Month: November 2018

放課後のプレアデス – Wikipedia

『放課後のプレアデス』(ほうかごのプレアデス)は、ガイナックス制作の日本のアニメ。GAINAXと富士重工業(現・SUBARU)が展開するアニメプロジェクト「SUBARU x GAINAX Animation Project」第1弾作品。2011年2月1日よりYouTubeで配信された。また、2015年4月より6月まで日本各地でテレビアニメ版が放送された。 スバル自動車販売プロモーションの一環として日本国内をターゲットとし、公開期間を2011年冬限定としたWebアニメーションとして企画された[1]。 当初この企画は、自社の「レガシィ」に採用した衝突防止機構「EyeSight(アイサイト)」のプロモーションを念頭に置いたアニメとして富士重工業がガイナックスに要望したものであり、主人公の成長物語としてキャラクターも仮設定していたが、議論を重ねた結果「クルマが出なくても構わない」「スバルの良さ」「スバルの挑戦」を見せたいという富士重工業側の要望と「車を登場させなくても、車の代わりとなる何かでスバルの良さを表現する」「スバルという存在自体を追求する」というガイナックス側の方向性から現在の形になり、制作された[2]。 また、2011年1月31日に東京都内で開催された記者発表イベントでのGAINAXの武田康廣と富士重工業のWebマーケティングを担当する鈴木曜によるトークショーでは、「『EyeSight』をもじったサイトウアイというドジっ娘がクルマに乗りながら全国を旅して、いろいろな人と触れ合うという企画を考えたが、6月にはEyeSightが発売になってしまい、この企画はなくなった」という話が語られた[3]。 そのため、作品の合間にCMを挟む一般的なテレビアニメとはプロモーション方法の異なる作品となっており、スバルの認知促進が目的でありながらも上記の通り作中にスバル製品は特に登場しない。しかし、作品の随所に以下のような自動車的要素が取り入れられていることで、スバルを表現した作品となっている。 展望室の鍵が自動車のキーのようなデザインになっている ドライブシャフトをモチーフにした杖の先端部分が現行のスバル主要車種に共通するグリルデザインを模しており、その杖の発する音が自動車のエンジン音になっている(TVアニメ版ではEyeSightのように障害物の前で停止する機能も備わっており、その際にはEyeSightと同じ警告音が鳴っている)。 登場するバス停留所の路線地名がスバルの各工場名(群馬県太田市、邑楽郡大泉町の矢島工場、太田北工場、大泉工場)になっている[4]。 なお、自動車のブランド名「スバル」は天体の昴(すばる)に由来するが、天文学ではおうし座のプレアデス星団といわれ、これがタイトルや作中の名称として用いられている。 また、配信開始と同時の深夜には渋谷駅前のオーロラビジョン4面をジャックして公開された[5]。 2011年6月4日から同年7月1日までの期間限定で、ユナイテッド・シネマとコラボレーションしたオリジナル映画観賞マナームービーが本編上映前に流されることが決まった(ユナイテッド・シネマ阿久比は除く)。ユナイテッド・シネマでは公開記念キャンペーンとして、キャンペーン中オリジナルグッズの販売やオリジナルドリンクが販売された。 2013年3月21日、再始動が報告された。同年12月27日にはTwitter公式アカウントにテレビアニメ化をほのめかすツイートが投稿される[6]。そして2014年2月7日には公式サイトに「Next Stageは…TVへ」というメッセージと、多数の新規イラストが掲載される。10月から『月刊ComicREX』でのコミカライズ「放課後のプレアデス Prism Palette」の連載も開始されている。そして12月16日、テレビアニメ番の制作発表会が行われ、正式にテレビアニメ化がアナウンスされた。なお、テレビアニメ版は当初は劇場版アニメとして企画されていたが、ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント側の要望で、テレビアニメに変更された[7]。 登場人物[編集]

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長田紀生 – Wikipedia

おさだ のりお長田 紀生 別名義 青山 剛(あおやま ごう)永田俊夫長希星[1] 生年月日 (1942-01-10) 1942年1月10日(80歳) 出生地 南京国民政府北平市 国籍 日本 職業 脚本家・映画監督 ジャンル 劇場用映画・テレビ映画・テレビアニメ映画 主な作品 映画『修羅雪姫』『激殺!

