Month: August 2021

朱鷺メッセ – Wikipedia

朱鷺メッセ全景。左:新潟コンベンションセンター、右:万代島ビル 地図 朱鷺メッセ(ときメッセ、TOKI MESSE)は、新潟県新潟市中央区万代島に所在する、コンベンションセンターとホテル・業務施設などを内包する超高層建造物から成る複合一体型コンベンション施設である。 新潟コンベンションセンター(にいがたコンベンションセンター)と万代島ビル(ばんだいじまビル)の2棟によって構成される。 歴史・設計[編集] 一体的に整備された緑地「リバーフロントパーク」とモニュメント「天秘」(2021年9月) 「What’s Niigata」のモニュメント(2021年9月) 朱鷺メッセは、信濃川河口に近い新潟港西港区(新潟西港)の一角を国際交流・経済産業振興の拠点として整備する「万代島地区再開発事業」によって建設された。1992年に新潟県が整備方針を決定し、続いて民間側による複数の開発構想が提案され、翌1993年に県、新潟市、民間側33の企業・団体による「万代島再開発事業化研究会」が設立された。研究会はその後「万代島再開発推進協議会」に改組され、1996年に「万代島再開発事業マスタープラン」を策定し、県のコンベンション施設と民間主体の高層ビルとを一体的に整備する方針が決定した。 この複合コンベンション施設は2000年10月に建物本体の建設工事に同時着工し、県の「新潟コンベンションセンター」は2002年12月、民間の「万代島ビル」は翌2003年3月にそれぞれ竣工し、同年5月1日に全面開業(グランドオープン)した。再開発全体のデザインは槇文彦が率いる槇総合計画事務所が担当し、新潟コンベンションセンターと万代島ビルとを双方の中間部に設けられた公共空間「アトリウム」と全長340mの屋内公共歩廊「エスプラナード」で連結、周辺の緑地を含めて一体的に整備した。愛称「朱鷺メッセ」と、翼を広げるトキの姿を模したシンボルマークは一般公募によって2001年9月に制定された。 建造物全体は船をイメージして設計され、ガラスと金属による透明感のある表層部と、水平性と垂直性とを組み合わせたデザインで万代島の景観の核を成している。エスプラナード(英語で「高貴な遊歩道」などの意)は信濃川沿いの2階部分に設けられ、川側は全面ガラス張りである。コンベンションセンターと万代島ビルとの中間部に設けられた吹き抜け構造のアトリウムと合わせ、施設全体を連絡すると共に「開かれた都市回廊」をイメージした開放的な空間を形成している。また機能的にも、展示場や会議室、オフィス、ホテル等を一体的に配置しているため、各種コンベンションの流れを一つの空間でスムーズに行える上に、これらを組み合わせることによって多様な催事に対応することができる。 朱鷺メッセは万代島埠頭のほぼ中間点に位置し、北側には佐渡汽船の新潟港ターミナルが所在する。万代島埠頭はこの佐渡汽船ターミナルが突き当たりで、市街地や市内各方面から万代島地区へ向かう動線は南側からのみとなっている。このような周辺の立地構造から、各国閣僚らが集まる国際会合など厳重な警備を必要とする催事の際には、車両の通行制限をはじめとする警備計画の立案が比較的容易となるなど、周辺警備の上では利点が多い。だが、動線が一方向に限定されているため、大規模な動員数がある催事が開催される際や、夏季や年末年始など佐渡汽船の利用者が集中する際には、渋滞が慢性的に発生しやすくなっている。 万代島地区の北東側約3kmの地点には新潟空港が所在するが、同空港に設定された制限表面[1]は当該地域に達しておらず[2]、高さ140.5m(塔屋を含め143m)の万代島ビルは航空法による建造物の高さ制限を受けていない。 また、2012年に国際天文学連合の「小惑星・彗星・流星2012」を2012年5月に行われている。 新潟コンベンションセンター[編集] 新潟コンベンションセンターNiigata Convention Center 施設入口(2021年9月)

