Month: February 2020

第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会 – Wikipedia

第88回天皇杯全日本サッカー選手権大会(だい88かい てんのうはいぜんにほんサッカーせんしゅけんたいかい)は、2008年9月13日から2009年1月1日まで開催された、天皇杯全日本サッカー選手権大会である。 Jリーグチーム数の拡大に伴い、本戦(決勝大会)の参加チーム数が82チーム(前回から2チーム増)となった。また、本大会からスルガ銀行が特別協賛として筆頭スポンサーとなった。 2008年のJリーグがまれに見る大混戦となったため、Jリーグで上位につけている有力チームの多くがベストメンバーを積極的に出せず、次々に脱落する展開となり、準々決勝時点(ベスト8)にJ2のチームが2チーム残る形となった。 特典に関して[編集] この大会から優勝チームの得るAFCチャンピオンズリーグ (ACL) の出場権が、翌々年のものから翌年のものに変わった。また、これまでは優勝チームが翌年のJリーグで優勝した場合は天皇杯の準優勝チームが繰り上がっていたが、ACLの日本の出場枠が2から4に拡大したことに伴い、その年のJリーグ3位までに入ったチームがその年の天皇杯で優勝した場合はその年のJリーグ4位チームが繰り上がる形式となった。 また富士ゼロックス・スーパーカップにおいても、今までその年にJ1リーグで優勝したチームが天皇杯で優勝した場合は天皇杯の準優勝チームが繰り上がっていたが、その年のJ1リーグ2位チームが繰り上がるように変更された。 スケジュール[編集] 試合会場については後述の試合結果を参照のこと。 1回戦 9月13日、9月14日 都道府県代表チーム、大学シードチームの出場 2回戦 9月20日、9月21日 3回戦 10月12日 J2チーム、JFLシードチームの出場 4回戦

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長岡市立劇場 – Wikipedia

長岡市立劇場(ながおかしりつげきじょう、英称:Nagaoka Municipal Auditorium)は、新潟県長岡市に所在するホール施設(劇場)である。略称は「市立劇場」。 施設は長岡市が所有し、財団法人長岡市芸術文化振興財団が指定管理者として運営管理を行っている[1]。 当劇場が開業する以前、当時の長岡市内にはホール施設として1958年(昭和33年)に竣工した長岡市厚生会館(現:アオーレ長岡所在地)があったが、同会館は体育館をベースに設計されており、大規模なコンサート等を開催できる本格的なホール施設では無かった。 1966年(昭和41年)の市長選で当選し、市長に就任した小林孝平は都市の魅力を高めるために必要な施設として「大学・病院・劇場」の三つを挙げた上で、本格的なホール施設の整備計画に着手し、1973年(昭和48年)秋に当劇場は竣工、同年10月24日[2]に開館した。その当時、公立・公営のホール施設の名称には「会館」が多く用いられていたが、施設名称は前掲の経緯から「長岡市民会館」ではなく「長岡市立劇場」と命名された。公共施設で「劇場」の名称を使用したのは東京都千代田区に所在する国立劇場に次いで2例目、地方公共団体としては初の事例であった。 長岡市では当時の市役所本庁舎(2016年に解体された長岡市役所・柳原分庁舎)の老朽化に伴い、1975年度(昭和50年度)から3箇年計画で新庁舎の整備事業を進め、新本庁舎(現:長岡市役所 幸町庁舎・さいわいプラザ)は市立劇場北側の隣接地に1977年(昭和52年)10月16日に落成した。この幸町地区は以後、市の公共施設の集積地となり、周辺部は住宅地として開発が進捗した。 オープンに先立ち市民向けの内覧会が実施された。 リニューアルについて[編集] 当劇場は2度の震災に見舞われたが、修復工事を経て40年近くに渡り営業を続けていた。 しかし、開館当初からバリアフリー構造でなかったことや、老朽化などが進んでいたことを理由に、耐震補強工事に併せて大掛かりなリニューアル工事とバリアフリー化工事も実施された。工事費は総額21億円[3]。 期間は2016年7月から2018年までの2年間で、2018年7月1日にリニューアルオープンした。 正面玄関すぐの階段左脇にはエレベーターが新設されるなど[4]、これまでなかった設備が新設されている。 このほか空調設備をすべて入れ替えたほか、女子トイレの拡張工事を実施している[4]。これにより男子トイレの設置数は若干数減少したが、公演時の行列問題解消を見込んで工事が行われた[4]。 大ホール[編集] 座席数は1,500席で3段構造となっている。利用形態としては各種式典・講演会・演劇・コンサート・オーケストラ・吹奏楽など多目的ホールとして利用されている。現在では1994年(平成6年)に完成した長岡リリックホールに比べると音楽向きに特化してはいないが、一般的なコンサートホールとしては十分な機能があり、収容人数が倍以上の事もあって演奏会でも比較的規模の大きいものが開かれることが多い。 小ホール[編集] 可動式の座席が200席あり、小規模なコンサートや演劇、練習スタジオとして利用される。 会議室[編集]

