Month: April 2021

李孝石 – Wikipedia

李孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 – 1942年5月25日)は朝鮮の小説家。号は可山。兪鎮午に「小説の形式で詩を吟じた作家」と評され、郷土の美しさを詩のような流れる文筆で描いた。その代表作が『ソバの花咲く頃(메밀 꽃 필 무렵)』である。 1907年2月23日、江原道平昌郡蓬坪面倉洞2区南安洞681番地に1男3女の長男として生まれる。父の李始厚は漢城師範学校出身で、京城で教鞭を執っていた。母、康洪敬は珍富の聖潔教会の功労者として知られていた。父の仕事のため、一時京城に住むも、5歳のときに再び故郷に戻り、私塾で漢学を学んだ。非常に物覚えのよい李は村人から神童と呼ばれるほどであった。6歳になると平昌に出て、江陵金家に下宿しながら平昌普通学校に通った。その後、京城第一高等普通学校(現・京畿高等学校)、京城帝国大学予科を経て、京城帝国大学法文学部英文科に進んだ。李が物書きを始めたのは京城帝大予科に在籍していた頃からだ。その頃、朝鮮人学生会「文友会」に加わり、「文友会」の機関紙『文友』と、予科の学生会誌『清涼』に詩を発表した。文壇に登場したのは『朝鮮之光』に掲載した短編小説「都市と幽霊」からである。実は、京城高普時代から匿名で作品を出しては原稿料を稼ぐ、文才豊かな青年であった。そうした原稿料はほとんど酒代に消えてしまったそうである。京城高普の1年先輩になる兪鎮午とも親しくなり、文壇でも華やかな存在であった。  若くして文壇で華やかな成功を収めた李であったが、京城帝大卒業後、不幸の時代が訪れる。京城帝大を卒業して1,2年仕事がなく、中学校時代の師に職の斡旋を頼んだところ、総督府警務局検閲係の紹介を受けた。旧師の紹介であったために悩んだ末、就職したが、李を知る者達は彼を裏切り者と糾弾するようになる。祖国の敵である日帝当局に協力する者は当時の人々にとって憎悪の対象であり、李にしても本意ではなかった。結局、1ヶ月ほどで妻の実家である咸鏡道の鏡城に引きこもった。鏡城農業学校で教鞭を執る傍ら、郷土を舞台にした小説を書き始める。1934年に平壌の崇実専門学校に赴任してから、本格的に執筆活動に取り組んだ。1936年に書かれた『ソバの花咲く頃』は李の代表作となる。1942年5月、病に倒れ、その月25日午後7時30分、息を引き取った。 1907年2月23日、江原道平昌郡蓬坪面倉洞2区南安洞681番地に生まれる。 1910年、父の仕事のため、京城に移る。 1912年、故郷に戻る。私塾に通い漢学を学ぶ。 1913年、平昌普通学校に入学。江陵金家に下宿。 1919年、平昌普通学校を卒業。 1920年、京城第一高等普通学校に入学。 1925年、京城第一高等普通学校を卒業。 1925年、京城帝国大学予科に入学。予科の朝鮮人学生会「文友会」に加わる。 1927年、京城帝国大学法文学部英文科に進学。 1930年、京城帝国大学を卒業。鍾路区寿松町に下宿。 1931年、李敬媛と結婚。 1931年、1ヶ月ほど朝鮮総督府警務局検閲関係に勤める。

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アナスタシヤ・グバノワ – Wikipedia

この項目では、2000年生まれのフィギュアスケート選手について説明しています。2002年生まれのフィギュアスケート選手(女子シングル)については「アナスタシヤ・グバノワ (2002年生)」をご覧ください。 この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “アナスタシヤ・グバノワ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年2月) アナスタシヤ・グバノワAnastasia Gubanova 2015年JGPファイナルのFSにて 選手情報 生年月日 (2000-08-20) 2000年8月20日(21歳) 出生地 メドノゴルスク