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ジュリア・リスゴーオレフィン化 – Wikipedia

ジュリア・リスゴー オレフィン化 (Julia-Lythgoe olefination) もしくは ジュリア反応 (Julia reaction) とは、有機化学における合成法のひとつで、下式のようにフェニルアルキルスルホン 1 とカルボニル化合物 を基質としてアルケン 3 を得る手法[1][2]。1 に強塩基(式では n-ブチルリチウム)、カルボニル化合物、求電子種 R3-X を順番に作用させて付加体 2 とし、ナトリウムアマルガム[3][4]またはヨウ化サマリウム(II)[5]により還元的脱離を起こして

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蕪湖市 – Wikipedia

「蕪湖」はこの項目へ転送されています。県については「蕪湖県」をご覧ください。 「ウーフー」はこの項目へ転送されています。ドイツの戦闘機については「He 219 (航空機)」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “蕪湖市” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年10月) 中華人民共和国 安徽省 蕪湖市 長江沿いの市街地 安徽省中の蕪湖市の位置 簡体字 芜湖

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フランシス・カニンガム (第2代カニンガム侯爵) – Wikipedia

第2代カニンガム侯爵フランシス・ナサニエル・カニンガム(英: Francis Nathaniel Conyngham, 2nd Marquess Conyngham, KP, GCH, PC、1797年6月11日 – 1876年7月17日)は、イギリスの政治家・貴族。 アイルランド貴族の初代カニンガム子爵ヘンリー・カニンガム(後にカニンガム侯爵に叙せられる)の次男としてアイルランド・ダブリンに生まれる[2]。母はその妻エリザベス(旧姓デニソン)。兄にヘンリー(父に先立つ)、弟に後にロンデスバラ男爵(英語版)に叙されるアルバート・デニソン(英語版)がいる[3]。 イートン・カレッジを卒業[2]。1818年6月から1820年12月までウェストベリー選挙区(英語版)から、1825年2月から1831年5月まではドニゴール選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員を務める[4]。 トーリー党政権下で衣服長官(英語版)(在職1820年-1830年)、外務政務次官(英語版)(在職1823年-1826年)、下級大蔵卿(Lord of the Treasury)(在職1826年-1830年)などの役職を歴任した[2]。 1832年12月28日に父が死去し、カニンガム侯爵位を継承した。継承した爵位の中には連合王国貴族爵位ミンスター男爵位もあったため、貴族院議員に列した。 その後ホイッグ党の第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムの政権に参加し、郵政長官(英語版)(在職1834年、1835年)や宮内長官(英語版)(在職1835年-1839年)を務めた[2]。