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心身医学 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “心身医学” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年11月) 心身医学(しんしんいがく、英語: psychosomatic medicine)または心療内科学は、患者の身体面だけではなく心理・社会面を含めて、人間を統合的に診ていこうとする全人的医療を目指す医学の一分野である。心身医学を実践している診療科が心療内科(しんりょうないか)である。 心身医学は元来ドイツで誕生した医学である。その後アメリカ合衆国にわたり、精神科医を中心に発展していった。諸外国では精神医学の一分野という認識であり、大半の国では精神症状がある時点で精神科の受診となる。1940年代から1960年代までは、フロイト派の精神分析や力動精神医学などを学んだ者が扱うものと考えられていたが、近年の潮流は行動医学へとシフトしている[1]。現在のドイツではリエゾン精神医学として、全医学生に心身医学の教育が義務づけられており、国家試験にも必須の問題が出題されている[2]。 一方、日本の心身医学は、病気の発症や進行に心理的要因が大きく関わる器質性疾患を中心に扱う分野として主に内科学から発展していった。初期の頃は「精神身体医学」と称されていた[3]。 心身医学の主な対象は心身症である。内科疾患を主な対象とする場合は「心療内科学」と呼ぶこともある。心理面を含めた身体疾患の治療にあたるのが心身医学の専門医であるが、近年の医療技術の進歩によって、身体科の専門医との連携なしでは治療を進め得ないことも多く、その場合、コンサルテーション・リエゾン精神医学との明確な区別はできない[1]。 心身症の診断には「明らかな身体疾患である」「負荷となる環境変化により身体症状が増悪する」の2つの条件が不可欠であり、他には「社会適応は比較的良好である」「身体治療をしても症状が改善しない、あるいは再燃を繰り返す」などの特徴があることが多い[1]。 心療内科[編集] 心療内科は主に心身症やストレスからくる身体症状を扱う。最初に心療内科が誕生したのは、九州大学病院で、現在心療内科の講座・診療科を持つ医科大学は、九州大学、東京大学、東邦大学、関西医科大学、鹿児島大学の5大学のみである[2]。他に診療科を持つ医科大学としては近畿大学、日本大学、東北大学、東京医科歯科大学(歯学部)などがある[4]。 心療内科と精神科[編集] 「心療内科」という名称は日本にしか存在しない(ドイツでは「心身医学科」という名称の診療科になる[2])。ここで「心療」とは「心理療法」の省略であり、「心を治療する」という意味ではない(「物療内科」が「物理療法」の省略であるのと同様)。しかし実際は、心身医学を専門とする心療内科は、精神科と多少の競合分野となっている[1]。

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湊あくあ – Wikipedia

湊 あくあ 作者 がおう(キャラクターデザイン) プロフィール 愛称 あくたん Onion(英語圏) Onyan(英語圏) 阿夸(中国語圏) 別名 AKUKIN だいてんしあくあ 誕生日 12月1日 性別 女性 身長 148cm[1] イメージカラー