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周期ゼミ – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年8月) 素数ゼミ magicicada Magicicada septendecim 分類 学名 Magicicada spp. W.T.Davis, 1925 英名 periodical cicadas 周期ゼミ(しゅうきゼミ)とは、セミのうち Magicicada 属に属する複数の種の総称。 毎世代正確に17年または13年で成虫になり大量発生するセミである。その間の年にはその地方では全く発生しない。ほぼ毎年どこかでは発生しているものの、全米のどこでも周期ゼミが発生しない年もある。周期年数が素数であることから素数ゼミともいう。 17年周期の17年ゼミが3種、13年周期の13年ゼミが4種いる。なお、17年ゼミと13年ゼミが共に生息する地方はほとんどない。 北アメリカ東部。セミの仲間は世界中に分布しているが、この周期ゼミという現象が確認できるのは、世界の中でも北アメリカのみである[1]。 17年ゼミは北部、13年ゼミは南部に生息する。

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サワー・マッシュ – Wikipedia

サワー・マッシュ・ウイスキーの樽 (貯蔵状態) サワー・マッシュ(英語: Sour mash )は、蒸留製造産業におけるウイスキー製造プロセスの名称である。サワードウ・ブレッドの製造過程に類似しているので、この名で呼ばれる。このプロセスは、スコットランド人化学者であるジェイムズ・C・クロウが、ケンタッキー州ウッドフォード郡のオールド・オスカー・ペッパー蒸留製造所(現在は、ウッドフォード・リザーヴ蒸留製造所、EN)で働いていたとき、開発したものである。 しばしば間違って考えられているが、サワー・マッシュはウイスキーの風味の一種ではない。ウイスキーがサワー・マッシュ過程にあるとき、古い、または「酸敗した(sour)」マッシュ EN の一部(上澄み液)が、新しいマッシュに加えられる(古いマッシュはまた、使い終わって古くなったグレインが家畜の飼料原料として利用されるため、「飼料マッシュ」とも呼ばれる)。マッシュ過程(マッシング、EN)は、実質的なウイスキーの製造原料であるグレインを麦芽と共に湯に混ぜ、糖化させるプロセスである。 通常、複数種類の穀物のグレイン(穀粒)を細かく砕いたもの(挽き割り)を湯に混合して、どろどろの液状物質を造る。蒸留酒製造業やビール製造業で「マッシュ」と呼ぶのは、この液状物質のことである。バーボンの場合は、原料グレインとしてコーンつまりトウモロコシを主として使い、各種の穀粒(大麦や小麦等)と共に湯に混ぜてマッシュを造る。これに対し、ライ麦を主要な原料グレインとしたものが、ライ・ウイスキーである。コーンを原料グレインとして使う場合も、マッシュにおいて80%以上がコーンのものは、バーボンとは呼ばず、コーン・ウイスキー EN と呼ぶ。 サワー・マッシュ・プロセスは、リカーの品質を改善し一貫性ある安定したものにするため行われ、これによって、すべてのボトルの味わいが、可能な限りに同じものへと近づく。サワー・マッシュを使うことで導入される酸は、ウイスキーを変質させる可能性を持つ細菌の繁殖をコントロールする。サワー・マッシュは、バーボン・ウイスキーやテネシー・ウイスキー EN においては一般的である。サワー・マッシュ・ウイスキーのよく知られた例は、ジャック・ダニエルズ EN やジム・ビームである。 サワー・マッシュ・ウイスキーの銘柄[編集] 関連項目[編集] ジャガイモをすり潰したものをマッシュポテトと日本語で言うが、これは英語の