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再放送 – Wikipedia

再放送(さいほうそう)とは、 日本の放送法第11条の見出しであり「他の放送事業者の放送を受信して業務区域内に送信すること」を意味する。従前の放送関係の法令では再送信の文言も用いられていたが、2011年(平成23年)6月30日[1]に再放送に統一された。ここから派生した有線テレビジョン放送の用語に同時再放送、義務再放送、指定再放送事業者、区域外再放送がある。詳細は各項目を参照。 テレビジョン放送・ラジオ放送などで一度放送された番組を再度放送することである。対語は「本放送」「初回放送」「初放送」である。専門チャンネルなどでは「リピート放送」、一部のケースは「アンコール放送[2]」とも呼ばれる。 ラジオ放送を受信増幅し、道路トンネル内に誘導無線などによりカーオーディオなどに向けてラジオの再放送を行うこと。トンネル内ラジオ再放送設備を参照。 本記事では2.について扱う。 再放送(さいほうそう)は、狭義においては、かつて自局で放送した番組を再度放送することを指し、この場合は番組表に再放送を示すマークが付き、基本的にその初回放送でも「新番組」とは見做されないことがほとんどである。 広義には同一放送エリアの自局以外でかつて放送され、自局では放送されたことのない番組を放送することをも指すが、この場合、新たに放映する局にとっては本来は本放送(初回放送)である(番組表において、再放送マークはつかない[3])。しかし以前と同じ放送エリアでの視聴者にとっては事実上の再放送といえるため、「再放送」と称されることが多い。さらに広義には全国ネットの番組で自県には系列局がないなどの理由で遅れネットになっているが、スピルオーバーやCATVの区域外再放送などにより同時ネットで視聴できるという環境下で、自県の放送局で遅れネットされる番組のことも「再放送」と呼ばれることがある[4]。当然この場合も番組表において再放送マークはつかない。 再放送される番組の種類および時間[編集] 日本国内のテレビ放送で再放送されることが多い番組は、主にゴールデンタイムで放送されたテレビドラマ・バラエティ番組・紀行番組・ドキュメンタリー番組・テレビアニメなどである。番組対抗クイズ企画番組などの特別番組が再放送されることもある。その一方、深夜番組の再放送は少ない。再放送はキー局などの制作のいわゆる全国ネット番組・各局自社制作のいわゆるローカル番組のいずれも対象になっている。日本ではゴールデンタイムに再放送することは少ないが、NHK教育テレビ(NHK Eテレ)では、日曜日の20時台に『日曜美術館』が再放送されている。アメリカでは、ゴールデンタイムやプライムタイムにドラマなどの再放送が行われている。 再放送の際には、番組視聴者プレゼントコーナーにおける応募受付終了に関する注記(例:「現在は応募を受け付けておりませんのでご了承ください」など)や、本放送時に他の時間帯にその局で放送される番組の番組宣伝や、クイズの問題など、本放送時を想定していた内容などで、本放送時にはなかったテロップ[5]が付与するケースが多い。連続ドラマでは次回予告[6]がカットされていることがある。これは編成上の都合(放送時間が短いためやCM時間を確保するため)もあるが、番組公式サイトのアドレスが表記されていることもある(2000年代から表記されているが、その頃の番組サイトはすでに閉鎖されていることが多い。このため、予告時にはアドレス部分をぼかし処理または別のテロップを上乗せするか、再放送を理由に次回予告そのものをカットして「●●(番組名)・終」と表示させるなどしていることがある)。また、連続ドラマではかつてエンディング後にブルーバックで「この作品はフィクションです」といった一枚画が次回予告内に表記されることがあり、フジテレビ系のドラマ作品では本放送にはなかった一枚画(またはそれを含めたエンドカード)も新たに作られることが多い。また朝日放送テレビや瀬戸内海放送などでは一部連続ドラマの再放送でエンディング時にテロップで「この作品はフィクションです」というテロップを差し込んでいる(再放送ではカットされる次回予告でそのテロップが差し込まれているため)。 ドラマやアニメがゴールデンタイムに再放送される場合は、「〜総集編」や「〜完全版」、「〜アンコールスペシャル」「ドラマレジェンド〜」などと題して番組の解説や新たなシーン、原作者、出演者のトーク、関連作品の新作ドラマまたは劇場版の予告宣伝などを加えた上で放送されることがある。NHKでも、過去の放送回のアンコール放送を行うときは再放送マークを用いず「●●(番組名)・選」と表示することがある。また特にEテレでは新聞番組表には再放送マークを記載するものの、EPGには記載をしない番組もある(学校放送や教育番組、アニメ番組など)。また、バラエティ番組は名場面集などとして過去に放送したコントやトークなどを放送することがある。正月三が日のゴールデンタイムに放送されるバラエティ特番を同じ年の年末の早朝から午後にかけて再放送[7]することもある。これはおおむね翌年の正月に放送される最新作の宣伝を兼ねていることが多く、再放送のマークが付いていても”元日夜6時から放送”などといった宣伝テロップが本編内に表示され、CM入りやCM明けに予告を挟んでいる。ゴールデンタイムの場合は特別企画として放送するため番組表に再放送のマークはつかない。提供クレジットによるスポンサーの表示は、地上波放送・BS放送・CS放送のいずれにおいても行われない場合が多い。 キー局などで放送された番組が地方局で遅れネットされることを「再放送」と誤用している者もいるが[8]、同時ネット局を受信出来る環境によっては事実上の再放送となりうることもある。 業務悪化による経費削減の影響で2009年以降再放送枠が増加傾向であった。2015年春まで、TBS系列・フジテレビ系列の大半の局は平日14:00ごろ – 16:50ごろの3時間程度を再放送枠などに使っていた。なお、2014年4月から9月まで、テレビ朝日系列では、『ワイド!スクランブル』の編成変更に伴い、13:05から4時間程再放送枠となっている局が多かったが、10月から再編成で14:00 – 16:50ごろに短縮された。なお、2015年春からはフジテレビ・TBSとも、再放送枠が大幅に削減された。 その一方、日本テレビ系列では13:55 –

