Month: June 2018

幸手市立栄中学校 – Wikipedia

幸手市立栄中学校(さってしりつ さかえちゅうがっこう)は、かつて埼玉県幸手市に所在した公立中学校。 幸手市立栄中学校は幸手団地[2]の造成に伴い整備されて1976年(昭和51年)4月1日に設立された中学校である。1986年(昭和61年)の生徒数1013名・24学級をピークに、生徒数は減少を続け2008年(平成20年)には97名となり、幸手市立幸手中学校へと2009年(平成21年)4月1日に統合されることとなった。そして2009年(平成21年)3月31日に閉校となった。閉校後、学校の施設は取り壊され、跡地は現在「東埼玉総合病院」となっている。 1976年(昭和51年)4月1日 – 幸手町立栄中学校が設置され、幸手町立幸手中学校の校舎を借用し開校する。 – 同年11月22日、校歌が制定され、同日が開校記念日とされる。 – 同年12月21日、現在地に新校舎が竣工し、引っ越しとなる。 1977年(昭和52年)1月22日 – 新校舎の落成式がとり行われる。このとき普通教室10教室・金工室・木工室・理科室・調理室・被服室が存在した。 1978年(昭和53年)3月6日 – 屋内運動場が竣工する。 – 同年3月26日、屋内運動場の落成式がとり行われる。 1980年(昭和55年)2月21日 –

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新城市立作手小学校 – Wikipedia

新城市立作手小学校(しんしろしりつ つくでしょうがっこう)は、愛知県新城市作手高里字縄手上32番地にある公立小学校。2013年(平成25年)4月1日に作手地区(旧南設楽郡作手村)にある4小学校が統合されて開校し、2017年(平成29年)4月1日には複合施設の新城市つくで交流館にある新校舎に移転した。作手地区にある唯一の小学校である。 2018年度(平成30年度)の児童数は78人であり、新城市立の13小学校の中で8番目だった[1]。 通学区域[編集] (菅守地区)守義,菅沼,木和田,善夫 (開成地区)黒瀬,西田原,東田原,岩波,南中河内,北中河内,明和 (巴地区)長者平,鴨ヶ谷,市場,須山,北畑,野郷,川合,相寺 (協和地区)和田,見代,戸津呂,杉平,赤羽根,小林,東高松,大和田,田代 開成小学校(1873-2013)[編集] 1873年(明治6年) – 第13番長者平学校として創立[3] 1876年(明治9年) – 田原学校が開校[3] 1889年(明治22年) – 開成学校に改称[3] 1912年(明治45年) –

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新上五島町立崎浦小学校 – Wikipedia

新上五島町立太崎浦学校(しんかみごとうちょうりつ さきうらしょうがっこう)は長崎県南松浦郡新上五島町友住郷にあった公立小学校。 2013年(平成25年)3月末をもって閉校した。 歴史 1875年(明治8年)創立の友住尋常小学校と赤尾尋常小学校の2校が1901年(明治34年)に統合して「崎浦尋常小学校」となった。新上五島町立有川小学校への統合により2013年(平成25年)3月末をもって創立138年の歴史に幕を下ろした。 校区 中学校区は新上五島町立有川中学校。 校訓 「やればできる」 校章 月桂樹をリボンで結んだものを背景にして校名の「崎浦」の文字(縦書き)を置いている。 校歌 歌詞は2番まであり、校名は歌詞中に登場しない。 1875年(明治8年)- 第五大学区第五中学区有川小学校の分校として「友住分校」と「赤尾分校」が設置される。 1886年(明治19年)9月 – 小学校令の施行により有川小学校から分離し「簡易友住小学校」・「簡易赤尾小学校」として独立。修業年限を3年とする。 1889年(明治22年)4月 –