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荒町 (真岡市) – Wikipedia

荒町(あらまち)は栃木県真岡市の地名。現行行政地名は荒町二丁目から荒町四丁目及び大字荒町。郵便番号は321-4305(真岡郵便局管区)。 田町・台町と並ぶ真岡市街を構成する3町のうちの一つで、北真岡駅南側に位置する。荒町二丁目・三丁目・四丁目は住居表示実施済みである。真岡市役所・警察署など市の主要施設が集中する市行政の中心地である。現庁舎所在地を含む周辺地域での新庁舎建設が計画されている。 沿革[編集] 1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行により芳賀郡真岡荒町が真岡田町、真岡台町、真岡熊倉町、西郷村、東郷村、中郷村、亀山村、上高間木村、西高間木村、下高間木村と合併し真岡町(初代)が成立。真岡荒町は真岡町荒町となる。 1954年(昭和29年)3月31日 – 真岡町・大内村・中村・山前村が新設合併し真岡町(2代)が成立。 1954年(昭和29年)10月1日 – 真岡町が市制施行し真岡市となる。真岡町荒町は真岡市荒町となる。 1987年(昭和62年)5月27日 – 住居表示により荒町、台町、熊倉町、東郷、中郷の各一部が荒町二-四丁目となる[2]。 町名の変遷[編集] 実施後 実施年月日 実施前(それぞれ一部) 荒町

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ヘンリー・ストレイチー (初代準男爵) – Wikipedia

初代準男爵サー・ヘンリー・ストレイチー(Sir Henry Strachey, 1st Baronet、1737年5月23日 – 1810年1月3日)は、イギリスの官僚、政治家。 ストレイチーは、サマセット州のサットン・コート (Sutton Court) の主だった同名の父ヘンリー・ストレイチーと、その最初の妻で、スコットランド人医師ロバート・クラーク (Robert Clerk) の娘であったヘレンとの間に生まれた長男であった。祖父ジョン・ストレイチー (John Strachey) は地率学者であり、同名の曾祖父ジョン・ストレイチーは、ジョン・ロックの友人であった[1]。 1762年、インドにいたクライブ卿の私設秘書に任じられ、1768年にポンテフラクト選挙区 (Pontefract) から庶民院に選出されるまで、この職に就いていた。1774年までポンテフラクト選挙区選出で議席を占めた後は、1774年から1778年までと1780年から1782年まではビショップス・キャッスル選挙区

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ポトリス – Wikipedia

ポトリス(英語: Fortress 、朝鮮語: 포트리스[1])は、韓国のゲームベンチャーが開発したオンラインゲームである。日本ではバンダイゲームベンチャーが運営を行った。 2001年10月5日からサービスが開始されたが、後にポトリス2のサービスが開始されたため、2002年11月18日に終了した。 アクションシューティングゲームポトリスシリーズの第1作となる。 多数の「タンク」から自分が使うタンクを選び、自分の番が来ると20秒の制限時間内に行動して、相手のタンクのエネルギーをゼロにするか、画面外へ落とすかすれば勝利となる。 操作方法やルールがシンプルだったため、低年齢層を中心に人気が出た。 キャラクター[編集] ポトリスには12種類+隠しキャラ1種類、計13種類の「タンク」と呼ばれるキャラクターが登場し、「タンク」は種別ごとに分かれている。 またそれぞれに通常武器と特殊武器の2種類の武器があり、武器の種類もタンクにより大きく異なる。 古典系 (Classic Type)[編集] 一般に射撃角度が広く、攻撃力が高い。反面エネルギー量が低く、打たれ弱い。また基本的に固有ディレイ値が高め、移動可能な距離が短めである。 カタパルト (Catapult) 古典古代期の投石機のような姿を持つタンク。通称「投石」、「石」、「岩」など。石、火炎石を武器とし、炎に耐性がある。 火炎石は着弾地点に火をつける事ができる。火は時間とともに左右それぞれにある程度広がり、そのまま移動していく。この火に触れると毎秒ダメージがあるが、受けるダメージはカタパルトおよびスーパータンクが1ずつ、ポセイドンが4ずつ、それ以外が2ずつである。なおこの火は雪が降る、あるいは急な坂に当たると消えてしまう。 発射角度は最大の0度~90度。