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ベルン空港 – Wikipedia

ベルン空港(英語:Regional Aerodrome Bern-Belp ドイツ語:Regionalflugplatz Bern-Belp 正式名称:英:Bern Airport 独:Flughafen Bern)(IATA: BRN, ICAO: LSZB / LSMB)は、スイス、ベルン州ベルプ区ベルンにある地方空港。スイス連邦の首都ベルンに最も近い空港となる。元々は2018年8月29日に経営破綻したスカイワーク航空のハブ空港であった。この経営破綻により空港収入の1/3が失われており、昨今、格安航空会社であるヘルヴェティック・エアウェイズやピープルズ・エアウェイズによりホリデーシーズンのみチャーター便のみとなっており、大手航空会社による定期便の運航は行われていない。 要人輸送を行うスイス空軍管轄下にある連邦航空輸送サービス(LTDB)とスイス・エア=レスキューの他に、2つの民間ヘリ会社と2つの飛行訓練学校がこの空港を使用している。 1929年、民間航空会社アルパー(Alpar)によって設立された。フォッカー F.XIによる国内都市との定期運行を開始しているが、第二次世界大戦中はスイス陸軍から運行に関する許可やガソリン提供を断られたため、実質上の運行停止に追い込まれている[2]。戦後は政府や州の補助金によって支えられながら、空港運営者として事業を継続しており[3]、スイス航空と長期に渡るシェア争いを行いながら最終的に1947年に合併交渉が行われ、スイス航空に吸収されている。 1945年、国際空港としてチューリッヒ空港計画案が可決され、翌年から建設が開始されているが、1966年と1970年にチューリッヒ空港は国内線用に残しつつ、ベルン近郊に新国際空港を建設する計画案が浮上しており、この計画案は地元農民による強い反対のため最終的に断念された[4]。 元のウィキデータクエリを参照してください. ^ a

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週刊石川雅之 – Wikipedia

『週刊石川雅之』(しゅうかん いしかわまさゆき)は、石川雅之による漫画作品。 漫画雑誌「モーニング」(講談社)において、2002年35号、46号〜2003年4・5合併号まで掲載された。 時代背景、登場人物、環境など、内容に関連性の無い、全11話の読み切り短編集。 第1週めの「彼女の告白」が好評を得たことにより、その後の10話を連載するに到った[1]。また同作品は古田亘監督によりショートフィルムとして映像化された。 第6週めの『WILD BOYS BLUES』は、BS-i、BSフジ共同製作番組「68」において、大岡俊彦監督によりドラマ化された。タイトルは『キラー・ジョー』。 第3週めの『自分を信じた男2』は、フジテレビ「世にも奇妙な物語 特別編『自分を信じた男』」において、稲垣吾郎、手塚とおる出演により映像化された。 あらすじ[編集] 第1週め 彼女の告白[編集] 田舎で暮らす両親の元へ、長男の達彦が3年ぶりに帰省した。しかし、精悍な若者だったはずの彼は、今どきの美しい女性へと変化していた。当初、両親は驚き、激怒するが、次第に達彦に理解を示していく。そして彼ら自身にも重大な秘密があることを明らかにするのだが…… 第2週め 仮面で踊ろう[編集] 妻が夫の忘れ物から見つけたマスク。妻、息子、姑の3人は、そのマスクの用途について思いを巡らせていく。姑の誕生日を祝うはずの、平和な家庭に波乱が巻き起こる。やがて帰宅した夫が明らかにしたその用途は、意外なものであった…… 第3週め 自分を信じた男2[編集] 存在感が薄く、他人から無視されることばかりの2人の男。偶然出会った2人は、自身の生まれてきた意味、そして生きた証を残すため、一世一代の大バクチを打つのだが……

