Month: July 2019

二曲輪猪助 – Wikipedia

二曲輪 猪助(にぐるわ いすけ)は、享保11年(1726年)に成立した駒谷散人『関八州古戦録』に登場する、忍びの骨張(こっちょう)。天文14年(1545年)から翌年にかけての河越合戦のとき、扇谷上杉軍の陣中に潜入して敵情を報告していたとされる。風間小太郎の指南を受けて後北条氏に仕えた、『北条五代記』の風魔の師匠筋にあたる伝説の忍者である。 『関八州古戦録』巻1「上杉憲政武州河越城責之事」によると、天文14年(1545)の河越の陣中、北条氏康の命を受けて、小田原から、風間小太郎の指南を得た二曲輪猪助という「忍びの骨張(こっちょう[1])」が柏原(埼玉県狭山市)の扇谷上杉の陣中に潜入し、敵軍の配置の詳細を報告していた。しばらく経ってから露見し、扇谷の追手の太田犬之助という「歩行立の達者」に追いかけられたが、小田原まで逃げ帰ることができた。この日、誰かが扇谷の陣の前に 駆出され 逃ぐるは(二曲輪)猪助 卑怯もの よくも太田(逢うた)が 犬(去ぬ)之助かな という落首を書いた[2]。 『川越市史』[3]は、河越夜戦については、後世の人に疑問を抱かせるような物語的逸話が多すぎる、とし、例として河越城の城将・北条綱成の弟・福島弁千代[4]が籠城中の城内に決戦の予定を伝えて鼓舞した、という逸話と、上記の『関八州古戦録』の二曲輪猪助の逸話を挙げている。 とはいえ、『関八州古戦録』は、『関侍伝記』(七巻本『北条記』[5])をベースに、関東の様々な記録から『北条記』にない逸話を補完して集大成した軍記物であり[6]、河越夜軍のとき、北条氏康が謀計によって敵方が油断しているか偵察するため敵陣に忍を潜入させた、との逸話は、参照元の『北条記』にもみえる。 氏康、敵を謀(はかり)すまし、天文13年(1544年)4月20日、上杉を夜討にすべしとて、まず笠原越前守を以て敵陣へ忍(しのび)を付て伺ひけるに、「上杉勢は小田原勢の懸るべしとは思いもかけず、『氏康は定て明日か明後日は逃て行くべし。河越を責(せめ)落して後に小田原をも取べし』など云もあり、又氏康へ内通して音信に及ぶもありて、中々合戦を胸に持たる兵は少なし」とぞ申ける。「時分はよきぞ。懸れ」とて皆一同に打立ける。 —『北条記』巻3 河越夜戦之事[7] また『鎌倉管領九代記』の「風間小太郎」の名前を挙げて後北条氏と結び付け、『北条五代記』の風魔の存在を仄めかしていることから、『鎌倉管領九代記』と『北条五代記』も参照していることがわかる。 ^ 何かの技に習熟していること、巧みであること。「盗人の骨張ぢゃ」(土井忠生・森田武・長南実『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年、134頁) ^ 落首において、「にぐるわ」という姓は、「逃ぐるは」との掛詞になっており、名前の「猪」は「太田犬之助」の「犬」と対になっている。

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星野学園中学校・星野高等学校 – Wikipedia

第二校舎(共学部) 星野学園小学校・星野学園中学校・星野高等学校共学部(ほしのがくえんしょうがっこう・ほしのがくえんちゅうがっこう・ほしのこうとうがっこうきょうがくぶ)は、埼玉県川越市石原町二丁目に、星野高等学校女子部(ほしのこうとうがっこうじょしぶ)は、埼玉県川越市末広町三丁目にそれぞれ校舎を構え、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校である。設置者は学校法人星野学園。中学校は男女共学、高校は共学部と女子部を併設する。中高一貫教育を実施している。姉妹校として同市にある川越東高等学校がある。 設置教育組織[編集] 星野学園小学校(共学) 星野学園中学校(共学) 理数選抜クラス 進学選抜クラス 星野高等学校・女子部 III類(特別選抜)コース II類選抜コース I類コース 文理コース 星野高等学校・共学部 S類コース α選抜コース βコース 星野高校はコースによってクラス分けされる。女子部のⅢ類コースは共学部のS類コース、α選抜コースと同一のカリキュラム、レベルで授業が行われる。 1年次は、入試の成績、2年次からは志望大学進学に必要な受験教科、テストの成績順、偏差値順、選択教科によりクラス分けされる。 レベルごとに実施されるテストも異なり、成績も同じテストを受けるクラスごとにでる順位を学年順位とする。 女子部は7前後の数のクラスが、共学部は10前後の数のクラスが存在する。

