持明院統 – Wikipedia

持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の皇子である第89代後深草天皇の子孫で、いわゆる北朝である。

持明院統という名称は、鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発する。

基頼の孫持明院基家の娘陳子が守貞親王の妃になり、守貞親王はこの邸宅・持明院殿に居住した。承久の乱で幕府により三上皇(後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇)が配流、そして仲恭天皇が廃位になった為、守貞親王の子である茂仁親王(後堀河天皇)が天皇となった(守貞親王には太上天皇の尊号が贈られ、後高倉院と称した)。そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内を仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院殿内に住んだ。これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統のことを持明院統と称されたと伝えられている。

しかし、実際には持明院は後堀河上皇の崩御後はその皇女であった室町院(暉子内親王)が居住し、室町院没後の遺産配分によって後深草上皇の子である伏見上皇が持明院を相続して正安4年(1302年)に仙洞御所としたことにより持明院統と称されたのが由来とされている。

院政を敷いた後嵯峨上皇が、後深草上皇の弟亀山天皇の子孫(大覚寺統)が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草上皇と亀山天皇の間で対立が起こり、鎌倉幕府の裁定により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう定められた。

元弘3年(1333年)、大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇による建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統に統一されたかに見えたが、新政は2年半にして崩壊する。吉野に逃れた後醍醐天皇に代えて、足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立する。後醍醐天皇は自己の正統性として南朝を主張し、南北朝時代となる。

後に、後小松天皇の代に、明徳の和約(1392年)によって皇統は持明院統たる北朝に統一されることとなる。だが、その系統も次の称光天皇の代に断絶し、同じ持明院統に属する伏見宮から後花園天皇が迎えられ、この皇統が第126代天皇徳仁たる今日の皇室に連なっている。

持明院統の分裂[編集]

現在の日本の皇室は、この持明院統の子孫であるが、初期から三分裂(後二条天皇流、後醍醐天皇流、常盤井宮流)していた大覚寺統ほどではないものの、持明院統も後半では崇光院流後光厳院流の二つに分裂した。

正平一統の際に、当時の治天の君であった光厳上皇、その弟である光明上皇、当時の北朝の天皇である崇光天皇、皇太子である直仁親王ら北朝の皇族のほとんどが南朝軍に連行されてしまった。その際、僧侶になる予定で妙法院に預けられていた崇光天皇の弟宮を確保した足利氏は北朝方廷臣と図って、この宮を擁立した。これが後光厳天皇である。新帝は三種の神器も当時の皇位継承法(慣習法)において必要であった「治天による伝国の詔宣」を欠いた状態での即位を余儀なくされた上、これに激怒した南朝軍によって京都を追われ、足利氏とともに美濃や近江を転々する経験をした。このため、足利氏は自分達と苦労を共にしてきた後光厳天皇を重んじる姿勢を示した。その後、南朝は光厳法皇(上皇)や崇光上皇らの返還に応じた。その際、治天の君であった光厳法皇によって「持明院統の嫡流」と位置付けられていた崇光上皇に対して、南朝方は自身及び子孫の皇位継承権を放棄するように迫り誓約させた上で京都への帰還を許した(『看聞御記』永享5年11月23日条、『満済准后日記』永享5年10月23日条、『建内記』文安4年3月22日条)。光厳法皇や崇光上皇にとって本来は僧籍に入る予定であった後光厳天皇の即位は想定外であり、更に直仁親王も出家してしまったため、法皇は長講堂領など持明院統相伝の所領のほとんどを崇光上皇に与え、皇位継承権は崇光天皇の子孫(=崇光院流)にある姿勢を明確にした。これに対して、室町幕府と後光厳天皇は光厳法皇と崇光上皇へ出仕する公家を処分する(『園太暦』延文2年2月19日)として光厳法皇らを牽制している。また、後光厳天皇は光厳法皇は正平一統以前は自身と崇光天皇の子を全て出家させて、直仁親王(正平一統による廃太子後に出家)の子孫に皇統に一本化しようとしていた事情を知っており、その可能性が無くなった現在、従来の皇位継承は白紙になったと捉えていた[1]

ところが、光厳法皇が崩御すると、後光厳天皇は自己の子孫に皇位を継承させたいと願い、室町幕府にその意向を示した。折しも幼少の将軍足利義満の時代であり、管領として義満を庇護していた細川頼之は幼少の将軍では判断が難しい事を口実として、天皇の聖断に従う意向を示した。これに従って後光厳天皇は実子の後円融天皇に譲位、更に11年後に後円融天皇が実子の後小松天皇に譲位した際にも既に成人していた義満はこれに同意し、後光厳院流が皇位を継承することを支持する態度を示した。これに崇光上皇は激しく反発して実弟や甥と対立したものの、義満の権勢の前には如何ともしがたかった。加えて南朝方と以前交した誓約は後光厳院流に対しても有効であるとみなされ、崇光上皇は失意のうちに崩じた。崇光院流の後継者で本来であれば将来の皇太子に予定されていた栄仁親王は祖父の光厳法皇から保証されていた持明院統相伝の所領のほとんどを後小松天皇に奪われ、失意のうちに出家した。親王の子孫はその居所から「伏見宮」と称された。後小松天皇は足利義満・義持親子の庇護を受けて明徳の和約による皇統統一に成功し、続いて長男の称光天皇に皇位を譲り院政を開始した。一方、伏見宮は栄仁親王とその長男の治仁王が相次いで没して衰退の一途をたどっていた。