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備中高梁駅 – Wikipedia

備中高梁駅(びっちゅうたかはしえき)は、岡山県高梁市旭町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)伯備線の駅である。駅番号はJR-V12。 高梁市の代表駅。当駅以北は一部区間を除いて単線区間であり、岡山方面からの普通列車は約半数が当駅で折り返す。2020年(令和2年)3月14日のダイヤ改正で当駅で折り返していた普通列車の一部が総社駅で折り返すようになった。 特急「やくも」は全て停車するほか、以前より停車実現への取り組みを行っていた寝台特急「サンライズ出雲」についても、2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正から停車している[5][6]。 ICカード「ICOCA」に対応している[7]。 事務管コードは▲650408を使用している[8]。 「高梁」の名称がつく国内唯一の駅であるが、同音の「高橋駅」が佐世保線に存在するため、旧国名を冠している。 旧駅舎(2006年3月31日) 旧駅舎時代の改札口(2011年8月24日) 供用開始直後の現駅舎(西口、2015年4月17日) 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、合計2面3線のホームを持つ地上駅で、橋上駅舎を有する。倉敷側複線・新見側単線の行違い可能駅でもある。 直営駅であり、新見駅管理下の地区駅として、地区駅長が配置されている。自動改札機は開閉式のものが設置されており、改札外にはICOCAのチャージに対応した自動券売機とみどりの券売機プラスが設置されている。2021年3月13日より当駅から新見方面も、ICOCAが利用可能になる。 駅舎[編集] 改札口(2019年2月24日) 自由通路(2019年2月24日) 現在の橋上駅舎は既存の自由通路を活用したもので、2015年(平成27年)4月11日より使用されている[12][13]。自由通路の中央に改札口があり、その西側に券売機が設置されている。 高梁市は2016年(平成28年)に駅出入口の愛称を一般公募し、東口を寺巡り口(てらめぐりぐち)、西口を城見通り口(しろみどおりぐち)とすることが決定した[14]。 エレベーターは、コンコースと2つのプラットホームとの連絡用に各1基、自由通路の城見通り口(西口)と寺巡り口(東口)に1基ずつの、計4基設置されている。コンコースからプラットホームへの2基はJR西日本が新駅舎建設時に整備したため、周辺道路からプラットホームまで段差なく辿り着く事が可能となり、駅全体のバリアフリー化を実現させた[12]。 発車標は、駅舎橋上化に合わせてコンコースとホームにLED式のものを設置した。 便所とコインロッカーは西口階段下(市道沿い)に1か所あるのみで、改札内、自由通路上および東口広場には設置していない。 旧駅舎にあったキヨスクは現在の駅舎にはない。

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チッタノーヴァ – Wikipedia

チッタノーヴァ(イタリア語: Cittanova)は、イタリア共和国カラブリア州レッジョ・カラブリア県にある、人口約10,000人の基礎自治体(コムーネ)。 位置・広がり[編集] 隣接コムーネ[編集] 隣接するコムーネは以下の通り。 分離集落[編集] チッタノーヴァには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。 Carbonara, Feudotti I, Feudotti II, Fiolli, Fontana di Piazza, San Pietro, Zomaro 人口動態[編集]