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鈴木智彦 – Wikipedia

鈴木 智彦(すずき ともひこ、1966年(昭和41年) – )は日本のカメラマン、ライター、ジャーナリスト、元『実話時代BULL』編集長。 北海道出身[1]。地元の高校を卒業後、日本大学芸術学部写真学科へ入学。1年後に中退(除籍)。 その後スタジオマン、アシスタントを経て、雑誌・広告向けのフリーのカメラマンとなる。アメリカやヨーロッパを舞台に撮影活動を行う。拠点としていたロサンゼルスで安部譲二(作家)の元・舎弟だという食堂経営者・愛ちゃんと知り合い、ヤクザに興味を持つようになる。愛ちゃんに「ヤクザってのは、いい意味でも悪い意味でも、日本文化の縮図だ」、「ヤクザを撮れよ」と勧められる。イーストLAで撮影をしていたとき、地元のギャングに襲われる。 帰国し入院していたときに「暴力」を取材テーマにしたいと考える。偶然ヤクザ専門誌『実話時代』の社員募集を見つけた縁で同誌編集部に入社。そのうち出先から編集部に戻り、「●●組の▲▲様より電話有り。内容=殺すぞ」という伝言メモがあっても特に驚かなくなる[2]。『実話時代BULL』編集長を務める。 2000年、フリーのカメラマン兼ライターになる。2011年、東日本大震災後の7月から約2ヶ月間にわたって事故を起こした福島第一原子力発電所で作業員として勤務する。これはジャーナリストとしては初の試みだった。この体験を基にして著書『ヤクザと原発 : 福島第一潜入記』(文藝春秋)を公表[3][4]。 2015年8月に起きた山口組の分裂とその後の騒動について取材を行う[5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17][18][19][20][21][22][23][24][25][26][27][28][29][30][31][32][33][34][35][36]。同年12月14日、匿名のツイッターで山口組分裂騒動の内部情報をつぶやき続けるツイッター組長に接触し、メディア初の対面インタビューを行った[37][38][39][40]。山口組分裂の1年後には現役ヤクザ100人に直接電話をかけてアンケートを行い、当事者たちはこの事態をどうとらえているのか、何を考えながら生活しているのか、ヤクザを続けたいと思っているのか、自分たちの存在をどのように考えているのか、ヤクザの世界はどうなっているのかなどを調査した[41]。 ヤクザ社会に対して独自の視座を持つ若手のライターとして活躍している。取材に基づいて実話系雑誌、週刊誌、『別冊宝島』などで幅広くアウトローやヤクザ関連の記事を執筆している。「暴力団取材のエキスパート」と呼ばれる[41]。 アワビ、ウニ、カニ、ウナギ、ナマコといった海産物の密漁の取材も行っている[42][43][44][45][46][47]。 溝口敦(ノンフィクション作家、ジャーナリスト)と土井善晴(料理研究家)を尊敬している。鈴木と溝口は『週刊ポスト』や『SAPIO』でたびたび対談している[48][49][50][51][52][53][54][55][56][57]。 カメラ、バイク、日本の家庭料理にも造詣が深い。 四課について、「四課(暴力団を取り締まる組織犯罪対策部のこと)とか要らないんじゃないか」と発言した上で、「弱体化しているのは警察のおかげではあるんですが、たまには抗争をしてくれないと存在価値がなくなってしまうし「中略」警察としては分裂したままのほうが都合がいい。」と事実上皮肉を込めた発言をしている[58]。 ヤクザ映画[編集] 『週刊ポスト』2014年12月12日号の記事で、ヤクザ映画ベスト5として次の5作品を選んだ[59]。 2016年1月、ドキュメンタリー映画『ヤクザと憲法』(2016年、東海テレビ放送)を「現状、これ以上の映像ドキュメントは不可能というレベルの作品」と絶賛した[60]。 同年3月、『血と掟』(1965年、松竹)は「『演技のヤクザ』と『本物のヤクザ』の違いを理解できる作品」だと述べた[61]。

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有峰口駅 – Wikipedia

有峰口駅(ありみねぐちえき)は、富山県富山市小見にある富山地方鉄道立山線の駅である。駅番号はT54。 当初は小見駅として開業したが、日本国有鉄道及び名古屋鉄道の列車乗り入れに備え、有峰湖への最寄駅であることから観光客誘致のために改称された[1][2]。 1937年(昭和12年)10月1日 – 富山県営鉄道千垣駅 – 粟巣野駅間開通に伴い、小見駅(おみえき)として開業する[3]。 1942年(昭和17年)6月1日 – 日本発送電に譲渡される[3]。 1943年(昭和18年)1月1日 – 富山地方鉄道の駅となる[3]。 1969年(昭和44年)6月1日 – 貨物の取扱を廃止する[4]。 1970年(昭和45年)7月1日 – 日本国有鉄道及び名古屋鉄道の列車乗り入れに備え、有峰口駅に改称する[2]。 島式ホーム1面2線を持つ地上駅である[5]。無人駅である[5]。駅舎と便所を有する[6]。特急停車駅であり[7]、かつては名古屋鉄道より乗り入れた特急北アルプスやJR西日本の特急サンダーバードも停車した[5]。また、夏季には富山

