壱志濃王 – Wikipedia

壱志濃王(いちしのおう、天平5年(733年) – 延暦24年11月12日(805年12月6日))は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての皇族。天智天皇の孫である湯原王の第二子。官位は正三位大納言。贈従二位。

称徳朝の天平神護3年(767年)无位から従五位下に直叙される。

宝亀元年(770年)伯父の光仁天皇が即位すると、他の従兄弟の諸王が春日宮御宇天皇(志貴皇子)の皇孫として二世王待遇となって従四位下の叙位を受けるが、壱志濃王は翌宝亀2年11月(772年1月)になってから四階昇進して従四位下に叙せられている。光仁朝において天皇の甥として重きを成し、桓武朝も含めて以下の通り朝廷の重大な祭祀の使者を多く務めた。

  • 宝亀9年(778年)正月に光仁天皇皇后の井上内親王の改葬のために派遣[1]
  • 宝亀9年(778年)5月に光仁天皇の異母姉の坂合部内親王の喪事を監護[2]
  • 天応元年(781年)12月に光仁天皇皇子の薭田親王の喪事を監護[3]
  • 天応2年(782年)8月に光仁天皇陵を改葬するために大和国へ派遣[4]
  • 延暦4年(785年)10月に皇太子・早良親王を廃した事情を告げるために光仁天皇陵へ派遣[5]
  • 延暦7年(788年)5月に桓武天皇の夫人・藤原旅子の喪事を監護[6]
  • 延暦9年(790年)閏3月に桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏の喪事にて山作司を担当[7]

またこの間、宝亀9年(778年)縫殿頭、宝亀10年(779年)右大舎人頭、宝亀11年(780年)左大舎人頭と京官を歴任した。

従兄弟にあたる桓武天皇とは酒飲み仲間であったと伝えられ、天応元年(781年)の桓武天皇即位後まもなく従四位上に叙され、天応2年(782年)治部卿、延暦5年(786年)正四位下への叙任を経て、延暦6年(787年)参議に任ぜられ公卿に列した。

延暦12年(793年)賀茂大神[8]と伊勢神宮[9]へ平安京遷都を告げる使者に任じられ、同年従三位に叙せられた。その後も延暦13年(794年)中納言、延暦17年(798年)には正三位大納言(弾正尹を兼ねる)に昇進し、太政官において右大臣の神王に次ぐ位置を占めた。延暦24年(805年)11月12日薨去。享年73。最終官位は大納言正三位兼弾正尹。桓武天皇は壱志濃王の死を悲しんで従二位の位階を贈位した。

豪放な性格で礼法に拘らない人物であった。酒を飲むとよくしゃべり笑った。桓武天皇と酒を飲んで楽しい気分になるといつも昔語りをし、天皇もこれに満足していたという[10]

延暦24年(805年)に美海真人姓を賜与されて臣籍降下した田辺王・高槻王[11]を壱志濃王の子であると伝える史料もある[12]

注記のないものは『六国史』による。

  • 天平神護3年(767年) 正月18日:従五位下(直叙)
  • 宝亀2年(771年) 11月25日:従四位下(越階)
  • 宝亀9年(778年) 8月20日:縫殿頭
  • 宝亀10年(779年) 9月:右大舎人頭[13]
  • 宝亀11年(780年) 9月:左大舎人頭[13]
  • 天応元年(781年) 4月15日:従四位上
  • 天応2年(782年) 閏正月17日:兼讃岐守。2月14日:治部卿
  • 延暦5年(786年) 正月7日:正四位下。9月29日:山城国班田使長官
  • 延暦6年(787年) 8月16日:参議
  • 延暦12年(793年) 正月26日:兼越前守[13]。6月:従三位[13]
  • 延暦13年(794年) 10月27日:中納言[13]
  • 延暦17年(798年) 7月5日:兼弾正尹[13]。8月16日:正三位・大納言[13]
  • 延暦24年(805年) 11月12日:薨去(大納言正三位兼弾正尹)、贈従二位
[脚注の使い方]
  1. ^ 『続日本紀』宝亀9年正月20日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀9年5月27日条
  3. ^ 『続日本紀』天応元年12月17日条
  4. ^ 『続日本紀』延暦元年8月9日条
  5. ^ 『続日本紀』延暦4年10月8日条
  6. ^ 『続日本紀』延暦7年5月4日条
  7. ^ 『続日本紀』延暦9年閏3月11日条
  8. ^ 『日本後紀』延暦12年2月2日条
  9. ^ 『日本後紀』延暦12年3月10日条
  10. ^ 『日本後紀』延暦24年11月12日条
  11. ^ 『日本後紀』延暦24年2月15日条
  12. ^ 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年、上巻121頁
  13. ^ a b c d e f g 『公卿補任』

参考文献[編集]

  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年
  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社学術文庫、2007年