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夏草の賦 – Wikipedia

『夏草の賦』(なつくさのふ)は、司馬遼太郎の歴史小説。1966年9月から1967年5月にかけて地方紙に連載、文藝春秋により刊行された。戦国時代から安土桃山時代にかけての大名、長宗我部元親を主人公とした作品。なお、この作品では長曾我部元親と表記されている。 あらすじ[編集] 戦国の世、「鬼国」と呼ばれた僻遠の地である土佐に生まれた長曾我部元親は、織田家に仕える斎藤利三の妹であり、織田家中でも随一の美貌といわれた菜々を娶る。 この頃まだ数郡を切り取った小領主にすぎない元親は、菜々の縁もあって同じく中央で新興勢力として台頭しつつあった織田信長と誼を結び、権謀術数の限りを尽くして土佐の切り取りを推し進める。 本山氏、安芸氏、一条氏らを次々に降して土佐の平定を果たした元親はいよいよ天下統一の野望を抱き、四国を破竹の勢いで侵略する。 ところが、既に京を押さえて天下の趨勢を握った同盟者の信長にとって、四国はもはや征服すべき対象でしかなくなっており、武田氏、上杉氏、本願寺といった難敵の脅威が去るや否や懐柔策から一転、長曾我部家に対して強硬な姿勢に出る。 取次ぎ役を担っていた明智光秀の奔走も虚しく両家の仲は決裂し、元親により阿波を追い出された三好笑巌を先鋒とする数万の四国平定軍が編成された。 二つの勢力が激突するかと思われたそのとき、明智光秀によって本能寺の変が勃発し、信長は道半ばで倒れる。 窮地を逃れた元親は反転攻勢に出るが、二十年来の戦乱によって四国の国土が限界を迎えつつある一方、明智光秀が信長を討ったわずか11日ののちに羽柴秀吉によって討たれ、さらに秀吉は柴田勝家を滅ぼして信長の後継者の地位を固めると、天下の情勢は刻々と変わりつつあった。 徳川家康を降して後顧の憂いを絶った秀吉は、かつて信長がそうしようとしたように、ようやく四国の平定を果たした元親を屈服させるべく大軍を送り込む。 再び存亡の危機に立たされた元親は徹底抗戦で玉砕する道を選ぶが、刃折れ矢尽き、ついに家臣の説得に応じて秀吉の軍門に降る。 彼が半生をかけて切り取った領土は土佐一国を除いて召し上げられ、また秀吉という人物に直接触れることでその器の大きさを思い知らされた元親は、彼の野望に幕を下ろした。 その後、元親は秀吉からかつて讃岐で戦った仇敵、十河存保とともに九州征伐の先陣を命じられる。 軍監(事実上の大将)にはかつて元親が数度に渡って敗北せしめた秀吉の部将、仙石秀久が付けられた。 しかし功にはやる仙石秀久は、本軍の到着まで守勢に徹せよ、という秀吉の命を無視し、島津家久率いる屈強な薩摩勢の大軍に寡兵をもって正面衝突するという愚を犯す。 早々と戦場から逃亡した秀久に取り残され、島津軍の壮絶な攻撃にさらされた四国勢は奮戦むなしく元親の嫡子である弥三郎(信親)、十河存保が討死、元親は危うく落ちのびる。 最も期待をかけていた嫡男・信親の死、それに追い討ちをかけるように訪れた愛妻・菜々の死によって元親は往年の覇気を完全に失ってしまう。 そして、彼が生きる気概を無くしたことは、長曾我部家そのものが指針を失うことをも意味していた。 そのまま迷妄状態の元親によって跡継ぎに定められた盛親は元親の死後、関ヶ原の戦いで判断を誤り、やがて大坂の陣の終結をもって長曾我部家は滅亡する。 主な登場人物[編集]

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会田桃子 – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典が不足しています。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2020年4月) 音楽の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。(2020年4月)出典検索?: “会田桃子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 会田桃子Momoko Aida 基本情報 生誕 (1975-05-27) 1975年5月27日(46歳) 出身地 日本 横浜市

