京王3000系電車 – Wikipedia

京王3000系電車(けいおう3000けいでんしゃ)は、京王電鉄井の頭線用の通勤形電車である。1962年(昭和37年)から1991年(平成3年)にかけて東急車輛製造で製造され、2011年(平成23年)まで運用された。京王で初めてオールステンレス車体を採用した。1996年(平成8年)から2011年12月にかけて全車廃車され、一部は地方私鉄に譲渡された。

井の頭線の輸送力増強および、それまで同線で使用されていた緑色車体の鋼製車(「グリーン車」)の代替を目的に製造された。

1963年(昭和38年)に鉄道友の会ローレル賞を受賞した。

最大で5両編成29本(145両)が富士見ヶ丘検車区に在籍していたが、1996年(平成8年)以降1000系の導入で廃車が進み、2004年(平成16年)11月に未更新車が全廃。以後はリニューアル工事を行った5両編成14本(70両)が在籍していたが、京王電鉄は全車両をVVVFインバータ制御車両に統一する方針であり、本系列はATCに対応していないことから、2008年(平成20年)から2009年(平成21年)にかけて追増備された1000系に置き換えられ、2011年12月をもって運転を終了し、全廃された。

京王初のオールステンレス車両である。日本初のオールステンレス車両である東急7000系電車 (初代)や、本系列とほぼ同時期に就役した南海6000系電車と同様、東急車輛がアメリカのバッド社から導入した技術を用いて製造されている。一部の車両の車内には、同社からのライセンス技術により製造された旨の銘板が取り付けられていた。

京王の営業用車両では最後まで運転台のマスコンハンドルとブレーキハンドルが個別に設置され、電磁直通制動を装備する18.5m車体の片側3扉車両であった。乗務員室の内装は緑色である。2003年(平成15年)ごろより1000系と同等の電子警笛が追設された。営業最高速度は90km/h(かつては80km/h)であるが、速度計は140km/h表示で、ATS照査速度表示スペースはない。乗務員室と客室の仕切り窓は3か所であり、中央が乗務員室仕切り扉である。遮光幕などについては京王電鉄#車両を参照。

特徴[ソースを編集]

吉祥寺駅を発車する3000系オリジナルタイプ。正面窓が側面まで回りこんでおらず、側面の帯が細帯1本のみ(第14編成 2004年8月11日撮影)

前面形状は、窓周りを傾斜させた2枚窓のいわゆる「湘南形」である。ステンレスでは加工の難しい複雑な形状となる前面上半部はFRPが使用され、ステンレス製の車体にねじ止めしている。ステンレス車の前面にFRPを使用するのは日本では初めての試みであった。このFRP部分にパステルカラーの着色をし、編成ごとに変えて変化を持たせたため、レインボーカラーの電車として人気があった。ステンレスとプラスチックの電車ということで「ステンプラカー」の愛称がある。ただし、のちに実施された更新改造(後述)の際に、このFRP部分は普通鋼に変更された。更新されることなく各地方私鉄に譲渡された初期車は、現在でも前面がFRP製のままである。

乗務員室直後部分にも座席があり、乗務員室仕切り部分の一部にも座席モケットが張られている。

正面色一覧[ソースを編集]

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編成番号と車体色の対応は下表の通りであり、「第n編成の車体色はnを7で割った余りに対応する」という規則がある。

この規則は基本的に1000系にも引き継がれている。

  編成番号
1.ブルーグリーン 01 08 15 22 29
2.アイボリー 02 09 16 23  
3.サーモンピンク 03 10 17 24
4.ライトグリーン 04 11 18 25
5.バイオレット 05 12 19 26
6.ベージュ 06 13 20 27
0.ライトブルー 07 14 21 28

製造年による変化[ソースを編集]

4両編成から5両編成へ[ソースを編集]

第15編成までは4両編成で落成したが、輸送力の増強に伴い、後にデハ3100形を1両組み込んで5両化された。そのため、編成内で装備や性能が異なる場合がある。また、第16編成以降は5両編成で落成している。なお、デハ3101 – 3115の車体は第10 – 13編成とほぼ同じである。