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五銖銭 – Wikipedia

五銖銭(ごしゅせん)は、中国の古代に流通した貨幣。前118年(元狩5年)に前漢の武帝により初鋳造された[1]。量目(質量)が当時の度量衡で5銖であり、また表面に「五銖」の文字が刻印されていることより五銖銭と称されている。 前漢以降でも後漢・蜀漢・魏・西晋・東晋・南朝斉・南朝梁・陳・北魏・西魏・北斉・隋で鋳造され、唐代の621年(武徳4年)に廃止されるまで流通した、中国史上最も長期にわたり流通した貨幣である。 武帝の時代は積極的な外交政策が採用された結果、外征にともなう歳出が増加し国庫を逼迫させた。その財政立て直しを目的に五銖銭鋳工が計画された。それまで流通していた半両銭に比べ重量を持たせ外周(両面)と内孔(背面)に郭と称する縁取りを加えたのが特徴である。 漢朝は五銖銭の寸法と重量、金属配合を策定しそれを基準として地方での鋳造を認めている。当時は郡国に対し中央へ納付する租税を五銖銭によるものと定めたため、地方での大規模な鋳工につながっている。五銖銭の原料となる銅は既存の半両銭であったため、改鋳すると4/5の目減りになり、改鋳させた五銖銭を納入させることで郡国の経済力削減を目的にしたという学説も提出されており、事実五銖銭の鋳造仕様違反で廃された諸侯も存在している。 当初鋳造されたものは郡国五銖銭と称されている。しかし短期間の歳入増加を目標とした漢朝は前114年(元鼎3年)に赤側五銖銭を発行する。これは1枚が郡国銭5枚に相当する価値をもたせたものであり、租税の徴収や国家歳出には 赤側銭の使用を義務付けている。発行当初は一時的な国家歳入の増加が見られたが、広く流通すると実質的な減少となり、また私鋳銭が行われるようになったことから翌年には郡国銭・赤側銭ともに廃止されている。 これに代わって発行されたのが三官五銖銭である。前113年(元鼎2年)に鋳造が開始され、その名称はそれまで地方に認めた鋳造を禁じ、上林苑に大規模な鋳銭所を設置し、水衡都尉に所属する三官(鍾官・技巧・弁銅)に鋳造を行わせたことに由来する。地方の旧銭を含む銅を三官に集中させることで私鋳銭を防止させ、貨幣経済の安定化を図る目的であった。 王莽が新朝を建てると名目的な価値が素材価値に伴わない貨幣が数多く鋳造され、国内経済は大きく混乱した。25年に後漢が成立したが建国の混乱のため当初は貨幣鋳造を行う余裕がなかった。しかし、40年になりようやく五銖銭鋳造が決定し、翌年より鋳造が開始された。後漢ではその王朝を通して改鋳を行うことはなかったが、時期による精粗があり、特に後漢末に董卓が相国となっていた時期には董卓五銖銭あるいは董卓無文小銭と称される粗悪銅銭が発行された。これは小型で薄く、表面の「五銖」の文字がほとんどあるいは全く見えなくなっているものであった。民間では各種銅銭を打ち抜いて外と内の2つに分割して2枚として使用することが行われ(外側は「綖環(すいがん・えんかん)銭」、内側は「剪輪(せんりん)銭」と呼ぶが、前者は主に董卓五銖銭の原料として使用されていたとも言われる)、外側を削り小型化させたものも使用され(磨辺銭)、私鋳銭も広く流通し、それ以降は五銖銭はもはや1枚単位での通用ではなく、100枚や1000枚を紐で束ねての流通が一般的になった。 三国時代[編集] 魏では曹操が後漢の丞相であった208年に董卓以前の五銖銭に戻す政策を行い、後を継いだ曹丕も魏王朝成立後に221年に引き続き五銖銭を正式の通貨とするが、経済的な疲弊からこれを維持することが出来ず、その年のうちに穀帛の実物による代用貨幣を行った。だが、質の悪い穀帛が貨幣として用いられる事が増えたために227年に五銖銭を実施した。ただし、『三国志』には「五銖銭を行った」(「魏書」明帝紀)、『晋書』には「更めて五銖銭を立てる」(食貨志)とあり、漢の五銖銭だったのか、新しい五銖銭を作ったのかが問題とされていたが、考古学による三国時代の墓地の発掘で漢のものより小型で粗雑な「曹魏五銖」と呼ぶべき貨幣が見つかっており、新たな五銖銭を鋳造したことが判明した。