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紀角 – Wikipedia

紀 角(き の つの、生没年未詳)は、記紀等に伝わる古代日本の人物。 『日本書紀』では「紀角宿禰(きのつののすくね)」、『古事記』では「木角宿禰」、他文献では「紀都奴」「都野宿禰命」「都怒足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称。 武内宿禰の子で、紀朝臣(皇別の紀氏)およびその同族の伝説上の祖とされる。対朝鮮外交で活躍した人物である。 武内宿禰関係系図表記は『日本書紀』を第一とし、『古事記』を併記。 系譜に関して『日本書紀』に記載はない。『古事記』孝元天皇段では、建内宿禰(武内宿禰)の子7男2女のうちの第五子として記載されている。 『新撰姓氏録』では、左京皇別 紀朝臣条等においていずれも武内宿禰の子と記されている。 また『先代旧事本紀』「国造本紀」都怒国造条では、紀臣の都怒足尼(紀角宿禰)の子に田鳥足尼(紀田鳥。写本によっては島足尼)があると見える。その他にも、後世の系図類では遠耶臣(紀遠耶)、紀白城、真利宿禰(紀真利)という息子らがいたことになっている。 『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰は羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国したという。 また同書仁徳天皇41年3月条では、天皇の命で百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送ったという。 『古事記』では事績に関する記載はない。 氏族[編集] 『古事記』では木臣(紀氏)・都奴臣(角氏)・坂本臣ら諸氏族の祖とする。 『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。 左京皇別 紀朝臣 –

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マイケル・マグリンチィ – Wikipedia

マイケル・ライアン・マグリンチィ(Michael Ryan McGlinchey, 1987年1月7日 – )は、ニュージーランド・ウェリントン出身のプロサッカー選手。Aリーグ・セントラルコースト・マリナーズFC所属。ポジションは、ミッドフィールダー。ニュージーランド代表。姓はマグリンチェイ[2]、マグリンキー[3]の表記も。 クラブ[編集] ニュージーランド・ウェリントンで生まれ、9ヶ月の時に両親とスコットランドへ移り住んだ。5、6歳の頃にサッカーを始め、9歳でセルティックFCのアカデミーへ入団した[4]。 2005年、トップチームへ昇格し、17歳でプロデビューした[1]。2007-2008シーズンはダンファームリン・アスレティックFCへ期限付き移籍したが、足の付け根の怪我の影響で2008年1月にローン期間途中でセルティックへ復帰。 2009年夏、契約満了によりセルティックを退団し、オーストラリア・Aリーグのセントラルコースト・マリナーズFCへ完全移籍。同年8月6日、シーズン開幕のメルボルン・ビクトリーFC戦でプロ初ゴールを挙げた。2010年1月、FIFAワールドカップのメンバー入りへ向けてチャンスを広げるため、スコットランドへ戻りマザーウェルFCへ期限付き移籍[5]。セントラルコーストへ復帰後はグラハム・アーノルド監督の下、中心選手として2011-12レギュラーシーズン、2012-13ファイナルシリーズのタイトル獲得に貢献した。 2014年より、アーノルドが監督に就任した日本のJリーグ・ベガルタ仙台へ期限付き移籍[6]。同年6月、契約を解除して仙台を退団した[7]。 同年9月、ウェリントン・フェニックスFCへ完全移籍で加入[8]。 2018年6月、セントラルコースト・マリナーズFCに2年契約で復帰[9]。 代表[編集] 2006年、U-19スコットランド代表としてUEFA U-19欧州選手権2006に出場。決勝でスペインに敗れたが、2007 FIFA U-20ワールドカップの出場権を獲得した。翌2007年も引き続きU-20スコットランド代表としてU-20W杯のメンバー入りを果たし、グループリーグ2試合に出場した。 2009年、フル代表ではニュージーランド代表としてプレーすることを選択し、同年9月9日のヨルダンとの親善試合でデビューした。2010 FIFAワールドカップのメンバー入りを果たすも、出場機会は訪れなかった。2012年のロンドンオリンピックでは、オーバーエイジとして出場した。

