Month: January 2020

榊原一夫 – Wikipedia

榊原 一夫(さかきばら かずお、1958年8月6日 – )は、日本の検察官。大阪高等検察庁検事長。 人物・経歴[編集] 大阪府出身。洛星高等学校を経て、1982年東京大学法学部卒業。1984年札幌地方検察庁検事任官。 2001年佐賀地方検察庁次席検事、2003年法務省入国管理局参事官、2004年入国管理局総務課長、2005年法務省刑事局国際課長、2008年大阪地方検察庁公判部長、2010年大阪高等検察庁刑事部長。 2011年最高検察庁検事、同年旭川地方検察庁検事正、2013年法務省入国管理局長、2014年大阪高等検察庁次席検事、2015年最高検察庁公判部長[1]、2017年大阪地方検察庁検事正[2]。 2018年3月福岡高等検察庁検事長[3]、2020年1月大阪高等検察庁検事長[4]。2021年7月退官[5]。同年、第一東京弁護士会登録。11月「アンダーソン・毛利・友常法律事務所」入所。2022年NHK経営委員[6]。 取扱案件は「規制当局対応・危機管理」[7]。 ^ “人事:法務省” (日本語). 毎日新聞. 2020年3月23日閲覧。 ^ “大阪高検・地検新トップ「強い検察に」「信頼回復」” (日本語). 日本経済新聞

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熱海市議会 – Wikipedia

熱海市議会 あたみしぎかいAtami-shi gikaiAtami City Council 種類 種類 任期制限 第21期(新設合併後) 歴史 設立 1937年(新設発足) 前身 旧・熱海町議会、旧・多賀村議会 役職 議長 竹部隆(熱海成風会)、2019年5月20日より現職 副議長 橋本一実(熱海市民クラブ)、2020年6月23日より現職 構成

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マッツ・ルアスレウ – Wikipedia

マッツ・ルアスレウ コペンハーゲンでのルアスレウ (2017年) 名前 本名 マッツ・ルアスレウ・ラスムッセンMads Roerslev Rasmussen ラテン文字 Mads Roerslev 基本情報 国籍  デンマーク 生年月日 (1999-06-24) 1999年6月24日(22歳) 出身地 コペンハーゲン 身長

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亀田鵬斎 – Wikipedia

亀田鵬斎像 谷文晁画 北村探僊縮模 亀田 鵬斎(かめだ ぼうさい、宝暦2年9月15日(1752年10月21日) – 文政9年3月9日(1826年4月15日))は、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。 鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興(おこる)。字は国南、公龍、穉龍(ちりゅう)、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。 鵬斎筆 五言律詩四行草書「瀑近春風温」 父は萬右衛門といい、上野国邑楽郡富永村上五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町上五箇)の出身で日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭であったが、鵬斎が7歳のころにこの長門屋を継いだ。母の秀は、鵬斎を生んで僅か9ヵ月後に歿した。 鵬斎は6歳にして三井親和より書の手ほどきを受け、町内の飯塚肥山について素読を習った。14歳の時、井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜き、金峨を驚嘆させている。この頃の同門 山本北山とは終生の友となる。23歳で私塾を開き経学や書などを教え、 躋寿館においても教鞭を執った。赤坂日枝神社、駿河台、本所横川出村などに居を構え、享和元年(1801年)50歳のとき下谷金杉に移り住んだ。妻佐慧との間に数人の子を生んだが皆早世し、亀田綾瀬のみ生存し、のちに儒学者・書家となる。亀田鴬谷(かめだおうこく)は孫にあたる。 鵬斎は豪放磊落な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものだった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。 松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、酒に溺れ貧困に窮するも庶民から「金杉の酔先生」と親しまれた。塾を閉じ50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流する。 享和2年(1802年)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。 文化5年、妻佐慧歿す。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがあった。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5両を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。 鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳が残されているが、良寛より懐素に大きく影響を受けた。