経済的な疲弊に加えて、剪輪銭などの質の悪い貨幣の通行によって漢と同様の五銖銭の鋳造が不可能になった状況を反映していると考えられている。魏では銭納の従来の制度から布帛納の戸調制に代わっていたが、民間における五銖銭の需要は依然として高く、国家的決済手段=布帛と経済的流通手段=五銖銭に分離していたと考えられている[2]。 一方、蜀漢を建国した劉備は、劉巴の提案に従い、五銖銭100枚の価値を持つ「直百五銖」と呼ばれる貨幣を発行している。だが、実際の重量は五銖銭2-3枚分に過ぎなかった[要出典]。そのため、長期的には経済の混乱を引き起こし、時期は不明であるものの蜀漢後期には「直一」・「直百」と呼ばれる五銖銭よりも小型で粗悪な通貨を発行したともされる。なお、漢王朝の復活を謳った蜀漢において五銖銭が鋳造され、「蜀五銖」と呼ばれる五銖銭がそれにあたるという説が存在していたが、実際の発掘における出土例は全て西晋以後の墓地・遺跡からの発掘例であり、蜀漢のものではないと考えられている。また、劉備以前に蜀を支配していた劉璋が独自の五銖銭を発行しており、発行主体は不明であるが地元の地方勢力によると見られる「太平百銭」などの独自貨幣も確認されている。蜀漢の政府発行の通貨の他にそうした貨幣も蜀漢においては併用されたと考えられている。 また、呉の孫権も236年に五銖銭500枚の価値を持つ「大泉五百」、続く238年には五銖銭1000枚の価値を持つ「大泉当千」と呼ばれる貨幣を発行している。だが、246年になって孫権は新通貨導入目的を「貨を広くす」ることにあったが、「民意以て便と為さず」という理由で全ての新貨幣を廃止して、民間の貨幣は回収されて五銖銭と引き換えられた。 魏の「曹魏五銖」にしても蜀の「直百五銖」にしても呉の「大泉五百」・「大泉当千」にしても五銖銭を基準として比較した場合、実質の価値は額面には及ばないものであった。蜀漢は額面と実質との差額を利用して発行当初は一時的に「府庫を充実させることができた」(「蜀書」劉巴伝所引『零陵先賢伝』)ものの、実際には貨幣価値の低落と物価高騰(インフレーション)を招いただけであったとの見解がある。呉の「大泉当千」の大きさは五銖銭と同じであり、「大泉当千」は実質的には五銖銭とほぼ同価値となっていたと考えられている。孫権はこの現実に気付いて大銭を廃止する決断を行ったと考えられる。だが、度重なる北伐などで財政が逼迫していた蜀漢は、「直百五銖」よりも更に価値の低い「直一」・「直百」を発行して一時しのぎを続け、更に国力を衰退させることになったとも言われる。 もっとも百銭のような額面の高い五銖銭はこれ以前からも鋳造されていたとされ、三国食貨志には「伝形五銖不必為劉備所鋳、当系直百銭行久多弊、故蜀鋳此以救民困耳」とあるように『晋書』食貨志に書かれる銭の空名が三国代の鋳造によるものとは言い切れない記録も存在する。 なお、魏に代わって成立し、やがて三国を統一した西晋については、呉の貨幣は晋に降伏した後も用いられたらしく、東晋では呉の貨幣が流通して魏や晋の貨幣と混用されて五銖銭1枚の価値をもって流通していた[3][4]。(『晋書』食貨志)。「蜀五銖」が実際には西晋以後の鋳造と考えられているように、新たな五銖銭を作る動きがあったことが判明しているが、その短い全国統一の期間の中で本格的な貨幣鋳造や統一措置は取られなかったと考えられている[5]。 南北朝時代[編集] 南朝[編集] 東晋では沈郎五銖銭と称される小型の五銖銭が発行された、しかし粗悪な鋳造であり、呉や北朝の銅銭が流通する状態であった。 南朝宋が成立するとそれまでの五銖銭より大型の四銖銭を発行し経済の建て直しを図るが、銅不足や貨幣需要の増大により短期間で小型銅銭の鋳造が行われ、この貨幣改革は失敗している。 南朝斉では再び小型の斉五銖銭を発行している。

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