Month: December 2018

ヨーロッパ旱魃 (1540年) – Wikipedia

1540年のヨーロッパ旱魃(ヨーロッパかんばつ)は、ヨーロッパにとって異常気象であった。多くの古気候学的な分析により、この旱魃のときの気温と降水量が再構築され、現代の状況と比較されている。 Wetter et al. (2014)による歴史的な気候データの基礎的な分析により、11か月にわたりヨーロッパではほとんど降水がなく、限定的な旱魃であったかもしれないことが導かれた[1][2]。しかし、年輪年代学による追加の基礎的なデータから、Büntgen et al. (2015)はこれらの結論に疑問を呈し、この異常気象の記録は守られ続けるようなものではなかったと結論した[3]。 この旱魃は、アゾレス高気圧が平年よりかなり北東に張り出したことで発生したと考えられている[4]。このような気圧配置になると、高気圧の東側に降雨域や低温域が出現することが知られており、この年も、現在のロシア西部では寒く、洪水が頻発したとの記録が残っている[5]。旱魃は、アフリカのモロッコやリビアの一部にまで及んだ[6]。 新聞のインタビューでスイスの歴史学者クリスチャン・フィスター(英語版)が描写したところによれば、旱魃はイタリア北部で始まり、冬だというのに7月のような暑さに見舞われた[7]。1539年10月から1540年4月上旬までは雨が1滴も降らず、その後に旱魃は北に広がった[7]。 11か月にわたり、降雨はなかったといってもよいほど少なく、気温は20世紀の標準的な値より5–7 °C高かった[7]。イングランドでは7月10日ごろから10月18日まで、ボヘミアのロウニでは5月26日から8月8日を除き10月13日まで、雨が降らなかった[8]夏の気温は多くの場所で40 °Cを上回ったと考えられている[7]。当時の記録には、暑さは「我慢の限界を超えている」とある[9]。ヨーロッパでは多くの木々が燃え、そのときに発せられた息苦しい灰が太陽の光を遮ったが、1540年の夏には雷雨は一度も報告されなかった[7]。5月の時点ですでに水は乏しいものになっており、井戸水や湧き水も干上がった[7]。水車は動かず、人々は飢え、動物たちは屠殺された[7]。7月になると燃え残った炭のような暑さに見舞われ、教会では祈りが始まり、ライン川、エルベ川、セーヌ川は干からび、足を濡らさずに横断することができるようになった[7]。水が残っていた場所では、温かい水が緑色に変色しており、死んだ魚がへたばって浮き上がっているのが確認された[7]。ボーデン湖の水位は記録的に低くなり、リンダウは実際に本土と陸続きになった[7]。まもなくすると、表面の水は完全に蒸発し、土には割れ目ができた[7]。中には、足がすっぽり入ってしまうほど幅の広い、乾いた割れ目もあった[7]。高温は12月まで続き、年末でも水温は泳ぐには少し冷たい程度だった[10]。 アルザス地方では、果物の花が2回咲き、リンダウでは、2回目のサクランボの収穫が実際に可能になるほどにまで至った[7]。ボーデン湖ではたちまち、ワインが水よりも安くなり、リモージュのワイナリーからは、炒められたブドウが収穫された[7]。このようなブドウから作られたワインはシェリーのようなものになり、人々はそれを一気に飲んだ[7]。ワインの収穫時期も、例年より数週間早かった[9]。ハン・ミュンデンからは、1540年にクヴェステンベルク(ドイツ語版)のワイナリーで製造された公爵のワインがいかに素晴らしく、国外のものより優れていたかを解説したものが発見されている[11]。スイスにあるゴールディヴィル(ドイツ語版)村の人々は、毎日標高にして500メートルほどの自暴自棄的な昇り降りを、ただテューン湖に残っている、樽数杯分の水を汲むためだけに繰り返した[12]。 この旱魃に伴い、50万人が犠牲になったと推測されているが、そのほとんどが下痢によるものだったと考えられている[7]。 他の異常気象との比較[編集] Orth et al. (2016)は、1540年の夏の平均気温は1966年から2015年の平均より高く、20パーセントの確率で、2003年の熱波のときの気温をも上回っていたと結論付けた[13]。