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ボリビアのイエズス会伝道所 – Wikipedia

サン・ハビエル伝道所の聖堂 ボリビアのイエズス会伝道所群は、スペインによる植民地化の過程で、イエズス会によって建造された伝道用の集落群である。それらは、ボリビア国内でも、特にサンタクルス県北部やベニ県に見られる。そのうち、サンタクルス県チキトス地方に残る伝道所群は「チキトスのイエズス会伝道所群」として、ユネスコの世界遺産に登録されている。 起源[編集] スペインがボリビアを入植したときには、様々な会派の修道士たちが、12使徒になぞらえうる新大陸の伝道活動に参加した。彼らが作った建造物・集落群は「ミシオネス」(Misiones) あるいは「レドゥクシオネス」(Reducciones) と呼ばれた。日本語では「伝道所」「伝道施設」「布教村」などの訳が当てられる。伝道所の建設に熱心だったのは、イエズス会とフランシスコ会である。イエズス会士たちによって建てられた施設群は、特にチキトス地方の人々の歴史にとって、逸することの出来ない足跡を残している。 イグナチオ・デ・ロヨラによって創設され、ローマ教皇パウルス3世によって認められたイエズス会は、1540年以降、その伝道施設を新大陸に築き、先住民への宣教を企図した。その活動のために様々な地を巡った結果、征服者たちの新たな領土の発見に結びついたこともあった。ボリビアでの宣教は、有名な黄金郷伝説エル・ドラードあるいはパイ・ティティの調査にも大きく影響されていたと考えられている。 伝道所建設の歴史[編集] ボリビアでイエズス会伝道所が建設され始めたのは17世紀末のことである。それは主としてサンタクルス県北部のチキトス地方とベニ県のモホス (Moxos) で行われた。 最初の伝道所はサン・フランシスコ・ハビエル伝道所 (Misión de San Francisco Xavier) で、建設は1691年のことだった。続いて1696年にはサン・ラファエル伝道所 (Misión de

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〈古典部〉シリーズ – Wikipedia

『〈古典部〉シリーズ』(こてんぶシリーズ)は、米澤穂信の推理小説のシリーズ。KADOKAWA(角川書店ブランド)より2001年10月から刊行されている。 文化系部活動が活発なことで有名な進学校・神山高校で「古典部」という廃部寸前の部活に入部した男女4人が、学校生活に隠された謎に挑む、「日常の謎」に分類されるシリーズ。基本的に、主人公であり探偵役でもある折木奉太郎の一人称で語られる。 2012年のライトノベルの売上において、〈古典部〉シリーズが第3位となった[2]。2019年6月時点でシリーズ累計発行部数は245万部を突破している[3]。 メディアミックス化もされており、コミックスは累計90万部、アニメBD&DVDは19万部を突破している[4]。 概要 シリーズ第1作は、著者のデビュー作である『氷菓』。同作はライトノベルの新人賞である角川学園小説大賞のヤングミステリー&ホラー部門で奨励賞を受賞し、角川スニーカー文庫のサブレーベルである〈スニーカー・ミステリ倶楽部〉から刊行された(『氷菓』は第1回配本)。2作目『愚者のエンドロール』も同レーベルで刊行されたものの、〈スニーカー・ミステリ倶楽部〉の企画が頓挫し、続編が出せない状態となった。しかし2004年、米澤がシリーズ3作目(完結編)として執筆されていたものを全面改稿しノンシリーズ作品として東京創元社から出した『さよなら妖精』が高い評価を受けたため、角川書店でのシリーズ再開が決定。2005年にシリーズ3作目『クドリャフカの順番』が単行本(四六判)で刊行され、同時に『氷菓』と『愚者のエンドロール』も角川文庫から新装丁で刊行された。以降、シリーズ作品はまず単行本で刊行され、後に文庫化されている(詳しくは既刊参照)。シリーズは奉太郎が高校を卒業するまで続く予定[5][6]。 シリーズの舞台である神山市は、「中部地方にあると推定される緑豊かな地方都市」とされている[7]。アニメ版の舞台のロケハンは、主に著者の出身地である岐阜県高山市で行われた[8]。十六銀行は、ファンの「聖地巡礼」による高山市内への観光客を年間15万人と想定し、岐阜県内への経済効果は21億円と算出した[9]。2013年2月1日には、アニメのモデルとなった場所を案内する高山市公式ガイドマップが1万枚制作され、市役所や市内の観光案内所等で配布されている[10]。 既刊 氷菓 2001年10月31日 角川スニーカー文庫 ISBN 4-04-427101-1 のち 角川文庫 ISBN 978-4-04-427101-5 シリーズ第1弾。古典部に入部した省エネ主義者・折木奉太郎は、同じく入部した千反田えるに振り回されて日常の謎を解くうちに、文集『氷菓』に秘められた33年前の真実に迫ることになる。 本作から『クドリャフカの順番』までの文化祭三部作は「熱狂に押しつぶされた人」がテーマとなっている[6]。 愚者のエンドロール 2002年7月31日 角川スニーカー文庫