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RO-RO船 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “RO-RO船” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年12月) パナマ運河を航行するRO-RO船。航行時はランプウェイを上げている RO-RO船(ローローせん、英: roll-on/roll-off ship)は、フェリーのようにランプを備え、トレーラーなどの車両を収納する車両甲板を持つ貨物船のことである。 車両甲板のおかげで搭載される車両はクレーンなどに頼らず自走で搭載/揚陸できる。対義語はLO-LO船(ロ・ロせん、英: Lift-on/lift-off)。 貨物船は在来船とよばれるクレーン付、多層船倉の汎用貨物船しかなく、木箱に入れた貨物を数箱ネットに載せて、船搭載のクレーン(本船ギアという)で船倉に運び入れ、船倉内で人力で積みつけ、かつ固定も必要であったので、荷役には莫大な人手が必要で、時間もかかった。 第二次世界大戦後、コンテナ船の出現によって荷役は飛躍的に簡便になったばかりか、海上コンテナをそのままトレーラーに積んで、ドア・ツー・ドアの“海陸一貫輸送”も可能になった。しかし、コンテナ船の荷揚げ荷卸しができるコンテナ埠頭を整備するにはガントリークレーンの設置など多額の投資が必要で、当初は日本でも横浜・神戸など需要の多い大港湾しか整備できなかった。 そうした状況の中、RO-RO船は岸壁とトラクター(トレーラーヘッド)さえあれば、クレーンが未整備の小港湾でも荷役が可能であり、トラクターの車体、船内のスロープ等でデッドスペースが発生する欠点はあるものの、コンテナよりさらに迅速な荷役が可能であるため、コンテナ船寄港地から地方港湾までの国際貨物の末端輸送手段、または国内貨物輸送の有用な手段として脚光を浴びた。21世紀初頭の現在、日本国内で海上輸送される貨物のほとんどは、RO-RO船、又はフェリーで運ばれている。 さらに、近年は日本・韓国間などの近距離国際海運においても、トレーラー輸送のための国際間の法整備がされたこともあり、農作物輸送などでRO-RO船による定期航路が開設されるようになった。 軍事部門では、冷戦時代にソビエト連邦軍の侵攻に備えていたアメリカ軍が、戦車などを欧州各地へ迅速に輸送するため、RO-RO形式の輸送艦T-AKRを多数配備しており、現在も健在である。

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渡井美代子 – Wikipedia

渡井 美代子(わたい みよこ、1945年1月8日 – )は、日本のチェスプレーヤーで、自称日本チェス協会会長代行(2003年1月に死去した会長の残余の任期は終了しているため、実際には会長代行とは言えない)。第1期全日本女子選手権チャンピオン。失踪したチェス元世界チャンピオンのボビー・フィッシャーを匿ったことでも知られる。 埼玉県出身。明治薬科大学卒業。学生時代の恋人の影響でチェスを始め[1]、薬剤師をしながらチェスプレーヤーとして活動していたが、その後薬剤師の仕事を辞め、日本チェス協会の秘書・事務局長を歴任した。 1969年:日本チェス協会に入会。 1972年:チェスオリンピックに初めて出場。世界チャンピオンになったボビー・フィッシャーのファンになる[1]。 1973年:日本チェス協会の招きで来日したフィッシャーの東京案内を頼まれ、浅草や秋葉原に同行する[1]。 1974年:女子チェス・オリンピアードコロンビア大会に出場し、アメリカの宗教団体Worldwide Church of Godの施設で暮らしていたフィッシャーと再会する[1]。 1975年:第1期全日本女子選手権に優勝しチャンピオンとなる。 1980年:女子インターゾーン大会(地域別ゾーンの代表が集まる世界大会)に太平洋地区代表として出場(18人中最下位)。 1983年:国際チェス連盟より国際審判員のタイトルを与えられる。 1994年:日本人として初めてWIM(ウーマン・インターナショナル・マスター)のタイトルを獲得する(1980年のインターゾーン出場の特典規定による。ノルム及びレイティングの要件を満たしたタイトル獲得ではない)。 2000年1月:セイコーのチェス用時計の開発協力のために来日したフィッシャーと大田区蒲田で同居を始める[1]。 2004年8月:前月に入国管理局に収監された元世界チャンピオン・ボビー・フィッシャーと結婚を宣言した(アメリカ政府が必要書類の提供を拒否したため法律婚はできなかった)。同年12月にアイスランド政府が人道的見地から受け入れを決めたため、翌年フィッシャーはアイスランドに移住。 2008年1月17日:レイキャビックで暮らすフィッシャーをときどき訪ねる生活をしていたが、フィッシャーが死去し、葬儀にも参列した[2]。遺産相続を巡って、フィッシャーの2人の甥と、フィッシャーの子を持つとするフィリピンの現地妻マリリン・ヤングを相手に法廷闘争となる[3]。