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勝部真長 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “勝部真長” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 勝部 真長(かつべ みたけ、1916年3月30日 – 2005年6月19日)は、日本の倫理学者。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “勝部真長” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL ·

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オットー1世 (メラーン公) – Wikipedia

メラーン公オットー1世(Otto I., Herzog von Meranien, 1180年ごろ – 1234年5月7日)は、アンデクス家のメラーン公(在位:1204年 – 1234年)。ブルゴーニュ女伯ベアトリクスとの結婚により、ブルゴーニュ伯(オットー2世、在位:1208年 – 1231年)。イストリア辺境伯およびクライン辺境伯(在位:1228年 – 1234年)。 オットー1世はメラーン公ベルトルトとアグネス・フォン・ロホリッツの間の長男である。1204年に父ベルトルトが死去した後、メラーン公位を継承した。一方、父が持っていたイストリアおよびクライン辺境伯位は弟ハインリヒ2世が継承した。 1208年6月21日、オットーはホーエンシュタウフェン家のブルゴーニュ女伯ベアトリクスと結婚した[1]。ベアトリクスはブルゴーニュ伯オットー1世の娘であった。バンベルクで行われた結婚式において、ベアトリクスの叔父であるドイツ王フィリップが暗殺され[1]、その後オットーはフィリップと対立していたヴェルフ家のオットー4世に接近した。しかし、アンデクス家の立場は著しく弱まった。弟ハインリヒ2世は、フィリップの暗殺への関与を追及され、その領地はバイエルン公ルートヴィヒ1世に奪われた。 オットーはブルゴーニュ伯領を支配したと思われるが、ブルゴーニュ伯領を巡っては在地貴族のオーソンヌ伯と長い間争った。また、シャンパーニュ伯ティボー4世に対し、担保としてブルゴーニュの領地を与えなければならなくなった。 1217年、オットーはオーストリア公レオポルト6世とその義兄ハンガリー王アンドラーシュ2世とともに第5回十字軍に参加した[2]。1222年、ブザンソン大司教ジェラール1世・ド・ルージュモンとの間で、オットーの義父ブルゴーニュ伯オットー1世による約束を破って城を建設したことに対して論争が起こった[3]。オットーは城を破却しなかったか説明を行わなかったために、大司教はオットーを破門し、その領土全体に秘蹟執行禁止命令を下した[3]。オットーはすぐさま助けを求めに弟であるバンベルク司教エクベルトに会いにバンベルクへ向かった[3]。1223年10月20日、オットーは多額の教会への寄付からなる5つの特許状を発行した[3]。1228年、少し前に弟ハインリヒ2世が取り戻したイストリアとクラインを相続した。 1231年、妃ベアトリクスが死去し、オットーはブルゴーニュ伯位を息子オットーに譲った。1234年にオットーは死去し、息子オットーがメラーン公位、イストリアおよびクライン辺境伯位も継承した。 1208年6月21日、オットーはブルゴーニュ女伯ベアトリクスと結婚し、以下の子女をもうけた。

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神奈川県立外語短期大学付属高等学校 – Wikipedia