狭幅車体片開き3ドアと広幅車体両開き3ドア[ソースを編集]

北陸鉄道8000系
8812は第2編成、8913は第5編成が種車で車体断面の違いが判る

客用扉は、最初に落成した第1・2編成のみ片開きであったが、第3編成以降は両開きとなった。5両化に際して連結したデハ3100形は第3編成以降と同じスタイルであり、第1・2編成では形態の異なる車両が1両連結された。

扉(片開き扉をD、両開き扉を’D’、乗務員室扉をdと表記)と窓(数字で表記)の配置は狭幅片開き車がd1D3D3D2で、車体長も含めて先行形式の1000系 (初代)や京王線の5000系 (初代)、さらには京急1000形電車 (初代)や京成3000形電車 (初代)などと同一である。この窓配置を始めたのは2700系が最初であると言われている。また、広幅両開き車はd1’D’2’D’2’D’2で、東急の初代7000系(車体長は異なる)などと比較して両端の扉が窓1枚分中央に寄り、車端が長いのが特徴である(いずれも先頭車で表示)。特に後者の窓配置は珍しく、他社では京阪6000系電車以降に見られる程度である。ただし、窓の形状は異なるが車端が長いという点では、横浜市営地下鉄ブルーラインの車両や京成3700形電車、伊豆箱根鉄道5000系電車なども該当する。

冷房化[ソースを編集]

第13編成までは非冷房で落成し、第14・15編成が新製冷房車(試作冷房車)、第16編成以降が量産冷房車としてそれぞれ増備された。第1 – 13編成は1971年(昭和46年) – 1973年(昭和48年)ごろに冷房化され、同時期にデハ3100形(新製冷房車)を組み込んで5両化された。5両化と冷房改造は前後して進み、5両化が先で残る4両が後で冷房改造されたケースもあった。
なお、クーラーの電源は全編成130kVAのブラシレス式MGで5両分の電力をまかなっている。

改造冷房車の中間車は編成ごとに冷房改造後の室内の天井形態にも違いがある。先頭車はすべて冷房吹き出し口とファンデリア(換気扇)の併用だが、中間車はファンデリアの代わりに補助送風機としてラインデリアを装備したものがある。

軽量構造化[ソースを編集]

第20編成以降は軽量ステンレス構造となり、車体構造が一部異なるが、車体外板は従来通りのコルゲート加工なので一見して分からない。変更点は、室内ドアの隅柱などの工作や化粧板の継ぎ目の押面の位置などである。外板のコルゲートの本数は1本少ないため、側窓下のコルゲート部までの隙間が大きい。後年、側窓とコルゲート部の間に側面帯を追加したが、第19編成まではコルゲートの上端2本に貼付された。

東急車輛での強度試験に車体を供出したデハ3054号と踏切事故により修繕したクハ3758・デハ3108・デハ3058号の4両も同構造の車体がほぼ新製され、手摺り・側ドア・パイプ棚・冷房風洞は可能な限り再利用したが、デハ3054号の風洞は新製車と同等とされた。第8編成の客用扉は破損した数枚以外再利用したが、窓ガラスの支持方式がHゴムのものと、デハ3100形用の押さえ金支持式、破損不足分の第28・29編成と同等の新製客用扉が復旧の際にランダムに取り付けられたため、1両の中に複数の形態のドアが混在する。これらの車両にも窓下に帯を追加したが、連結相手に合わせてコルゲート上に貼付されており、帯の位置が低い点が完全新造車と異なる。現在、クハ3758は上毛電気鉄道700型デハ712、デハ3108・デハ3058はアルピコ交通3000系3003・3004として活躍中。

制御・制動方式[ソースを編集]

全編成とも電磁直通空気制動を装備するが、以下の点で異なる。

第1 – 6編成[ソースを編集]

抵抗制御で落成当時は電磁給排・中継併用直通自動空気制動(ARSE-D[1])・発電制動だったが、後述の第7編成の登場以降電磁直通空気制動に改造された。

第7 – 9編成[ソースを編集]