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文房具 – Wikipedia

「文具」はこの項目へ転送されています。キャラクターについては「お文具」をご覧ください。 文房具(ぶんぼうぐ)、文具(ぶんぐ)、ステーショナリー(英: stationery)とは、仕事場やオフィスなどにおいて情報の処理・記録・伝達などのために備えられる道具類をいう[1]。 目次 1 概説 2 文房具の分類 2.1 筆記具 2.2 筆記具関連品 2.3 押印用具 2.4 事務用具 2.4.1 計算用事務用具 2.4.2 図案製図用具

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磯風型駆逐艦 – Wikipedia

磯風型駆逐艦(いそかぜかたくちくかん)は、大日本帝国海軍の駆逐艦の艦級[12]。日本海軍の正式類別は天津風型駆逐艦(あまつかぜがたくちくかん)[13][14]。 天津風型駆逐艦4隻(天津風、磯風、浜風、時津風)は[15]、海風型駆逐艦につぐ国産一等駆逐艦で[16]、八四艦隊案の第一歩となる大正4年度成立した軍備補充費の予算追加要求で計画された[17]。予算は大正5年度と同6年度の新造艦艇製造費から、4隻合計8,113,660万円と説明されている[18]。呉海軍工廠で2隻、三菱長崎造船所で1隻、川崎造船所で1隻が建造され、4隻とも1917年(大正6年)に竣工した[19]。起工から5カ月ほどで竣工した樺型に対し、「浜風」で進水から竣工まで5カ月掛かっていて、より慎重に工事が進められたことを示している[20][注釈 2]。 基本計画番号F24[21]、海風型の拡大型といえる艦級である[22]。 船体は海風型に引き続き船首楼型。艦首はいわゆるスプーン型で[23]、日本海軍では大正4年度計画の駆逐艦から採用されており、一等駆逐艦には本型から採用された[24]。凌波性はまだ十分でなく[20]、1919年(大正8年)の大演習で「浜風」が波浪によって艦橋破壊の被害を受けている[25]。船体構造は重量軽減策として縦通構造としたが、工作が面倒で以後の駆逐艦には採用されなかった[26]。 砲は40口径12cm砲に統一し(海風型は12cmと8cm砲の混載)、4門全てを中心線上に配置した[26]。魚雷発射管は連装3基6門として海風型(連装2基4門)より強化された[20][注釈 3]。 ボイラーは海風型と同じ重油専焼缶と石炭重油混焼缶を搭載、前部2基が小型の混焼、後部3基が重油専焼のロ号艦本式ボイラー計5基(海風型はイ号艦本式計8基[27])となり、煙突も3本(同4本[27])となった[16]。 主機は海風型同様、直結タービンを搭載した3軸艦で中央軸に高圧タービン、両舷軸に低圧タービン各1基を接続した。 更に減速ギア接続の巡航タービンが各1基ずつ搭載され、両舷軸に接続された[28]。巡航タービンは「浦風」(竣工後に装備)に先駆けて装備された[9]。タービン用減速ギアは日本海軍で初めての採用で、これは呉海軍工廠と三菱で製造した[28]。ギアの騒音が危惧されたが竣工後の問題は特に無かった[28]。またタービン形式は「天津風」「時津風」にはブラウン・カーチス式、「磯風」「浜風」にはパーソンズ式を採用、燃料消費量などの成績はパーソンズ式の方が良好だった[28]。 スクリューは「天津風」「磯風」が直径6ft6in・ピッチ6ft2in、「時津風」が同6ft6in・6ft0in、「浜風」が同6ft4in・5ft10in1/4と異なり、それぞれの比較実験を行った結果、「天津風」のそれが一番推進効率が良く、「浜風」のが最低だった[10]。また公試後の検査ではスクリューに最大で1/2インチ(約13mm)の腐食が見つかり、一時的ではあるが、連続航行で7,000馬力、短時間で6/10全力(16,200馬力程度)に出力が制限された[10]。代艦の「時津風」(後述)は公試で32ノットに届かず、推進器の交換でようやく33ノットを超える速力となった[29]。新造時の同艦(速力は35.56ノット)のスクリュー翼の厚さは3インチ3/4で代艦のそれは5インチと4インチとなっていて、翼の厚さが速力に大きく影響することが判明した[29]。 4番艦時津風は竣工翌年に九州で座礁し船体破壊、代艦を建造している。ただし名目上は大修理とされて新艦とされなかった[12]。 1935年(昭和10年)4月1日に4隻そろって除籍[30]、艦名は4隻とも陽炎型駆逐艦に継承された[31]。 磯風(いそかぜ)[編集] 1915年(大正4年)7月10日、一旦「時津風」と命名後、同年8月25日に「磯風」と改名[32][33]。呉海軍工廠において1916年(大正5年)4月5日起工、同年10月5日進水(天津風と同日)[34]、1917年(大正6年)2月28日竣工[35][36][37]。天津風型2番艦[13]。1935年(昭和10年)4月1日、除籍[14][38]。 浜風(はまかぜ)[編集] 1915年(大正4年)7月10日、濱風と命名[32]。三菱長崎造船所において1916年(大正5年)4月1日起工、同年10月30日進水[39]、1917年(大正6年)3月28日竣工[40][41][42][37]。天津風型3番艦[13]。1919年(大正8年)、大演習時に波浪により艦橋破壊事故を起こす。この事故で笹尾源之丞司令が負傷し、その後この傷が元で殉職する。1935年4月1日、除籍[14][43]。 天津風(あまつかぜ)[編集] 1915年(大正4年)7月10日、「天津風」と命名[32]。天津風型駆逐艦のネームシップ[13]。呉海軍工廠で1916年(大正5年)4月5日起工(磯風と同日)、同年10月5日進水(磯風と同日)[34]、1917年(大正6年)4月14日竣工[44][37]。1935年4月1日、除籍[14][45]。 時津風(ときつかぜ)[編集]