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安曇野ちひろ公園 – Wikipedia

安曇野ちひろ公園(あづみのちひろこうえん、あずみのちひろこうえん)は、長野県北安曇郡松川村にある総合公園(都市公園)。園内に安曇野ちひろ美術館を内包している。 当園は、松川村が「松川村都市公園条例」に基づき、松川村3358番地48ほかに設置する都市公園である[2]。 もともと村の観光拠点として整備された「ハートフルパラダイス文化公園」を、1996年(平成8年)6月に安曇野ちひろ美術館が完成したのを受け、安曇野の自然に囲まれた美術館のある公園として設置されたもの[3]。公園は4年計画で、1997年(平成9年)4月、安曇野ちひろ美術館が開館されたと同時に、まず約35,000平方メートルが整備された[6][要検証 – ノート]。「安曇野ちひろ公園」という名称は、全国公募により825通の応募作品の中から選ばれた[3]。 2016年(平成28年)には、美術館の北側に約17,000平方メートルが拡充され、「体験農園」・「体験交流館」・「トットちゃん広場」が新たに整備された[7]。同年7月23日、公園拡充整備工事の竣工式が行われ、体験型施設としてグランドオープンした[8]。公園内に新設された建物の名称は、公園運営ボランティアであるサポート隊により「体験交流館」、「トモエの講堂」に決定された[9]。 施設概要[編集] 総面積は53,500平方メートル[1]。 公園部分は雑草を3本抜けば無料で入園できる[11]。トットちゃん広場は冬季(12月〜2月)休館あり[12]。 体験交流館[編集] 安曇野ちひろ公園の北エリア整備について、2013年(平成25年度)ワークショップを開催し詳細について検討する中で、体験学習スペースを備えた維持管理に対応できる施設(センターハウス、現体験交流館)を建設することになった[13]。2015年(平成27年)7月に起工し、翌2016年(平成28年)7月にオープンした[8]。体験交流館では地元産の食材を使い、食つくりの体験(要予約)ができる。 トットちゃん広場[編集] トットちゃん広場では『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子著)の世界を再現している。東京都のトモエ学園にあった「電車の教室・図書室」と「トモエの講堂」が移設されている。 モハとデハニ[編集] 『窓ぎわのトットちゃん』に登場する鉄道車両の校舎を再現する為に、松川村が長野電鉄から譲り受けた[14]。電車の図書室を再現した「モハ」=モハ604(1927年製)と電車の教室の「デハニ」=デハニ201(1926年製)がある[15]。デハニ201は1980年(昭和55年)4月まで運行していた[16]。2014年(平成26年)10月12日に長野電鉄から安曇野ちひろ公園へ移設された[16]。移設当日は、前日から「特別お泊り会」を実施し、村内に宿泊した参加者約70名や松川村民と電車を迎えるイベントも行われた[16]。 「デハニ」は黒柳が自身の幼少時代をつづったエッセー『窓ぎわのトットちゃん』に登場する「電車の教室」を再現しており、運転席後部に貨物置き場がある[16]。もう1両の「モハ」は500冊の本を自由に読める図書館として開放している[16]。 安曇野ちひろ美術館[編集] 1997年には財団法人いわさきちひろ記念事業団によって、いわさきちひろと世界の絵本画家の作品にふれられる絵本美術館が開館した。建物の設計は1977年に開館したちひろ美術館・東京と同じ内藤廣建築設計事務所であり、初代館長は松本猛である。 大花壇[編集] 毎年6月、松川中学校の生徒と「花が咲いている村づくりの会」会員により、公園内大花壇(約1万株)にブルーサルビアの定植が行なわれている[18]。