前述の第6編成までと同じく抵抗制御だが、落成当時より電磁直通空気制動。

第10 – 15編成[ソースを編集]

落成当時は抵抗制御・回生制動(東急7000系・7200系の東洋電機製造製制御装置搭載車と同方式)であったが、1985年(昭和60年)ごろに界磁チョッパ制御に改造された。

上記以外[ソースを編集]

5両化用のデハ3100形と第16編成以降は界磁チョッパ制御・回生制動。

第1・2編成[ソースを編集]

3000系狭幅車。2両目に広幅車のデハ3100形が連結されている

1962年度に投入した18m片側3扉車。第1編成は1962年12月28日に営業運転を開始した。扉は1,200mmの片開き扉で、主電動機は東洋電機製造製の直流直巻電動機TDK806/3-Cで定格出力100kW。発電制動、強制通風式抵抗器、窓割などは旧1000系と同様で、車体幅も以降の編成より狭い2,700mmである。MT比2M2Tの4両編成で登場し、後に広幅のデハ3100形を組み込んで5両化した。

製造当初はM車(電動車)・T車(付随車)とも、東急車輛がオールステンレス車体の製造技術とともにバッド社より技術導入して製造したパイオニア台車 (PIII-703) を装着していたが、のちにM車用PIII-703はTS-801Aに交換された。

第1編成と第2編成では正面の手摺りの配置が一部異なり、第2編成の手摺りの配置は後の第3編成以降に踏襲される。

2編成とも非冷房で登場し、改造により冷房装置を搭載するとともに新製冷房車のデハ3100形(両開き車)を挟んで5両編成となったため、片開き車と両開き車が混在する編成となった。先頭車が集約分散式[2](4台/両)、中間車が集中式(1台/両)となっている。なお、登場時は第1編成がサイクルファン(扇風機)、第2編成がファンデリアという違いがあった。

井の頭線が本系列に統一された1984年(昭和59年)ごろからは平日朝ラッシュ時のみに限定使用していたが、1996年に廃車された。営業運転終了時には先頭車の前面に投入年を記載したヘッドマークを装着して運用された。

第3 – 9編成[ソースを編集]

1963年度から投入した車体長18.5m・車体幅2,800mmの片側3扉車。扉は先に投入された第1・2編成より幅が100mm広い1,300mmの両開き扉となり、以後はこの仕様で新製した。主電動機は第1・2編成と同一である。発電制動式。M車・T車ともパイオニア形台車 (PIII-703) を装着していたが、後にM車用PIII-703はTS-801Aに交換され、1985年以降はTc車(制御車)もTS-821Aに交換された。この第9編成までが客用扉の窓ガラス支持がHゴムである。1996年から1998年(平成10年)に廃車された。こちらも非冷房で登場し、改造により冷房装置を搭載した。

第10 – 13編成[ソースを編集]

1967年(昭和42年)度に投入した。主電動機は直流複巻で出力120kW、歯車比が5.60から6.07に変更され、回生制動を採用した。台車はM車はTS-801を、Tc車は第1 – 9編成から捻出されたPIII-703を改造して使用した。Tc車は1985年以降にTS-821Aに交換された。このグループは第13編成が後述の第14・15編成とともに延命のための車内のみの簡易更新工事を1998年度に実施した。2000年(平成12年)に第10編成が、2003年(平成15年)に第11編成が、2004年に第12・13編成がそれぞれ廃車となった。こちらも非冷房で登場し、改造により冷房装置を搭載した。

第14・15編成[ソースを編集]

1969年(昭和44年)度に投入した。4両で新製された最後のグループである。扉と主電動機の出力、台車などは第10 – 13編成と同じである。このグループ以後は新製時から冷房装置を搭載する。2004年3月に第15編成が、同年11月に第14編成がそれぞれ廃車となったため、オリジナルタイプおよび(前面が普通鋼にリニューアル改造されていない)「ステンプラカー」は消滅した。