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カオ・キム・ホルン – Wikipedia

カオ・キム・ホルン(クメール語: កៅ គឹមហួន / Kao Kim Hourn, 1966年 – )は、カンボジアの政治家、国際政治学者。外務・国際協力省長官(副大臣)、カンボジア国際関係研究所諮問委員会副議長、首相補佐特命大臣を歴任し、一貫してASEAN問題を担当する。またカンボジア大学共同創設者として、同大学学長および政治学教授を務める。政治学博士。 カウ・クムフオン (Kau Gẏmhuan) とも表記される。 カオは1966年、コンポンチャム州 Koh Sotin 郡において学校教師の子として生まれた[1]。ポル・ポト政権時代、彼の家族はバッタンバン州の水田で働かされ、政権崩壊後はタイ国境近くの難民キャンプで数年を過ごし、やがてアメリカ合衆国に移住した[1]。 1985年7月に米国バージニア州・ハーンドン高校を卒業し、1989年5月にはテキサス州・ベイラー大学を卒業してアジア学学士 (B.A.,

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EVIL LINE RECORDS – Wikipedia

EVIL LINE RECORDS(イーブルラインレコード)は、日本のレコードレーベル。キングレコードの内部レーベルの1つである。 キングレコードでアニメを中心に手がけてきたレーベルであるスターチャイルドから派生する形で2014年4月2日に発足した。 アーティストやアニメ・実写などの映像作品のプロデュース、アニメ・実写・音楽・ゲーム・舞台のメディアミックス化を展開するほか、1つのジャンルに捉われることなく、アーティストやクリエイターの発掘・IP開発も行っている。 2014年4月2日、これまでキングレコードでアニメを中心に手がけてきたレーベルであるスターチャイルドから派生する形でEVIL LINE RECORDSが発足し、スターチャイルドに所属していたももいろクローバーZや特撮などが移籍し、レーベルヘッドはこれまでスターチャイルドでディレクターやプロデューサーを務めてきた宮本純乃介が就任している[1][2]。 2015年6月、EVIL LINE RECORDSが音楽制作を手掛け、同年7月より放送開始のテレビアニメ『それが声優!』から誕生した声優ユニット・イヤホンズがデビュー、6月18日に1stシングル『耳の中へ』をリリース。レーベル発足以来初めてとなる声優アーティストのプロデュースとなった。 2017年9月、EVIL LINE RECORDSが原作・プロデュースを手掛ける音楽原作キャラクターラッププロジェクト『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』が始動。 2019年7月15日、レーベル設立5周年を記念し「EVIL LINE RECORDS 5th

