Month: December 2020

リチャード・エリオット (1652-1685) – Wikipedia

リチャード・エリオット(英語: Richard Eliot、1652年4月22日洗礼 – 1685年12月22日埋葬)は、イングランド王国の軍人、政治家。1679年から1685年まで庶民院議員を務めたが、第一次王位排除法案に賛成票を投じた記録しかなかった[1]。 ジョン・エリオットと妻オナー(Honor、旧姓ノートン(Norton)、1652年11月1日埋葬、サー・ダニエル・ノートン(英語版)の娘)の四男(兄のうち2人が早世したため、実質的には次男)として生まれ、1652年4月22日に洗礼を受けた[2]。 四男だったため軍人になるものとされ、1676年にプリマスの駐留軍にエンサイン(英語版)(少尉)として入隊したが、ジョン・グリムズ(John Grimes)の殺害容疑で起訴されたため、1678年にはイギリス陸軍から引退することを余儀なくされた[1]。ただし、裁判自体は無罪放免か恩赦を受けたとされる[1]。 1679年3月イングランド総選挙で父の手配を受けて、エリオット家の懐中選挙区であるセント・ジャーマンズ選挙区(英語版)から出馬、当選を果たした[3]。同年に第一次王位排除法案に賛成票を投じた後[1]、1679年10月イングランド総選挙と1681年イングランド総選挙で再選したが[3]、それ以降の議会活動は全くなかった[1]。 生涯未婚のまま死去、1685年12月22日にセント・ジャーマンズ(英語版)で埋葬された。 ^ a b c d e Watson, Paula (1983). “ELIOT,

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高校百校新設計画 – Wikipedia

高校百校新設計画(こうこうひゃっこうしんせつけいかく)は、1970年代から80年代にかけての神奈川県で計画・実施された県立高等学校の増設事業。一般に百校計画と称される。 1970年代当時の神奈川県では、元より中学校卒業者に対する公立高等学校、特に普通科公立校の数が極端に少なく、同年代からの公立中学校卒業者の急増と高校進学率の上昇に対処できなかった。 そこで「15の春を泣かせるな」をスローガンに高校百校新設計画が策定され、高校への進学機会の確保を図ることになった。 新設された高校[編集] ★印は、校地が新校に継承された学校 上記の通り、100校のうち藤沢工業以外の99校は全て普通科高校として新設された。 これは、そもそもこの高校増設運動が、 普通科の増設を要求して始まったものであること、社会の高学歴化に伴い、将来の進路が限られてしまう職業高校より、大学進学の可能性が高い普通科をという、中学生の父兄はじめ県民の要望があったためである。 しかし、ほぼすべての新設校が普通科高校になったことにより、専門学科との数の上でのバランスを著しく欠くことになり、1972年に35%強を占めていた職業高校の割合は、1988年には15%強にまで減少した。 このため、普通科高校の授業についていくだけの意欲、学力が伴っていない者までが普通科に入学することになり、当初考えられていた大学進学の可能性が高い普通科とはかけ離れ、多くの教育困難校が生まれることになった。 また、新設校の多くは、将来的な養護施設などへの転用を見据えて簡素な設備しか持たず、「学校としての魅力」に欠けていると見る向きもあった。 さらに、1980年代になると、ア・テストと内申点による、いわゆる「輪切り」進路指導の徹底や、学区の縮小(1981年。後の2005年に学区撤廃)などにより、学校選択の自由がより制限されるようになったことや、百校計画によって突出した公立の進学校が存在しなくなったことも相まって、公立高校の地盤沈下が目立った。相対的に、一部私立高校が躍進することになった。 2000年代になり、神奈川県において県立高校の統廃合が進められているが、対象校の多くは百校計画によって新設されたものである。 また、かつての教育困難校の中には、入学試験や内申での入試をやめ、不登校や中学校での学力不振生徒を受け入れて、少人数制で基礎学力をつけるクリエイティブスクールや、全日制に定時制と通信制を組合わせ、生徒の生活スタイルにあわせた時間帯で学習ができる、単位制フレキシブルスクールなど、新たな形での教育を実践している学校もある。 参考文献[編集] 『公立or私立神奈川の教育を考える』(読売新聞社横浜支局) 『伸びゆけ若者たち 高校百校計画達成の軌跡』(神奈川県教育庁) 『ねざす』No.47 May