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海風型駆逐艦 – Wikipedia

この項目では、明治時代の駆逐艦について説明しています。昭和時代の海風型(改白露型)駆逐艦については「白露型駆逐艦」をご覧ください。 海風型駆逐艦(うみかぜかたくちくかん)は、日本海軍の一等駆逐艦[2][13]。 イギリス海軍のトライバル級駆逐艦を参考にして建造された[14]初の1,000トン級駆逐艦[15]。蒸気タービンを搭載した初の日本海軍駆逐艦であり、33ノットの高速を発揮した[11]が2隻が建造されたに留まった[13][16]。 日露戦争開戦直後の1904年(明治37年)3月に臨時軍事費特別会計法が公布され[17]、同年4月7日に船体、機関の消耗の激しい駆逐艦の製造費8,000,000円が勅裁された[18]が、この予算で駆逐艦は建造されなかった。この臨時軍事費は1907年(明治40年)3月31日までで、残額は一般会計へ移って[17]「艦艇補足費(款)」が設定され[19]、この予算により「山風」が建造された[20]。 一方日露戦争終結後の1906年(明治39年)9月28日に海軍大臣より今後の軍備計画として「海軍整備ノ議」が提出され[21]、その中に排水量約900トンの大型駆逐艦6隻の計画が含まれていた[22]。この予算として明治40年度から明治47年度支出の「補充艦艇費(款)」が新たに設定され、「海風」はこの予算で建造された[23]。 起工は海風が1909年(明治42年)、山風がその翌年となった[24]。1910年(明治43年)5月13日に新たな軍備計画として「海軍軍備充実ノ議」が提出され、明治44年(1911年)度以降は、これまでの予算(艦艇補足費、補充艦艇費など)を含めて「軍備補充費(款)、軍艦製造費(項)」に纏められ、計画が整理された[23]。2隻はそのまま建造が続行され[25]、同年9月に海風が、翌10月に山風がそれぞれ竣工した[24]。なお製造番号は海風が「伊号大駆逐艦」、山風が「甲号大駆逐艦」とされていた[24][26]。 基本計画番号F9[26]。海風型は当時の日本海軍駆逐艦が排水量380トン前後だったところを一挙に排水量1,000トン超の駆逐艦として誕生した[15]。実験的な試みの多くある艦で[27]、缶(ボイラー)はイ号艦本式缶8基を搭載した[28]。最前部(1番)と最後部(8番)が重油専焼缶で1基を1室に収め、中央の2番から7番は混焼缶2基ずつを1組として1室に収め、焚き口を向かい合わせに設置した[28]。当初は8基全て重油専焼とする計画だったが、日本での産出量が少ない事や将来の価格高騰を懸念して、6基を重油石炭混焼缶に改めた[29][30]。 また日本海軍駆逐艦で初めて主機にタービンを搭載した[11]。タービンは三菱を通じて英パーソンズ社から輸入し[14]、中央軸が高圧タービン、左右軸がより大型の低圧タービンを直結式とした3軸艦だった[29]。また高圧巡航タービンと中圧巡航タービンを各1基装備し、高圧巡航タービンは左舷軸に、中圧のそれは右舷軸に直結された[29][31]。なお将来を見越して2隻の製造予算の予備費を回してパーソンズ式タービンの製造権を購入している[32]。出力は計画では20,500馬力の予定のところを[14]山風は28,921馬力となり、速力34.61ノット(計画33ノット)を出している[10][注釈 1]。 兵装は4.7インチ(正12cm)砲2門、3インチ(7.62cm)砲5門を搭載した[8]。(日本海軍では3インチ砲をのちに8cm砲と表記しているので以下ではそれぞれを12cm砲、8cm砲と記述する)。当初は4インチ(約10.2cm)砲搭載の計画だったが、途中で12cm砲搭載に改められ[33]、12cm砲はその後長く日本海軍駆逐艦の標準砲になった[14]。また海風は竣工前、後部マストの後方に12cm砲が、前方に8cm砲が搭載されていた[34]。竣工前の「海風」での試験では高速運転時の船体の振動が激しく、12cm砲の照準が不可能だった[35]。そのため後部12cm砲は5番8cm砲の旧位置(140番フレーム)の1フレーム後方に、5番8cm砲は12cm砲の旧位置(160番フレーム)へ移動された[36]。 時期については、「山風」は砲、発射管などを搭載せずに竣工し佐世保海軍工廠で搭載する予定だったので[37]、その佐世保で竣工直後に[38]、「海風」は竣工から約1年後に役務に差し支えない時期に、と訓令が出ている[39]。ただし、後部マスト後方に12cm砲を搭載する(変更前の)写真は見つかっていない[40]。 また日本で初めて連装魚雷発射管(口径18インチ=45.7cm)を搭載した[14]。連装発射管の開発が間に合わず竣工時には単装を搭載し竣工直後に連装に交換された、と言われている[11][注釈 2]。 竣工後の艦型変化として、1番煙突の高さを増し、また前部マストに新たに見張り所を設けている[41]。また1919年(大正8年)頃、5番(最後部)8cm砲を撤去して艦尾旗竿を傾斜した形状に改め、一号機雷敷設軌条や投下施設等を設置した[42]。 運用・その他[編集] 日露戦争後に国民の誰もが知る日本海軍の代表艦として「海風」「山風」があったという[15]。 第一次世界大戦では第一南遣支隊所属で南洋群島方面攻略に参加した[43]他、1916年(大正5年)に中国方面への警備活動に従事している[44][45]。またシベリア出兵では沿海州沿岸警備に従事した[43]。 1930年(昭和5年)に掃海艇へ転籍し、魚雷発射管の全て、艦後部に搭載の12cm砲1門、8cm砲1門(1919年頃撤去済みとも[42])を撤去し後甲板を掃海作業甲板とした[46]。2隻とも1936年(昭和11年)に除籍された[46]。 海風(うみかぜ)[編集] 1907年(明治40年)12月20日