ところが、称光天皇は病弱の上に子供に恵まれず、儲君とした弟の小川宮も兄に先だって没した。後小松上皇というより、後光厳院流には他に皇位を継承できる男性皇族が存在しなかったために、その断絶の可能性が高くなった。一方、南朝系の人々(後南朝)はこれを見越して皇位継承を求める動きを活発化させていった。苦悩した後小松上皇は伏見宮を継承していた栄仁親王の次男・貞成王を自己の猶子として親王宣下を行い(応永32年4月16日)、万が一の事態に備えようとした。ところが、皇位を奪われるのではないかと不安を抱いた称光天皇が6月28日になって出奔を図った(『薩戒記』)。これに驚いた後小松上皇は一転して貞成親王に出家を迫り、閏6月3日に親王は出家させられることとなった。ところが、これによって皇位継承問題は振り出しに戻っただけではなく、後小松上皇は称光天皇・貞成親王双方との関係を悪化させた。ところが、正長元年7月6日になって遂に称光天皇が危篤に陥った。将軍足利義教は7月13日貞成親王の皇子・彦仁王を秘かに保護した上で後小松上皇に今後の判断を委ねた。上皇は直ちに彦仁王を自己の猶子として皇位を継承させることを決断し、天皇の崩御を経た後の7月28日に彦仁王を自己の猶子として皇位に擁立した。これが後花園天皇である。貞成親王の時の失敗を繰り返さないため、称光天皇の生前にはこの計画は極秘に進められた。このため、新天皇は親王宣下も立太子もなく即位することとなった。

新天皇の元でも後小松上皇が院政を行ったが、貞成親王との確執は収まらなかった。上皇はあくまでも後光厳流の継続を意図して新天皇を崇光院流・伏見宮とは無関係な自分の実子として扱おうとした。これには新天皇の即位によって皇統が崇光院流に復帰したと考えた貞成親王は反発した。後小松上皇は『本朝皇胤紹運録』を編纂させ、南朝の天皇の記述を排除するとともに後花園天皇を自分の子として系譜に書かせ、伏見宮と切り離して記させた。永享5年、既に法皇となっていた後小松法皇が崩御した。その際に3ヶ条からなる遺詔を残したことが『建内記』(文安4年3月6・23日条)及び『満済准后日記』(永享5年10月23日条)から知る事が出来る(ただし、後者は2ヶ条と記されている)。それは、「後光厳院流を断絶させないこと、すなわち貞成親王に太上天皇の尊号を贈って後花園天皇との親子関係を認めることは許さない」、「自分の仙洞御所を伏見宮(貞成親王)の御所にしない」、「自己の追号を後小松院とすること」であった(『満済准后日記』は尊号と仙洞御所の件を合わせて「後光厳院流を断絶させないこと」の1ヶ条とみなしたために2ヶ条と記されているのである)。後小松法皇の側近たちはこの遺詔に基づいて「実子」である後花園天皇が父である後小松法皇の喪に服する「諒闇」の儀式を行うべきと主張した。当時の公家政権に大きな影響力を有した前摂政一条兼良や准后満済、将軍足利義教らがこれに同意したために諒闇が実施されることとなった。この際満済はかつての崇光天皇が南朝方と誓約した件を持ちだし、崇光院流には皇位継承権がないことをほのめかす主張している(『満済准后日記』永享5年10月23日条)。これに貞成親王は激怒し、兼良や満済の天皇への不忠を詰っている(『椿葉記』)。

だが、後花園天皇が成長すると、この状況に不満を抱くようになり、父である貞成親王や弟の貞常王を優遇する方法を模索するようになる。永享8年後小松法皇の仙洞御所の一部が新しい伏見宮邸の敷地として献上された(ただし、先の遺詔に配慮して敷地の全部を明け渡すことは回避された)。続いて嘉吉3年には天皇から貞成親王に対して、まず貞常の元服と親王宣下を行い、その後に尊号を奉る意向が伝達された。(『看聞日記』嘉吉3年4月26日条)。文安2年(1445年)3月16日、関白二条持基の加冠によって貞常王の元服が行われた。ところが、同時に行われる筈であった親王宣下が中止され、6月7日には「荒説」「云口」(すなわち悪口)を理由として後小松法皇の側近であった広橋兼郷と白川雅兼が追放されたのである。その内容は不明であるが、両者が後小松上皇の側近であり貞成親王への尊号と、その前提となる貞常への親王宣下に反対して、貞成親王や貞常王に対する誹謗を行ったとも言われている。この騒動後の6月27日貞常王への親王宣下が行われた。続いて文安4年3月になると、後花園天皇の貞成親王への尊号が提案され、激しい議論が行われた。『建内記』の著者である万里小路時房が後小松法皇の遺詔を持ちだして天皇を激しく諌めたのもこの時のことであった。だが、天皇の意思を変えることは出来ず、同年11月27日、貞成親王は天皇の実父であることを理由に太上天皇の尊号を贈られて、後に「後崇光院」と称されることとなった。これによって後光厳院流が称光天皇の代で断絶したことと崇光院流によって皇位継承が行われることが確認されたのである。崇光院流が現在の皇室の直接の祖先にあたる。また、後花園天皇の弟である貞常親王は父・貞成親王の崩御後に伏見宮を継承、世襲親王家としての地位を認められることとなった。もっとも、後小松法皇の没後の法要が後花園天皇によって長く国家的行事として行われたのに対して後崇光院の法要が国家的行事の性格を有していない(伏見宮家の行事の範囲で行われている)ことから、後花園天皇が自身による後光厳院流の継承を否定していた訳ではないとする指摘もある。

持明院統の天皇[編集]

系図[編集]

  1. ^ 家永遵嗣 「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」桃崎有一郎・山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都』 文理閣〈平安京・京都叢書4〉、2016年10月、pp.109-112。

参考文献[編集]

第七章 持明院統天皇家の分裂 p178~p201
  • 久水俊和「改元と仏事からみる皇統意識」(初出:『国史学』199号(2009年)、所収:『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)

関連項目[編集]