神奈川県立外語短期大学付属高等学校(かながわけんりつ がいごたんきだいがくふぞくこうとうがっこう)は、かつて神奈川県横浜市磯子区岡村四丁目に設置されていた公立高等学校である。神奈川県立外語短期大学の附属学校で、通称は「外短」(がいたん)または「外語」(がいご)。2008年に神奈川県立六ツ川高等学校と統合され、神奈川県立横浜国際高等学校となる。 公立高校として神奈川県下屈指の進学校であり、最盛期は都内の有名私立高等学校とほぼ遜色ない比率で早慶上智等の難関大学へ進学させた。4年制大学への進学率は県内最上位で、難関大学の現役進学率は筆頭に値した。全日制課程貿易外語科のみを設置する専門高校ではあったが、他の普通科公立トップ高校と遜色ない学力で、全県から優秀な生徒集い、全国の専門学科で難関の高校であった。 全国有数の英語教育を実施していたため、生徒によっては2時間以上かけて県内遠方から通学するものも少なくなかった。一年次の英語の単位数は普通校の約2倍で、2,3年次は英語で本格的なディベート科目、英語で課題研究 (Discussion & Research) など、かなり高度な英語専門科目を選択することが可能だった。この学校の特徴的な英語教育は大学でも評価され、慶應義塾大学や早稲田大学等、有名私立大学の指定校推薦枠も多く存在した。 入学試験は、2005年度入学者選抜から後期学力検査の英語で学校独自作成問題が導入され、難易度は他校と一線を画し、高度な英語力が要求された。2007年に神奈川県教育委員会が、県立高校の進学実績向上の目標を明確化するために「学力向上進学重点校」10校を指定し、県内有数の公立進学校である湘南高校や小田原高校などとともに本校も選定された。 2004年に県立六ツ川高等学校と統合が公表されて以降は、入試倍率と難易度がやや後退した。入試倍率で他の公立トップ校に水をあけられた時期もあったが、外語短期大学付属高等学校で最終卒業生の2007年度は、150数人の学年規模で東京大学へ現役で3人の合格者を出すなど最後まで進学実績を維持した。 英語だけではなく第二外国語が2年間必修となっているのも特徴のひとつであった。授業で海外の出版物が多く利用されている第二外国語はフランス語、中国語、スペイン語、ドイツ語があり、いずれも大学教養レベルの授業であった。 校風はかなり自由で、校舎内は一足制で、標準服こそ存在していたが着用義務は無く、完全な私服通学が可能であった。チャイムはテスト期間も一切鳴らず、試験監督の教師が所持する時計を基準に行っていた。生徒の呼びだしなどの校内放送も文化祭期間などわずかで、「自由と自律」を重んじていた。校則や生徒手帳もなかった。 海外帰国生徒特別募集枠もあったことから帰国子女からの人気も高く、多くの帰国生が在籍していた。帰国枠で入った生徒は基本的に1年生の時は1組に配属され、レベルに応じて1,2年生の間は英語、国語、数学で習熟度別の取り出しクラスが設けられていた。2003年から文部科学省のSELHiの指定を受けた。 男女共学ではあったが、他の国際科、英語科高等学校と同様に男女比率では女子が圧倒的に多かった。また付属校ではあったが、神奈川県立外語短期大学への内部進学制度は存在せず、殆どの学生が4年制大学を希望した。 1965年に外国語専門の高等学校として開校し、その後に同敷地内に短期大学が開校した。短期大学が開校と同時に付属高校となり、歴史は高校のほうが古い。 教育課程[編集] 全日制貿易外語科のみを有した。1年生次の英語の単位数は普通校の約2倍で、2年生次以降でさらに英語科目の単位数を増やすことも可能であった。第二外国語や2,3年次に必須の日本語、英語の課題研究など語学に関する科目が多いことが特徴であった。倫理、物理の授業はなかった。2学期制50分6時限を基本に、主に文系教科を履修し、レベル・進度ともにやや高めであった。理系教科は他の普通科高校に比べて内容は基本的であったが、理系の大学へ進学する生徒も少なからず毎年存在した。 入学試験[編集] 後期選抜では国語、数学、理科、社会は全県共通入学試験問題を採用し、英語のみ本校独自入学試験問題を採用していた。 設置学科[編集]