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微かな密かな確かなミライ – Wikipedia

「微かな密かな確かなミライ」(かすかなひそかなたしかなミライ)は、スフィアの楽曲。古屋真が作詞、森谷康昭が作曲を手掛けた。スフィアの15枚目のシングルとして2014年5月14日にGloryHeavenから発売された。タイトルはメンバー内での呼称時「微かな」と「密かな」が紛らわしいため「かひた」と略しているという。 本曲は、テレビアニメ『龍ヶ嬢七々々の埋蔵金』のエンディングテーマに起用された。切なさを感じさせるかっこいい曲で、戸松遥は本作を「具体的な目標に向かって進んでいく歌」と述べている。歌詞には「推定100時間の涙」のようにややファンタジー的なフレーズが盛り込まれている。ちなみに豊崎愛生は他のメンバーよりもウィスパーを多く録ったという。なおデモを聴いた時今まで以上に音の幅が広かっため、メンバー全員が歌う様子を期待したという。メロディはAメロは高垣彩陽曰く「足が地に着く」ような感じで、Dメロでは各メンバーがワンフレーズずつ歌っている。 PVは、別の場所にいるメンバー同士[注 1]が最終的に合流する大人っぽい内容になっているが、ちなみにメンバー内では寿が一番早く集合場所に辿り着いたという。 シングルリリース[編集] 2014年5月14日にGloryHeavenから発売された。スフィアのシングルとしては前作「Eternal Tours」から約3か月ぶりのリリースとなる。 販売形態は初回限定盤(LASM-34168/9)・通常盤(LASM-4168)・期間限定盤(LASM-34170)の3種リリースで、初回限定盤には本曲のPVを収録したDVDが同梱されている。ジャケットは、グループ初となる漢字を含む楽曲のため、ソロカットの撮影時に立体文字でタイトルや各メンバーの名前を表現したという。なお撮影時はカメラマンが各メンバーの名前を象った文字を呼ぶため、メンバーがあたかも小道具のように扱われたという。なお期間限定盤のジャケットには、同アニメのヒロインである龍ヶ嬢七々々が描かれている。 2曲目「synchronicity」は、言葉の掛け合いや体全体でのリズムを大事にしたシャッフル調の曲で、ライブでの盛り上がりも意識したという。 スフィア単体としてランティスが制作に関わっていないアニプレックス作品に楽曲が起用されるのは本作品が初めてとなった。この作品を皮切りに、17thシングル「vivid brilliant door!」、コンピレーション作品の「一分一秒君と僕の」(HoneyWorks meets スフィア名義、ミュージックレイン発売)などのアニプレックス単体作品に起用されることが多くなった。 シングル収録内容[編集] CDシングル[1] 全作詞: 古屋真。 # タイトル