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盧作孚 – Wikipedia

盧 作孚(ろ さくふ)は中華民国、中華人民共和国の政治家・教育家・実業家。主に国民政府時代に実業家として活躍し、名声をあげた人物である。別名は盧思。 四川メディア界での活動[編集] 麻布を売る小売商人の子に生まれる。15歳の時に、成都の文化初習学校で学ぶ。この頃から、孫文(孫中山)の革命思想に傾倒し始めた。 1916年(民国5年)から1920年(民国8年)5月まで、成都の新聞である『群報』の記者、『川報』の主筆をつとめた。民国8年夏に、少年中国学会成都分会に加入する。また、冬から、チベットに関する実地取材を『川報』で連載して、四川省の政界から注目を集めるようになった。 1921年(民国9年)、瀘州に拠っていた川軍(四川軍)第9師師長兼永寧道尹の楊森の下で、道尹公署教育科長に就任した。1924年(民国13年)5月、楊が四川軍務督理(督軍)に就任すると、盧は省教育庁長として招聘された。しかし盧はこれを断り、成都民衆通俗教育館長をつとめた。 水運業での成功[編集] 1925年(民国14年)より、盧作孚は水運の開業を目指して準備を開始する。1926年(民国15年)6月10日、民生輪船公司(民生実業股份有限公司)を合川で創業し、盧は総経理に就任した。合川・重慶間の水運を担って成果をあげている。1929年(民国18年)、川軍の有力指導者である劉湘の招聘を受けて、川江航務管理処処長を1年間つとめた。 その後も、盧作孚の水運業は軌道に乗って順調に事業を拡大していく。1929年(民国18年)から1930年(民国19年)にかけて、宜昌、漢口、南京、上海にまで、水運を拡大した。また、その運営自体も、外国の水運業に良く伍するものであった。さらに水運事業だけでなく、民生造船廠、天府煤鉱公司、扶植渝鑫錬鋼廠などの関連会社を創設し、一大企業グループを形成している。 1935年(民国24年)からは、四川省政府主席に就いた劉湘の招聘により、省建設庁長を2年間つとめた。盧作孚が勃興した水運業を始めとする各種産業は、国民政府が内陸部へ撤退した後の抗戦維持に大きく貢献している。国民政府中央でも、1937年(民国26年)に交通部次長、1938年(民国27年)に全国糧食管理局局長をつとめた。 国共内戦期以後[編集] 日中戦争(抗日戦争)後の1945年(民国34年)、盧作孚は太平洋輪船公司を設立した。上海を拠点にして、香港、台湾、ついには日本、東南アジアとの海運事業にまで拡大し、成功している。国共内戦終結後、盧作孚は一時香港に寓居した。まもなく周恩来の招聘に応じて北京入りし、中国人民政治協商会議全国委員会委員、西南軍政委員会委員などを歴任している。 しかし、国内の政策が社会主義改造へと傾く中で、盧作孚は次第に中国国内で「官僚資本家」として糾弾されるようになる。1952年2月8日、盧は重慶で憂悶のうちに死去した[1]。享年60(満58歳)。現在の中国では盧の名誉は回復され、「民族資本家」としての功績を高く評価されている。 ^ 堀井伸浩「盧作孚」は服毒自殺、周凝華「盧作孚」は病没としている。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は、単に「逝世」(逝去、死去)としている。 参考文献[編集]

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イロコイ郡 (イリノイ州) – Wikipedia

イロコイ郡(イロコイぐん、英: Iroquois County)は、アメリカ合衆国イリノイ州の東部に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は29,718人であり、2000年の31,334人から5.2%減少した[1]。面積は1,100平方マイル (2,800 km2)以上あり、州内第3位である[2]。郡庁所在地は郡中央にあるウォツィーカ(人口5,255人[3])であり、同郡で人口最大の都市でもある。アメリカ合衆国でイロコイ族インディアンに因んで名付けられた郡はこの郡1つである[2]。 イロコイ郡は1833年2月26日に、ヴァーミリオン郡から分離して設立され、郡名はイロコイ川から採られた。イロコイ川はイロコイ族インディアンに因んで名付けられていた[4]。 最初の郡庁所在地は1837年に選ばれたイロコイの町だったが、庁舎は建てられず、郡事務所は賃貸だった。他に幾つかの郡庁所在地候補地が検討され、1839年にはミドルポートに移転し、郡庁舎と監獄が建設された。その後もミドルポートとウォツィーカ(当時はサウスミドルポートと呼ばれた)の間で郡庁舎の指定を巡って論争が続いた。1865年、最終的にウォツィーカに郡庁所在地が決められた[5]。ミドルポートは現在存在していないが、その名前の郡区が残っている。1866年、28,000ドルの建設費を掛けてウォツィーカに郡庁舎が建設され、地下には監獄が置かれた。この建物は1881年い拡張され、1893年には庁舎の東に新しい監獄が建設された[6]。 1833年創設時から1836年までの郡領域 1836年から1853年まで Map of イロコイ郡図 郡の北側境界はシカゴから60マイル (100 km) 南にある。東はインディアナ州に接している。 イロコイ川がインディアナ州から郡内に入り、イロコイ村の南側からウォツィーカ市の北に沿って西に流れ、北に転じてカンカキー市近くでカンカキー川に合流する。カンカキー川は北西のウィル郡でイリノイ川に合流する。イロコイ川より南のシュガー・クリークはやはりインディアナ州のストックランドの東で郡内に入って西に流れ、ミルフォードの南端をかすめ、南から来るマッド・クリークと合流し、北に転じてウッドランド村を過ぎて、ウォツィーカ近くでイロコイ川と合流する。 イロコイ郡州立野生生物保護地域は広さ2,400エーカー (9.70 km2)の州立公園であり、郡北東隅にある。他にもボニーのプレーリー[7]、フーパーブランチ・サバンナ[8]、ローダ・セメトリー・プレーリーと3か所の自然保護地がある[9]。

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