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ポートレパブリックの戦い – Wikipedia

ポートレパブリックの戦い(英: Battle of Port Republic)は、南北戦争の1862年6月9日、南軍ストーンウォール・ジャクソン少将がシェナンドー渓谷で戦ったバレー方面作戦の一部として、バージニア州ロッキンガム郡で起きた戦闘である。この戦闘は南北両軍が同程度に決死の覚悟で戦ったために激しい攻防となり、バレー方面作戦の中でもジャクソンのバレー軍に最も大きな人的損失を出させたものになった。前日におきたクロスキーズの戦いと共にポートレパブリックの戦いはジャクソン南軍の決定的な勝利となり、北軍に後退を強いた。ジャクソン軍は、リッチモンド郊外で七日間の戦いを行っていたロバート・E・リー将軍の援軍に回れることになった。 バレー方面作戦: フロントロイヤルからポートレパブリックまで   南軍   北軍 ジャクソン軍のバレー方面作戦は、実質的には1862年5月8日のマクドウェルの戦いから始まっており、その後の1か月間でジャクソン軍は持ち前の機動力を使ってシェナンドー渓谷を往復し、北軍の弱点を突いては戦勝を重ねていった。5月25日の第一次ウィンチェスターの戦いが最も北で起きた戦いであり、その戦場はメリーランド州との州境に迫っていた。ジャクソンは北軍の2つの大きな部隊に対応するために、シェナンドー渓谷の南西奥に退き、クロスキーズとポートレパブリックに陣を布いた。6月8日に起きたクロスキーズの戦いでは、北軍の左翼を撃破して大きな損失を出させていた。 1862年6月8日から9日の夜、南軍のチャールズ・S・ワインダー准将が指揮するストーンウォール旅団は、ボゴタ(ガブリエル・ジョーンズが所有していた大きな家)近くの前進陣地から撤退し、ポートレパブリックでジャクソンの師団に合流した。南軍戦闘工兵がシェナンドー川南支流を渡すために荷車の橋を造った。ワインダーの旅団は川の東で北軍を攻撃するときの先鋒となる任務を与えられた。アイザック・R・トリンブル准将の旅団とジョン・M・パットン・ジュニア大佐の部隊は、北軍ジョン・C・フレモント少将の部隊をクロスキーズで食い止めるために残され、リチャード・イーウェル少将師団の残りはポートレパブリックに進んで、ワインダーの攻撃を支援する配置に着いた[2]。 北軍エラスタス・B・タイラー准将の旅団は、ルレイ道路沿いルイストンの北でサミュエル・キャロル大佐の旅団と合流した。ジェイムズ・シールズ准将の師団の残りは、ルレイに戻るぬかるんだ道路で難渋していた。野戦指揮にあたったタイラー将軍は6月9日夜明けにルイストンの近辺まで前進した。その戦線の左翼はルイストン・コーリングに陣取った砲台とし[3]、歩兵をルイストン・レーンに沿って西に展開し、南支流のルイスの工場がある場所近くまで延ばしていた。右翼と中央は、全部で16門の大砲で支えられていた[4]。 ポートレパブリックでの戦闘隊形 ワインダーの旅団が午前5時に川を渡り、低地を横切って東に攻撃する配置に着いた。ワインダーは2個連隊(バージニア第2歩兵連隊と同第4連隊)を森に派遣して、北軍側面を衝かせ、コーリングを襲撃させることにした。南軍本体の前線が前進すると、北軍砲兵隊からの激しい砲火に曝され、間もなく動けなくなった。南軍の大砲が平原の前面に持ち出されたが、劣勢となり安全な陣地を探していかざるを得なくなった。イーウェルの旅団が急ぎ前進して川を渡った。ジャクソンはコーリングにいる北軍砲兵隊の強度を観測して、リチャード・テイラー准将の旅団(著名なルイジアナ・”タイガース”大隊を含む)を右翼の森の中に送り、側面に回ろうと深い茂みの中を前進していた部隊を支援させた[5]。 ワインダーの旅団は北軍右翼と中央への攻撃を再開し、大きな損失を出した。タイラー将軍はコーリングから2個連隊を右翼に動かし、反撃を初めて、南軍を半マイル (800 m) 近く後退させた。これが起こっている間に、コーリングの防衛部隊に向かった南軍連隊が最初の攻撃を行ったが、撃退された[6]。 ジャクソンは北軍の抵抗が予想していたよりも激しかったので、ポートレパブリックの北にいたイーウェルの最後の予備隊に、川を渡って北支流橋を燃やすよう命じた。この援軍がワインダーの前線に到着し始め、その前線を強化し、北軍の反撃を止めるようになった。テイラーの旅団はコーリングの向かい側にある森の陣地に到着し、激しい攻撃を開始してコーリングの丘を攻略し、大砲5門を捕獲した。タイラーはその予備部隊を使って即座に反撃を開始した。3個連隊が白兵戦を行った末に陣地を回復した。テイラーは1個連隊を最右翼に回し、側面から北軍の前線を攻撃させた。南軍の攻撃が再度コーリングに殺到し占領した。捕獲した大砲5門が回されて、北軍の前線の残りに向けられた。北軍はコーリングを失った上にルイストン・レーンに沿った前線が危うくなったので、タイラーは午前10時半頃に退却を命じた。ジャクソンは総軍前進を命じた[7]。 ポートレパブリックからウィリアム・B・タリアフェーロの疲れていない旅団が到着し、退却する北軍を追ってルレイ道路を数マイル北に圧力を掛け続け、数百人の兵士を捕虜にした。南軍は戦場の陣地を保った。正午を少し回った頃、フレモントの軍隊が南支流西岸に陣を布き始めたが、タイラーの崩れた部隊を支援するには遅過ぎており、雨で膨れた川の対岸から絶望的に見ているだけだった。フレモントは南軍に手出しするために高い崖のうえに砲兵隊を配置したが、ジャクソンは狭い道沿いに森を通って徐々に部隊を後退させ、マウントバーノン・ファーネスの近くで部隊を集結させた。ジャクソンは翌日にフレモント軍が川を渡って攻撃してくると予測したが、その夜の間にフレモントはハリソンバーグまで後退していた[8]。

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