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おかあさんといっしょのコンサート一覧 – Wikipedia

『おかあさんといっしょのコンサート一覧』(おかあさんといっしょのコンサートいちらん)は、NHKの子供番組「おかあさんといっしょ」のコンサートに関する内容を本稿で記載する。 概要 1985年8月にNHKホールにて、おかあさんといっしょファミリーステージ「みんなあんぜん・たすけあい」が実施され、その翌年には日本武道館で「じゃんけん島漂流記」と題した大規模なステージが行われた。 1987年以降、毎年春と秋(87年度・88年度は秋のみ)にNHKホールでファミリーコンサートが定期的に行われるようになった。以来、全国各地でファミリーコンサートが行われ、98年度までは地方収録の放送時に放送したり、長期休暇時期の「おかあさんといっしょ○○のこどもスタジオ【○○はひらがなで季節が入る。】(90年代までの特別編成時の番組タイトル)」にて放送されていた。1999年からは、それまでの地方収録に置き換える形で行われ、2001年以降、毎年12月には、NHK大阪ホールでも定期的に行われている。NHKホールでのコンサートの模様は、毎年5月中〜6月初旬ごろと11月下旬 – 12月下旬ごろの16:00 – 17:00に別枠[1] で1時間のダイジェスト版[2] が放送され、年末年始などに別枠で再放送されることがある。また、DVD(2001年春から)・ビデオ(2006年春まで)・CD・ライブカセット(2003年秋まで)もポニーキャニオンから発売される[3]。ビデオなどでは、同じコンサートでも2本になったりすることもあった。全国版は、コンサートの2週間後の土曜日にダイジェスト版で放送される他、ミニミュージカル部分を年度末の春特集で放送するケースが多い。全国版は1999年度のみ、通常の土曜日に放送されている人形劇やアニメーションといった各種別撮りのコーナーを一部内包していたが、2000年度からは全編コンサートの収録映像のみで構成されている。さいたまスーパーアリーナのイベントは9月ごろか年度末に別枠で放送される。また、2013年度から2016年度のスペシャルステージでは、全国の映画館でライブビューイングを実施した。 ファミリーコンサートにおいては、1992年度分までは、特に決まったタイトルロゴは無く、年度によってタイトルロゴが異なっていたが、1993年度秋公演からはファミリーコンサート仕様にした独自のタイトルロゴが用いられるようになった[4]。なお、1995年度までの秋コンサート放送時のロゴは、ファミリーコンサートの『ン』の字の点が葉っぱになっていた。ポニーキャニオンから発売されるビデオ等のパッケージには1997年春公演のものより使用している。その後、2008年度〜2009年度は、NHKホール公演のテレビ放送時のみ独自のタイトルロゴを使用(通常の番組ロゴの横に太陽が付いているもの)。2010年度からは、1993年からのロゴをアレンジしたものがNHKホール公演放送時に使用され、2012年度からは全国版もこちらに統一された[5]。 1992年5月開催(放送は同年5月5日)のコンサート『みんなともだち』では、フジテレビの子供番組『ひらけ!ポンキッキ』のガチャピンとムックがゲスト出演し、『にこにこぷん』のじゃじゃまる、ぴっころ、ぽろりとの共演が実現したことがある。当時試験放送されていたMUSE方式のハイビジョン[6] で生中継(試験放送では収録後時差放送)されていたため、地上波では16:9のレターボックスサイズでの放送となったが、のちに『お願い!編集長』のリクエストで2016年1月24日にデジタルリマスターとしてハイビジョンで再放送された[7]。 1985年のファミリーステージ開始当初は無料で開催されていたが、後に抽選方式のチケット販売に移行し、当初はハガキで応募して購入権を抽選で得る形だった。