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観福寺 (香取市山倉) – Wikipedia

観福寺(かんぷくじ)は、千葉県香取市山倉にある真言宗豊山派の寺院。山号は山倉山。本尊は大六天王。元は山倉大神の別当寺であった。 山号は、地区の名称から山倉の地名を取り「山倉山」。院号は、京都嵯峨御所から下る聖観世音菩薩が勧請されている伽藍、天地に(地)、伽藍(院:建物)と謂う事で「観音地院」。寺号は、聖観世音菩薩の福徳を授けると謂う事で「観福寺」。 御本尊は明治維新太政官公布による神仏分離令が出された翌年の1869年(明治2年)5月24日まで、今の山倉大神の本殿奥の間(宮殿)に勧請されていた。それまでは別当から出向き御祈祷が修法されていた。天部の御本尊であり益して弘法大師空海が勧請した御本尊であり、真言宗で最も大切な《お経:般若理趣経の御本尊》である為、別当に持ち帰り、現講堂に遷座後現本堂に奉安され現在に至る。 本堂まで左右に曲げてあるのは、八方除きの参道である。また、道路側から厄除の石段である。最初の段は「13歳 男女の厄」、次の段は「5段 自分自身の五体清浄の清めの段」、次の石段(男女の厄除き)は「33歳 女性/42歳 男性」、本堂前の木段は「6段 六根清浄」である。尚、参道と石段は参拝者専用の参道と石段となっている。 又、近年企画(木村氏)が当山を訪問して関東に四国八十八ケ所の写しを企画との事、当山は真言宗の開祖弘法大師が815年(弘仁5年)に勧請した御本尊『大六天(正式名称:他化自在 天王宮)』と『子育子育観世音菩薩(荒彫り)』の二体が勧請されているので仲間入りを願い出て、関東八十八ヶ所霊場第45番札所となっている。当山は日本に点在する『第六天』の総本山ともされている。 811年(弘仁2年)円頓によって創建され、814年(弘仁5年)弘法大師空海がこの寺に入り修法した。 京都嵯峨御所(お上)から「十六菊紋」の使用(寺紋)許可、緋紫法着用(当山は僧階に関係なく堂守に就任すると同時に)認可、江戸殿中に参上認可、殿と接見許可 、講堂正面に葵紋付きを観ることが出来る。 略縁起文[編集] この節の加筆が望まれています。 山倉山大六天王畧縁起文[編集] 【山倉山大六天王畧縁起文】より 抑々本尊大六天王と申し奉るは大日如来の内眷屬にして此の慾界に安住し假りに降伏の形相を示し給ひ大自在神通の力を以て或は大忿怒威の御身と現はれ悪鬼魔軍面縛し厄難消除疾病退散を司り壽命を與へ福徳智惠愛敬を授け給ふの御誓願なれば御利益は響きの物に應するが如く願として満足せざることなし 茲に當山の由來を案ずるに人皇52代嵯峨天皇の御宇弘仁5年天下大疾し衆人其の病苦に斃るヽ者巷に満る蔭惨の状人の目を覆ふばかりなり時恰も大聖吾が弘法大師東國回錫の砌り即ち同年辛卯霜月初卯の日霊験新かなる御本尊を此の地に勧請し奉り済世利民の本願を以て國家安全萬民豊楽を祈り殊には末世諸人の疾病に苦しむを憐れみ天尊の威徳を仰いて護摩供の秘法を厳修し給ふ事一夏90日(座)の間遂に感應空しからず奇瑞ありし中にも龍神よりは夜毎に龍燈を捧げ供魚として鮭の魚を献し奉る而して此の天尊を信心し護摩供御霊符の御利益に依り厄難病苦を脱れ福徳智惠愛敬を満足したる者挙げて御魚として献るに敢えて変ることなく實に有難き事ならずやされば此の天尊を信ずる人々は疾病厄難を退れ福智益長し家門繁栄子孫長久の基き最も御符護摩供の霊験に因りて當利益を蒙りし者は擧げて数へ難し之れ諸人の知る處なり

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ルドラ・シャハ – Wikipedia

ルドラ・シャハ(Rudra Shah、生年不詳 – 1673年)は、ネパール、ゴルカ王国の第7代君主(在位:1661年 – 1673年)。第6代君主クリシュナ・シャハの息子。 目次 1 生涯 2 脚注 3 参考文献 4 関連項目 1661年、父クリシュナ・シャハが死亡したことにより、王位を継承した[1]。 1671年、マクワンプル・セーナ王国で王子シュバ・セーナが父王ハリハラ・セーナに反逆するためカトマンズ盆地に援軍を求め、パタン・マッラ朝が応じた。その際、ルドラはパタン王シュリーニヴァーサ・マッラに援軍を送り、マクワンプルの攻撃に向かわせている[2]。 1673年、ルドラは死亡し、息子のプリトビパティ・シャハが王位を継承した[1]。 ^ a

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ヴァルミア=マズールィ県 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ヴァルミア=マズールィ県” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年9月) ヴァルミア=マズールィ県 województwo warmińsko-mazurskie 県の旗 県の章 測地系: 北緯53度51分00秒 東経20度49分00秒 / 北緯53.85000度 東経20.81667度

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小林仁 (海軍軍人) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “小林仁” 海軍軍人 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年12月) 小林 仁(こばやし まさし[1]、1890年6月18日 – 1977年8月7日)は、日本の海軍軍人。海兵38期・海大21期。最終階級は海軍中将。山形県米沢市出身。山形県立米沢中学校、海軍兵学校(38期)卒業。条約派の一人[2]。 海軍士官となる[編集] 旧米沢藩の農家に生まれる。山下源太郎、黒井悌次郎、南雲忠一ら同郷の先輩と同様に、米沢中学より海軍兵学校に進む。米沢海軍武官会会員。 海兵38期での卒業席次は149名[3]中4位[4]。海兵38期で恩賜の短剣を拝受したのは首席・次席の2名のみであったため、恩賜を逃す[注釈 1][3]。海兵38期は、戸塚道太郎、栗田健男、福田良三、杉山六蔵、三川軍一、五藤存知ら、太平洋戦争で司令長官・司令官を輩出したクラスである。 1916年、海軍大学校専修学生を卒業[1]。いわゆる「航海屋」となる。敷設艦「勝力」航海長、海防艦「秋津洲」航海長、第三艦隊参謀を歴任[1]。1923年、海軍大学校甲種学生を卒業(21期)[1]。 横須賀鎮守府附(海軍省軍務局第1課で勤務)、河用砲艦「比良」艦長、出仕(軍令部第1班第1課で勤務)、アメリカ駐在(ジョンズ・ホプキンズ大学で学ぶ)、アメリカ大使館附武官補佐官を歴任して、1927年12月に海軍中佐に進級し、1928年4月に帰朝を命じられる[1]。潜水母艦「長鯨」副長、出仕(海軍省人事局第1課で勤務)、海軍省人事局第1課局員、出仕(海軍省軍務局第1課で勤務)を歴任して、1931年12月に海軍大佐に進級[1]。ジュネーブ軍縮会議随員、アメリカ大使館附武官、海軍軍令部第3部第5課長、戦艦「山城」艦長を歴任[1]。

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