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吉田和弘 – Wikipedia

吉田 和弘(よしだ かずひろ、1958年 – )は、日本の医学者。広島生まれ。食道がん、胃がん、大腸がん、肝胆膵腫瘍などの消化器がんの治療を専門としている。 1984年より腫瘍外科医としてキャリアを開始。分子病理学の研究や英国留学を経て、2007年岐阜大学大学院腫瘍制御学講座腫瘍外科学分野教授に就任。鏡視下手術などの低侵襲外科手術をこなすのみならず、集学的治療を駆使し、初診時に手術が難しいと診断された患者さんにも根治手術の施行に尽力している。2018年より岐阜大学医学部附属病院・病院長。 2001年、自身の母親が末期の胃がんを患ったが、当時の上司である教授に許可をもらい、自分自身が主治医として治療を行ったが、「病室の長椅子で、主治医として、そして家族として、寝泊まりを続ける日々」であったと、主催した第57回日本癌治療学会学術集会の会長講演でその当時の模様が語られた。また、ある夜、母親のベッドを背にうとうとしていたとき、偶然に聞こえた看護師さんとの会話で、「『吉田先生も毎日こちらに泊まられて、大変ですね』という看護師さんの言葉に対し『だって、もうあとわずかしか一緒にいられないんだもん』との母親の答えに、私は、寝たふりをしていましたが、溢れる涙を止めることができませんでした。母が患者として全てを受け入れて、また、それを悟られないように、家族に心配をかけないようにしているという思いをひしひしと感じたのです。そして、これまでの感謝の気持ちと、『自分自身が専門とするように仰せつかった胃がんを母が患い、しかも手術のできない状態でしか発見できなかった』という思いと検診の重要性を改めて感じました。私は、患者さんやそのご家族にお話ししていたことを自分の家族にはしてやれなかったこと、まだまだ親孝行もできていないのに、という悔しい思いに、胸が張り裂けそうになりました。母は、自分の死期を自覚していたようです。いつも、私が目を覚ますのを待って、『体を起こして』と頼みます。少しでも息子に無理をかけないようにという思いと、家族に心配をかけないようにという配慮からでしょう。誰がどう見ても余命幾ばくもないとわかるのに、『こんなに調子がよいなら、家に帰ることができるかもしれないね』と言います。しかしながら、短い療養期間でも親子として、死というものを前提に感謝や思いをお互い伝えることができました。それが故に、母の最期は、とても穏やかなものでした。私自身、患者の家族として、心穏やかに母の最期を見送ることができたのです。改めて、がんの患者を抱える家族として、これこそが重要であると理解することができました。『私も、こんな最期でありたい』と思いました」と、治療者であると同時にがん患者さんの家族でもあるという複雑な心境を赤裸々に語った。 英国オックスフォード大学・ジョンラドクリフ病院への留学経験もあり、英語が非常に堪能。また、愛犬家であり、「2000 年、夢であったゴールデンレトリバー、我が家の愛犬 Qoo チャンが家族として加わった」、「2012年5月10日に我が家の愛犬 Qoo チャンがこの世を去った。子供達が中学生、小学生の頃から、2 人ともが大学に入学するのも見てくれた。両親の臨終も見てくれた、小生の山有り谷有りの人生を共に味わい、広島から岐阜にも来てくれた。家内の一番の話し相手であった」、「2013年、2 代目のゴールデンレテトリバー CoCo チャンが新たな家族に加わった」とホームページに紹介されている。 伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2021年4月)  1977年  修道高等学校卒業[1]  1984年

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水の話 – Wikipedia

水の話 Une histoire d’eau 監督 フランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダール 脚本 フランソワ・トリュフォー 製作 ピエール・ブロンベルジェ ナレーター ジャン=リュック・ゴダール 出演者 ジャン=クロード・ブリアリ 撮影 ミシェル・ラトゥーシュ 編集 ジャン=リュック・ゴダール 公開 1961年3月3日

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こうやもゆ – Wikipedia

こうや もゆ(1989年10月1日[4][注 1] – )は、日本のアイドル。活動初期は「荒野 もゆ」と表記していた[6][注 2][注 3]。2013年秋に、ミスiD2014アマテラス特別賞を受賞した[8]。 2013〜2014年3月末まで、現役のグラビアアイドルが接客する渋谷の飲食店『ココナッツラウンジ』に在籍していた[9]。2013年、講談社主催のミスiD2014にてアマテラス特別賞を受賞する[10]。2014年、TOKYO IDOL FESTIVALにミスiD枠で出演する[11]。2015年4月22日、新宿duesにて開催されたぱいぱいでか美のイベント「月例PPD劇場-ぱいぱいでか美の悩める仔羊工房-」にゲスト出演[12]。同年8月10日、歌手のミドリカワ書房をゲストに招き、阿佐ヶ谷ロフトAにてイベント「メガネ界の無頼派、もゆ山にのぼせろ-それぞれにXXがある-」を開催する[13]。同年10月より2016年末まで、元SDN48の手束真知子がオーナー兼プロデューサーを務めるコンセプトスペース「発掘!グラドル文化祭」オープニングメンバーとして在籍。[14] 現在は撮影会、ライブ(自身で作詞作曲を手掛け、アコースティックあるいはエレキギターのサポートを入れた編成をとる)、配信アプリ(pococha)等で活動している。毎年2月中旬から4月下旬まであまりにも花粉症がひどいため、2017年から「花粉休暇」を取り始めた。その期間は自宅からのライブ配信が活動の中心となる。2021年は新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)のため、ライブハウスでのライブ活動等の再開が未定。 イベント[編集] TOKYO IDOL FESTIVAL 2014(2014年8月2日、ミスiD2013-2015枠として出演) こうやもゆ初深夜イベント~もゆさんの初めては俺達のもの~(2015年1月9日、阿佐ヶ谷ロフトA) こうやもゆ2周年記念イベント

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