しかし、当初の申し込み方法であったハガキでの抽選方式は複数枚の応募が可能なため、チケットの入手は非常に困難で、それに付け込んだダフ行為(インターネットのオークション転売を目的とした場合含む)も社会問題となっており、逮捕者も出ている。その対策として、2005年3月の公演からは今までの往復葉書きによる抽選予約応募から、チケットぴあまたは、ローソンチケットを利用した電話による抽選予約受付に変更された。 さらに2009年度からはハローダイヤルを利用した抽選販売に変更された。 しかし、従来のネットオークションに加えて転売サイトによる個人での不当な価格での転売が後を絶たない状況が続いている事から、2017年度からはNHKホール公演で、翌2018年度からは地方公演も含めた全公演で販売方式を再変更する事になり、『Ticket every!』でのweb申し込みによる抽選販売とデジタルチケットによる当日発券システムが導入された。これにより、購入できた券種によりおおよその座席エリアは事前に把握できるが、実際に座る座席は当日会場に入場するまで不明という形式になった。 コンサート当日前後、会場のある地域に台風などが上陸していた場合でも公演中止になるケースは基本的にない。しかし、2009年12月の大阪公演は当時現役だった横山だいすけと三谷たくみが当時流行していた新型インフルエンザに感染した影響で、史上初の公演中止となった。2012年3月の名取公演は東日本大震災の被害の影響により2度目の公演中止、さらには2020年2月・3月の豊田公演と3月の釧路公演、2020年度の全公演(例年8月のスペシャルステージ含む)は、新型コロナウイルス感染拡大防止と観客・出演者の健康や安全に配慮するため中止となった。なお、2008年12月の大阪公演については翌年に別日程で振替公演が行われ、2012年3月名取公演は代替企画として2012年春特集の「あつまれ!土曜日スペシャル」で訪れた後、2012年度の公演スケジュールにて改めて同一会場での公演が組み直され、当初の予定から半年遅れで実現した。しかし2020年2・3月の豊田公演と3月の釧路公演においては、代替スケジュールの確保が困難であること、さらに2020年のNHKホール春公演以降は同年4月の緊急事態宣言発令とその後の感染拡大により、開催の目処が立たない状況から完全な公演中止となり、情報が解禁され販売されたチケットは払い戻し対応となっている。 1993年春以降はおにいさんやおねえさんが交代した場合、先代のおにいさん・おねえさんがゲスト出演するのが慣例となっており、特に坂田おさむ・神崎ゆう子から速水けんたろう・茂森あゆみに交代した1993年の場合は、秋コンサートでも新旧共演が実現している[8]。さらに、『あさごはんだいすき』・『にこにこぷんがやってきた!』・『BSおかあさんといっしょ』・『あそびだいすき!』・『おとうさんといっしょ』といった派生番組の出演者も登場する事が多い。 通常放送に先立ってNHKホール発のコンサートは1991年秋公演からハイビジョン制作されており、当時のアナログハイビジョン試験放送においてハイビジョン画質で放送された[9]。また、前記のとおり1992年春公演はアナログハイビジョン試験放送や地上波ともに16:9サイズでの放送となった。なお、地上デジタル放送開始以後の現在は地上波でハイビジョン放送が実施されている[10]。ファミリーコンサート開演前及び終演後の会場では、番組で使用されている楽曲が流れる。また、一般のコンサートにおける注意事項アナウンス及び開演ブザーの代わりに、開演10分前に人形劇キャラクターによる注意事項の説明やお手洗いを促す内容の歌、開演時に同じく人形劇キャラクターによる開演を知らせる歌が流れ、開演という流れをとっている。

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