冷房装置は5000系にも使用された6台/両の分散式(冒頭の写真参照)だが、後から組み込んだデハ3114・3115は集中式を1台搭載していた。

第16 – 19編成[ソースを編集]

1975年(昭和50年)度から投入した(16・17編成が1975年製、18編成が1977年製、19編成が1979年製)。扉と主電動機の出力、台車などは第10 – 15編成と同じである。このグループより5両編成で新製され、すべての電動車が界磁チョッパ制御となる。また、デハ3000形のパンタグラフ搭載位置が、吉祥寺方から渋谷方に変更されている。第19編成では初めて側面にも行先表示器が設置された。このグループは2008年から2009年にかけて廃車されている。

冷房装置は、第16・17編成は先頭車が集約分散式[2]、中間車が集中式を採用したが、第18編成からは全車集中式とされた。

第20 – 29編成[ソースを編集]

記念ヘッドマークを装着した第28編成

本系列の最終グループ。軽量車体構造が使用された。第20 – 27編成は1983年(昭和58年)度から1984年度までに最後まで残った1000系列(いわゆる「グリーン車」)の置き換え、第28・29編成は1987年(昭和62年)度の列車増発のためにそれぞれ投入された。扉と主電動機の出力などは第10 – 19編成と同一である。台車はM車がTS-801B、T車がTS-821。事故廃車が発生したため、1991年に同一番号でクハ3722号を1両新製した。冷房装置は全車集中式を搭載し、カバーはステンレス製となった。

2008年から退役が開始され、各編成のうち中間車2両(デハ3050形とデハ3100形)は廃車解体、残る3両は改造の上で伊予鉄道に譲渡された。その後2011年12月をもって営業運転を終了し、同年11月3日から12月4日まで記念イベントを実施する予定であることが発表され[3]、最後まで残った第28編成を使用して同年11月3日、6日、13日の3日間ヘッドマークを装着して営業運転し、同年11月20日に富士見ヶ丘検車区において事前応募者による展示会を実施した後、記念イベント終了後の同年12月10日に伊予鉄道に向け搬出された[4]

雨樋の設置[ソースを編集]

第1 – 15編成には水切りのみで雨樋がないが、第16 – 19編成は水切りに加えて雨樋を装備する。第20編成以降では車体構造の変更に伴い雨樋のみになる。

行先表示の変遷[ソースを編集]

井の頭線伝統の隷書体・縦書きの手動式正面行先表示器を装備し、通常時は始発・終着駅併記であった。1979年(昭和54年)に落成した第19編成以降は電動式となり、前述したように側面にも行先表示器を設置した。この電動式行先表示器では正面は終着駅名のみの表記とされたが、一部編成の急行のみ両端駅併記が表示された時期があった。1982年(昭和57年)から1986年(昭和61年)にかけて第3 – 15編成も側面行先表示器の設置および正面の電動化が施工された。1988年(昭和63年)のダイヤ改定後は急行と各停の種別変更が吉祥寺駅で頻繁に行われるようになったため、後に急行・回送表示板を廃止し正面表示器の字幕を急行表示入りのゴシック体横書き(当初は丸ゴシック体、後に京王CI化によりゴシック体に交換)に改めた。この時点では各停は正面・側面とも行先のみの表示であった。その結果、第28・29編成の縦書き表示は短期間に留まった。2002年(平成14年)ごろに正面・側面とも「各停」表示が追加された。第1・2編成は廃車されるまで側面行先表示器が設置されなかったが、正面行先表示器はその他の編成と同様のデザインであった。

装飾関係[ソースを編集]

登場当時は編成ごとのテーマカラーが先頭車前面のみであったが、後に側面の窓下にも前面と同一色の帯が入れられた。その後のCIマーク制定後には先頭車端部の窓上にマークを貼付し(旧来の社紋との並存時期もあった)、さらに2002年ごろには前面にも貼付した。排障器(スカート)は後付け設置である。

冷房装置の交換も頻繁に行われ、集中型は鋼製のキセからステンレス製に、さらに6000系の廃車発生品を流用したものや1000系に搭載されたものを設計変更したものなどが存在する。

略記表記[ソースを編集]