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春雨型駆逐艦 – Wikipedia

春雨型駆逐艦(はるさめがたくちくかん、英語: Harusame-class destroyers)は、大日本帝国海軍の駆逐艦の艦級。第二期拡張計画に基づき、初の国産駆逐艦として、明治33年・明治36年度計画で計7隻が建造された。 大日本帝国海軍は、第一期海軍拡張計画において駆逐艦の導入に着手し、まず明治29年・30年度計画で、イギリスのヤーロウ社に雷型(イギリス海軍B級の準同型艦)、ソーニクロフト社に東雲型(イギリス海軍D級の準同型艦)を発注した。続く第二期海軍拡張計画でも、ヤーロウ社に暁型、ソーニクロフト社に白雲型が発注された。 1897年の計画策定時点では、同計画での駆逐艦建造はこれで打ち止めになる予定であったが、1900年、水雷艇母艦兼工作艦1隻の建造を中止するかわりに駆逐艦4隻を追加、1903年には、更に雑役船6隻のかわりに駆逐艦3隻を追加することとなった。これらは全て国産化されることになり、これによって建造されたのが本級である。 国産艦とはいえ、基本的にはイギリス駆逐艦のコピーの域を出ないものであった。ヤーロウ社製の雷型をベースとして、ソーニクロフト艦の長所も採り入れるかたちで設計されており、前半部はヤーロウ艦、後半部はソーニクロフト艦を模している。 ボイラーとしては、ヤーロウ式ボイラーを元に改良設計した艦本式缶(後のイ号艦本式缶)が採用された。また主機械も、ヤーロウ式の3段膨張4気筒レシプロ蒸気機関をもとにして、復水器への送水方法など一部に改正を施したものとなったが、基本寸法は踏襲されている。蒸気性状は雷型(圧力17.6 kgf/cm2 (250 lbf/in2)、飽和温度)と同様であった。ただし所期の馬力・速力に達しない艦もあった。 兵装は、同じ第二期海軍拡張計画で建造された暁型の構成・配置が踏襲されており、艦砲として司令塔上に40口径7.6cm砲(安式十二斤速射砲)1門、また副砲として40口径5.7cm砲(山内式六斤速射砲)を上甲板後端に1門と両舷に2門ずつ設置した。また6番艦以降は57mm砲を28口径7.6cm砲(短十二斤速射砲)に変更して砲力を強化し、1~5番艦も後に同様に換装した。 水雷兵器については従来の装備が踏襲され、上甲板後部の中心線上に2個の旋回台を設け、これに人力旋回式の45cm魚雷発射管を1門ずつ設置した。魚雷としては、当初は冷走式の三二式、その後は乾式加熱装置を備えた三八式二号と、いずれもホワイトヘッド魚雷の系譜である。 春雨(はるさめ)[編集] 仮称艦名は第十七号駆逐艦。1903年(明治36年)6月26日、横須賀造船廠で竣工。1911年(明治44年)11月24日、三重県的矢湾で荒天により擱座沈没。同年12月28日、除籍。1912年(大正元年)8月1日、沈没のまま売却。 村雨(むらさめ)[編集] 仮称艦名は第十八号駆逐艦。1903年(明治36年)7月7日、横須賀造船廠で竣工。1922年(大正11年)4月1日、特務艇(二等掃海艇)に類別変更。1923年(大正12年)4月1日、雑役船(魚雷標的船)に編入。翌年2月14日、廃船。 速鳥(はやとり)[編集] 仮称艦名は第十九号駆逐艦。1903年(明治36年)8月24日、横須賀造船廠で竣工。1904年(明治37年)9月3日、旅順港閉塞作戦中、小平島南方で触雷沈没。1905年(明治38年)6月1日、喪失公表[6]。同年6月15日、除籍。 朝霧(あさぎり)[編集] 仮称艦名は第二十号駆逐艦。1903年(明治36年)9月18日、横須賀造船廠で竣工。1922年4月1日、特務艇(二等掃海艇)に類別変更。1923年(大正12年)4月1日、雑役船(魚雷標的船)に編入。翌年2月14日、廃船。 有明(ありあけ)[編集] 仮称艦名は第二十一号駆逐艦。1905年(明治38年)7月30日、横須賀造船廠で竣工。1924年(大正13年)12月1日、除籍。翌年4月10日、廃船認許。同年11月12日、内務省に移管、東京水上警察署取締船となる。