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舘信秀 – Wikipedia

舘 信秀(たち のぶひで、1947年3月23日 – )は、三重県出身の元レーシングドライバーで実業家。トムス代表取締役会長、TOYOTA TEAM TOM’S 代表。前トヨタ・モータースポーツ・クラブ(TMSC)会長。 信秀はレース活動における通り名であり、1960年代は本名の宗一(そういち)で活動していた[1]。トヨタ自動車と専属契約を結んだ「ワークスドライバー」として、1960年代から1980年代にかけて国内外の様々なレースカテゴリーで活躍した。1974年と1975年にはマカオグランプリの「ギアレース」を2連覇し、「マカオの虎」と呼ばれた。 1982年にレーシングドライバーを引退して以降は、1974年に設立したトヨタ系の名門レーシングチーム、及びトヨタ車のチューニングパーツ製造会社として著名な「トムス」の経営に専念している。また、2019年まで「トヨタ・モータースポーツ・クラブ(TMSC)」の会長も務めていた。長男の舘信吾もレーサーだったが、1999年に全日本GT選手権のテスト中の事故で亡くなっている。 1964年 – 立教高校在学中、学友と共にロッドベンダーズというレーシングチームを結成し、ジムカーナなどに出場[2]。ロッドベンダーズの仲間には、三村建治(マキF1設計者)、小平基(後にTMSCに加入)、若松孝太郎などがいた。 1965年 – 立教大学在学中にトヨタ・パブリカでレースデビュー。 1968年 – トヨタ・モータースポーツ・クラブに入会。 1971年

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