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アーク溶接 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アーク溶接” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年11月) 溶接ロボットによるアーク溶接の様子 アーク溶接(アークようせつ、英語:arc welding)とは、空気(気体)中の放電現象(アーク放電)を利用して、同じ金属同士をつなぎ合わせる溶接方法である[1]。アーク溶接の用途は広く、自動車、鉄道車両、船舶、航空機、建築物、建設機械など、あらゆる金属構造物に一般的に使われている。母材は鉄鋼が多いが、アルミニウムやチタンなどほかの金属にも利用される。 歴史については「溶接」を参照 特徴と種類[編集] 母材と呼ばれる溶接対象と電極(溶接棒、溶接ワイヤ、TIGトーチなど)を接触させて通電させた後、双方を引き離すと母材と電極の間にアークが発生する。発生したアークの温度は5,000 ℃から20,000 ℃程度あり、これを熱源とした高熱で、母材と溶加材、あるいは溶接棒を溶融させて一体化する接合法である。従って、基本的にアーク溶接の対象は電気伝導体のみである。電気溶接と言われることもあるが、このように呼ぶ場合は抵抗溶接も含まれる。 消耗電極式と非消耗電極式[編集] ガスシールド・アーク溶接の模式図1.溶接ワイヤ 2.シールドガス

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大島渚 (バンド) – Wikipedia

大島渚(おおしまなぎさ)は、かつて日本で活動していたロックバンド。 漫画家であるみうらじゅん、喜国雅彦を中心に結成され、1989年6月24日にTBSテレビの深夜番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に初出場。その後同番組の『輝く!日本イカ天大賞』にも出場した。自称・税金対策バンド。代表曲に「カリフォルニアの青いバカ」があり、イカ天の審査員から「題名がいい」などと称賛された[1]。 バンド名は同名の映画監督である大島渚が大声で罵倒する姿こそロックだ!というみうらじゅんの発言に由来している[2]。本人の許可はとっていなかったが、イカ天に出演していた大島に「カリフォルニアの青いバカをぜひ、歌ってほしい」とファックスを送ったところ、大島は爆笑して快諾した。大島自身も「うちの息子はバンドの方の”大島渚”のファンなんだな」と発言している。 メンバー[編集] みうらじゅん(ヴォーカル、ギター、ハーモニカ) 喜国雅彦(ベース) 滝本淳助(ドラム、タンバリン)- アルバム第1作のみ 塩沢俊明(キーボード) 河合宣輔(ギター)- アルバム第1作のみ 内山朋子(ドラム) – アルバム第2作のみ 渡辺匠(ギター) – アルバム第2作のみ 山田五郎(ギター) – 氣志團万博(2019)

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姶良市立重富中学校 – Wikipedia

姶良市立重富中学校(あいらしりつしげとみちゅうがっこう)は鹿児島県姶良市にある市立の中学校である。さわやんに紹介されたことがある。[要出典] 第1学年は6クラス,第2学年は7クラス・第3学年は6クラス・特別支援学級2である。生徒数は、688名(令和元年年8月現在)で、1990年代後半と比べると減少しているが,本年より増加傾向に転じている。 1947年(昭和22年)5月2日、重富村立重富中学校として創立した。創立当初の学区は重富村内全域であり、重富小学校、船津小学校から進学していた。当初は独自の校舎がなく、重富小学校と重富青年学校の一部を間借りして分散授業をしていた。1950年(昭和25年)、船津小学校校区の生徒は、帖佐町立帖佐中学校へ越境通学することになり、重富中学校校区から外れた。その後1955年(昭和30年)に町村合併により姶良町が成立し、姶良町立重富中学校となった。同時に従来の町村境界を越えて校区再編が行われ、帖佐中学校校区だった建昌小学校校区の俵原・楠元・並木・松原下集落が校区に編入された。また、2010年(平成22年)に三町合併により姶良市が成立し、姶良市立重富中学校となった。 年表[編集] 1947年(昭和22年) — 創立、重富小学校と重富青年学校で分散授業 1948年(昭和23年) — 3月PTA結成、5月重富青年学校廃止に伴い本部を青年学校跡地に移転 1949年(昭和24年) — 第一期工事竣工、9月5日に1年生と3年生と収容、4月に高牧地区に学有林設定、11月6日校章と校歌制定 1950年(昭和25年) — 第二期工事竣工、11月8日全生徒を収容 1951年(昭和26年) — PTAによりピアノ寄付、岩崎産業より桜が寄付され植樹、PTA茶園造成 1952年(昭和27年)