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日本仏教三大霊山 – Wikipedia

日本仏教三大霊山(にほんぶっきょうさんだいれいざん)とは、日本の仏教信仰における霊山の三大として、比叡山、高野山、身延山を束ねた名数である。 日本には古来から山岳信仰があり、その信仰を元に山にこもって厳しい修行をする「修験道」が生まれた。そのため、山には多くの寺院が建てられ、仏教では最高位の寺院を「総本山」と呼ぶようになった。山全体が信仰の聖地となっていることも多い。 その中でも、平安時代に最澄が開いた延暦寺が天台宗総本山となっている比叡山、空海(弘法大師)が開いた金剛峯寺が真言宗総本山となっている高野山、鎌倉時代に日蓮が開いた久遠寺が日蓮宗総本山となっている身延山を、「日本仏教三大霊山」とまとめて呼称するようになった。 この三山はいずれも、山全体が信仰の聖地となり「霊山」と呼ぶにふさわしく、総本山以外の寺院、宿泊施設(宿坊)、参道、修行環境などの整備が進み、参拝客の多さや僧侶の輩出などにおいて、圧倒的な規模を誇っている。 日本仏教三大霊山の一覧[編集] 比叡山[編集] 京都市と滋賀県大津市にまたがる天台宗の総本山「比叡山延暦寺」がある。788年に最澄が開いた。7年間かけて比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する「千日回峰行」などの修行が行われている(※1)。 門前町である坂本と比叡山延暦寺は、比叡山鉄道の坂本ケーブルで結ばれている。比叡山頂から延暦寺へは比叡山内シャトルバスが運行している。 学校法人延暦寺学園として、比叡山中学校、比叡山高等学校を比叡山内に開学している。 高野山[編集] 和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町に真言宗の総本山「高野山金剛峯寺」がある。816年に空海が開いた。山内には117ヶ寺が存在し、そのうち52ヶ寺は宿坊として、高野山を訪れる参詣者へ宿を提供している(※2)。 南海鉄道高野山線の終着駅極楽橋駅から、高野山の玄関口である高野山駅まではケーブルカーで結ばれている。また、高野山内は、南海りんかんバスによる路線バスが運行している。 学校法人高野山学園として、高野山高校、高野山大学を高野山内に開学している。 身延山[編集] 山梨県南巨摩郡身延町と早川町にまたがる日蓮宗の総本山「身延山久遠寺」がある。1281年に日蓮が開いた。 JR身延駅から門前町の身延山までは路線バスが運行している。また、新宿または甲府からは、高速バスも身延山まで運行。久遠寺の本堂から山頂まではロープウェイで結ばれている。 学校法人身延山学園として、身延山高校、身延山大学を身延山内に開学している。 日本三大霊山との違い[編集] 日本三大霊山として、比叡山、高野山、恐山の三山を指すことが多いが、このうち恐山には宗教法人の総本山が存在しない。そのため、日本仏教三大霊山を指す時は、恐山ではなく身延山が挙げられる。 比叡山延暦寺HP 比叡山の修行

