同士の抗争への加担でしかなく、収奪した成果の一部が貧しい者に与えられたという伝説とは異なり、雇い主の大土地所有者に納められていた[10]。1914年に逮捕されたがそれらの事情により1937年に恩赦釈放され、カンガセイロとしては珍しく生を全うしている。このようにシルビーノの実像は「神話」とは異なっていたが、それでも襲撃先の婦人や娘には手を出さないことで知られ、貧者からの略奪も同時代のカンガセイロの中では極めて少なかったため、義賊として擁立される余地は有していた[11]。 フリスコと妻のダダー 中央がランピオン、右が妻のマリア・ボニータ 以降、シルビーノの後にもカランゴ、モロソー、コリスコといったカンガセイロが登場するが、それらの中で最も悪名高いのが1920年代に全盛を迎えたランピオンであり、前述のモロソー、コリスコの二人はランピオンの盗賊団に吸収されている。ランピオンは最盛期には100名を超える盗賊団を率いて、ブラジル北東部を蹂躙した。 ランピオン[編集] 1936年から1937年にかけてのランピオン ランピオン(Lampião)、本名ビルグリーノ・フェレイラ・ダ・シルバは、1897年にペルナンブーコ州ビラ・ベラで4人兄弟の長男として生まれる[11]。シルバ家は土地を持つ農家であったが、隣のサトルニノ家はそれを遥かに上回る大土地所有者であり、シルバ家の土地がサトルニノに狙われたことで対立が激化した。ビルグリーノの父ホセは温和な性格で暴力を避けたが、1921年、サトルニノ家は地方警察の署長を買収してホセを殺害させた。父の死を切っ掛けに、ビルグリーノは三人の弟とともに地元のカンガセイロに参加する。ビルグリーノはたちまちのうちに頭角をあらわし、1922年の独立時点ではすでに50名を数える盗賊団の領袖となっていた[12]。この当時のビルグリーノの目的はあくまでも復讐であり、略奪の対象は富豪に限られ、その際にも必要以上の殺害は行われなかった。同年、ビルグリーノは父の場所を密告した男を射殺し、翌年には警察の幹部や署長を相次いで殺害している。その際に銃をすさまじい早さで撃ち続け、周囲が真昼のように明るくなったことからビルグリーノは「大きなランプ」と渾名された。大きなランプをポルトガル語で発音すると「ランピオン」であり、それ以降ピルグリーノはランピオンを名乗る[13]。 しかし、ランピオンの一貫した復讐者としての行動はここで途絶える。1924年にはランピオンは無差別な強盗と残虐な殺人を無意味に繰り返し、サトルニノ家への復讐は顧みられなくなった[13]。目的を失って暴走するランピオン一家だったが、それでも1926年にはアウトローの世界から政府側の立場に回る好機があった。当時、ブラジルの連邦議員の間で地方の治安を守るため、警察や軍隊ではない治安組織を形成しようとしていた。連邦議員はランピオンをその組織に抱き込むことで、無差別略奪の停止と実行力のある武力を獲得しようとした。しかし当初はランピオンも乗り気だったこの試みは、仲介にたったシセロ神父との連絡がうまくいかず頓挫してしまう[14]。 カンガセイロの世界に戻ったランピオンはその無差別な略奪と殺人を再開し、パライバ州、ペルナンブーコ州、アラゴアス州を荒らしまわった。特に1926年は自制を失っており、兵士や役人をも殺害して州の怒りを買い、さらには中傷が書かれた手紙に激怒して差出人と見做されたギロ家を皆殺しにした事件を起こしている。手紙が仲間の偽造であったことに気づいたのは、事件の後だった。この時期、その残虐さによってランピオンは100人以上の手下を持つに至ったが、同時に州政府にとって確実に殲滅しなければならない勢力となっていた。11月に州政府は300人の軍隊を派遣したが、ランピオンが地勢を知り尽くしたセラ・グランデ山付近での争いとなり、逆に軍隊の方が打ち破られた[15]。それでも州当局の熱意は揺るがず、1927年から翌年にかけて、ランピオンは警察隊と軍隊に常に追い立てられた。もはや襲撃どころか息を潜めるしかできなくなり、1928年にランピオンは従来の拠点を捨て、南のバイーア州に活動を移す。しかし、ここでもランピオンは警戒されて逃げ隠れるしかなく、1930年に消息を絶つまでに襲撃したのは、小さいゆえに防備もないセルジッペ州だけだった。また最大100名を数えた手下も、この時期には兄弟を除けば5名に減少していた[16]。

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