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国道213号 – Wikipedia

国道213号(こくどう213ごう)は、大分県別府市から国東半島沿岸を経由して、中津市に至る一般国道である。 国東半島北部は16本のトンネルが通り、その周辺にも旧国道トンネルが多数存在する。 路線データ[編集] 一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。 1953年(昭和28年)5月18日 – 二級国道213号別府中津線(別府市 – 中津市)として指定施行[4]。 1965年(昭和40年)4月1日 – 道路法改正により一級・二級区分が廃止されて一般国道213号として指定施行[1]。 2004年(平成16年)7月1日 – 国道10号との重複だった宇佐市大字佐野から中津市豊田町の道路管理が国土交通省から大分県に引き継がれ、国道213号単独指定に変更となった[要出典]。 路線状況[編集] 通称[編集] 杵築沿海路(杵築市、国東市) 武蔵バイパス(国東市)

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エゾノアオイスミレ – Wikipedia

エゾノアオイスミレ(蝦夷の葵菫、学名:Viola collina)はスミレ科スミレ属の多年草[3][4][5][6]。別名、エゾアオイスミレ、マルバケスミレ、テシオスミレ、ニオイケスミレ[1][3][4][5][6]。 近縁のアオイスミレ V. hondoensis に似るが、葉の先端がややとがり、花が大きく、花後に地上を走る匐枝は出さない。また、葉は越冬しない。同種より標高の高い場所に生える[3][4][5]。 有茎の種。太く短い地下茎があり、節間は短い。高さは3-10cmになる。根出葉の葉柄は長さ3-10cmになり、毛が生え、葉身は長さ2-4cm、卵形から円心形で、先端は鋭突頭、基部は深い心形、縁に低い波状の鋸歯がある。葉質は薄く、両面とも浅緑色で、密に粗い開出毛が生える。夏期の葉は大型になり、長さ6-7cmになる。托葉の基部は葉柄に合着し、縁に毛状突起がある[3][4][5][6]。 花期は4-5月。葉の間から葉より高い花柄を伸ばし、花をつける。花柄の途中には狭小な2個の小苞葉がある。花は径約1.5cm、青紫色から淡青紫色または淡紅紫色、まれに白色で、花弁は長さ10-12mm、縁は波状になり、側弁の基部に毛が生え、上弁は反り返る。唇弁の距は太く短く、長さは3-4.5mmになり、先端は上方に内曲する。萼片は楕円状披針形から披針形で、腺毛が生え、付属体は半円形で縁は全縁となる。雄蕊は5個あり、花柱はカギ形になり、上部は棒状、柱頭は下向きに強く突き出る。果柄は下向きに曲がり、果実は球形の蒴果で、径6-8mmになり、密毛が生え、地表で裂開する[3][4][5][6]。種子にはエライオソームというアリが好む付属体があり、アリに種子を散布させるアリ散布型種子の典型を示す[6]。染色体数は2n=20[3]。 分布と生育環境[編集] 日本では、南千島、北海道、本州の中部地方以北に分布し[3][4][5][6]、山地から亜高山の落葉広葉樹林の湿り気のある林内や林縁に生育する[3]。北海道では超塩基性岩地に多く、本州中部地方では火山灰地域に多いという[3]。 世界では、朝鮮半島、中国大陸(東北部)、ロシア極東地方、モンゴルなど、ユーラシアの亜寒帯に広く分布する[3]。 名前の由来[編集] 和名のエゾノアオイスミレは「蝦夷の葵菫」の意で、アオイスミレ(葵菫、V. hondoensis)に似て、北海道に産することによる[6]。 種小名(種形容語)collina は、「丘の」「丘陵に生える」の意味[7]。 ギャラリー[編集] 花弁の縁は波状になり、側弁の基部に毛が生え、上弁は反り返る。花柱はカギ形になり、上部は棒状、柱頭は下向きに強く突き出る。 唇弁の距は太く短く、先端は上方に内曲する。萼片は楕円状披針形から披針形で、腺毛が生え、付属体は半円形で縁は全縁となる。 葉の先端はとがり、基部は深い心形、縁に低い波状の鋸歯がある。葉の両面とも浅緑色で、密に粗い開出毛が生える。

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