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焼酎 – Wikipedia

この項目では、日本の焼酎について説明しています。韓国焼酎については「ソジュ」をご覧ください。 焼酎(しょうちゅう)は、日本の蒸留酒の一種[1][2]。原料の違いで、米焼酎・麦焼酎・芋焼酎・黒糖焼酎・粕取り焼酎・そば焼酎・栗焼酎・泡盛など様々な種類がある。 日本で16世紀から製造され、1559年の大工が残した落書きが最古の記録とされている。17世紀後半より『童蒙酒造記』といった文献に残され、各地で製造された。南九州(宮崎県・鹿児島県・熊本県南部)を中心に醸造が盛んである[3]。また、長崎県の壱岐、東京都の伊豆諸島、沖縄県など、島嶼でも焼酎が醸造されている[4][5]。現代では海外にも輸出されている[6]。現代の日本で製造される焼酎のアルコール度数は25%が多いが、第二次世界大戦直後に20%以下の酒税率を低くして密造焼酎の淘汰を図る政策をとった影響で20%の製品もある[7]。 「酎」が2010年まで常用漢字に含まれていなかったため、法令その他の政府文書では「しょうちゅう」あるいは「しようちゆう」と平仮名表記になっていた。 郡山八幡神社の焼酎落書き[8][9] 日本の焼酎の起源は正確には分かっていないが、比較的有力な説は、シャム(現在のタイ王国)の蒸留酒ラオロンが琉球経由でもたらされたとするものである[注釈 1][10][11]。明の陳侃による『使琉球録』(1534年)に「南蛮(南番)酒」のことが記されており、この南蛮酒は暹羅(タイ)から琉球へもたらされたものであり、醸法は中国の露酒であると記されている[12]。露酒とは中国の蒸留酒のことである[13]。 日本国内では文献記録で確認できる限り、少なくとも16世紀頃から焼酎が造られていたと見られている。例えば1546年に薩摩国に上陸したポルトガルの商人ジョルジェ・アルバレス(フランシスコ・ザビエルにヤジロウを紹介し訪日を促した人物)は、当時の日本人が米から作る蒸留酒(原文ではorraqua;オラーカ=アラビア語のアラクに由来するポルトガル語)を常飲していたことを記録に残している[14]。 また、鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社には、永禄2年(1559年)に補修が行われた際に大工が残した「けちな座主(施主)で、一度も焼酎をふるまってくれず、ガッカリした」という内容の落書きが1954年の解体修理で発見されており、焼酎の飲用と「焼酎」の呼称について日本国内に残存する最も古い文章となっている[8][9]。 17世紀後半以降、『童蒙酒造記』『万金産業袋』などいくつもの文書に焼酎の製造法が記されている。それらから当時の焼酎は基本的に酒粕か変敗酒(品質劣化した清酒)を原料に、全国各地で作られていたことが分かる。また、粕取焼酎作りと稲作には密接な関係があり、酒粕は良い肥料となるが、そのままではアルコール濃度が高く使えないため、農民たちは酒粕を蒸留してアルコールを抽出した後に残った粕を肥料にした[15]。 一方、鹿児島など日本酒作りに向かない地域では、各家庭で米や雑穀などを水で仕込んだ醪(もろみ)を発酵させ蒸留した醪取焼酎が作られた。18世紀以降、サツマイモの栽培が盛んになるとサツマイモと麹で醪を作った。醪取焼酎は雑菌の繁殖によって醪が腐敗するなどの難点があったが、20世紀まで技術的に改善されることはなかった[15]。 その初期から明治時代中期に至るまでの焼酎は、製造に単式蒸留器を用いており[9]、現代の法体系でいうところの「焼酎乙類」に限られていたが、明治28年頃にイギリスから連続式蒸留機が輸入され、高純度アルコールが安価に大量生産できるようになった[16]。 明治43年に、連続式蒸留器で作られた製品を任意アルコール度数に和水したものを焼酎とすることが認められ[15]、この製法のものが「新式焼酎」として広まり[16]、対して在来の焼酎は「旧式焼酎」と呼ばれるようになる[17]。 大正時代初期、新式焼酎の流行と清酒の腐造によって全国各地で醪取焼酎が作られるようになったため、南九州の焼酎メーカーは市場を圧迫されていた。その一方で、近代焼酎の父と呼ばれる河内源一郎は、南九州での焼酎製造の歩留まりが悪く味も良くないのは、従来から日本酒や焼酎製造に使われてるニホンコウジカビ(黄麹、Aspergillus oryzae)が暑い南九州の気候に合ってないのではないかと考え、従来南九州より暑い沖縄での泡盛作りで使われており、明治34年に東京帝国大学の乾環(いぬいたまき)によって初めて分離に成功した[18]、クエン酸生産能が高く雑菌の繁殖を抑制するアワモリコウジカビ (黒麹、Aspergillus luchuensis、旧称 Aspergillus awamori)[19]を取り寄せ研究を続け、明治43年にこの黒麹の変種(旧称 Aspergillus

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