製造当初は上り渋谷方先頭車クハ3750形がTc1、以下デハ3050形がM1、デハ3000形がM2、クハ3700形がTc2とされていたが、現在は下り吉祥寺方先頭車のクハ3700形がTc1とされ、以下デハ3000形がM1、デハ3050形がM2、デハ3100形がM、クハ3750形がTc2となっている。

系列による区別はなく1000系と共通で運用されたが、駅での旅客案内の都合上、ある程度はどの列車に充当するかは決まっていた。また、渋谷・吉祥寺の両駅では足元の緑色の乗車位置目標が、それ以外の駅では緑色の3扉車乗車位置が本系列となっていた。

また、1000系の登場時にMT比の低さから空転が多かったため、雨天や降雪時の運用には優先的に本系列を投入していた。

3000系リニューアル車。正面窓が側面まで回り込んでいる。(2007年4月13日 高井戸駅)

第16編成以降は、1000系の投入と並行してリニューアル工事が実施された。施工第1号は第17編成で、同系列の投入より半年程早く登場した。

抵抗制御の第1 – 9編成が運用終了したころ、第13 – 15編成も延命のために追加で車内の簡易改造工事(化粧板と床の張り替え)が行われた。第11・12編成は座席のモケット張り替えのみ、第10編成は廃車まで原型の配色の車内を保っていた。

正面[ソースを編集]

  • 窓が側面まで拡大された。
  • ワイパーを電気式に換装した。
  • 先頭車前面カラーマスクをFRPから普通鋼製に変更。このため本系列の特徴であった「ステンプラカー」ではなくなった。

側面[ソースを編集]

  • 正面のカラーマスクの色に合わせたラインは同系列の濃淡による2色化された。
  • 連結部に転落防止幌を設置。第16編成以降は縦どいに貼り付けるように一般的な形状のものを設置。屋上昇降用ステップを廃し、妻面にはしごを追加。第10 – 15編成では雨樋がないため、ステップ兼用の外幌は互い違いに噛み合わさる形状のものを設置。

車内[ソースを編集]

  • 座席はえんじ色モケットから1000系に準じたピンク色のバケットシートに変更した。
  • 壁面化粧板はオレンジ色から明るい白色へ、床材も黄土色から、白色、ブラウンのフットライン付きへと張り替え、大変明るくなった。化粧板および床の模様は1000系と同じものを採用する。
  • ドア付近上部のつり革は第9編成まで新製時より装備しており、第10編成以降と5両化の際の増備車では省略されていた。1985年ごろに第1 – 9編成のドア上部のつり革と取り付け金具を撤去し、しばらくの間は手すりのみが設置されていた。その後、第10編成以降については枕木方向に短いつり革を設置するとともにドア付近上部にも設置された。この時点では第1 – 9編成がすでに廃車されていた。

本系列は、これまでに廃車となった車両のうち71両(2015年現在)が京王重機整備で改造の上、下記に譲渡されている。下記のほか、銚子電気鉄道に8両[5][6]譲渡されることが計画されたが、資金難かつ建築限界の都合で伊予鉄道から3000系の代替対象となる800系4両の譲受に変更された。

このほか、廃車により発生した冷房装置・パンタグラフ・側面方向幕の一部が高松琴平電気鉄道の車両で使用されている。また、運用目的以外では2004年にデハ3063が群馬県内の企業に譲渡された。2013年10月、クハ3719は京王れーるランドで保存・一般公開を始めた。

北陸鉄道[ソースを編集]

北陸鉄道8000系(8800番台) 片開き扉車 北陸鉄道8000系(8900番台) 両開き扉車)

北陸鉄道8000系(8800番台) 片開き扉車

北陸鉄道8000系(8900番台) 両開き扉車)

北陸鉄道へは、1996年、1998年、2006年の3次にわたって2両編成6本(計12両)が譲渡された。
浅野川線には車体幅が狭い第1・2編成の先頭車4両を含む2両編成5本(10両)が投入され、狭幅車は8800番台、広幅車は8900番台と区分されている。
石川線には第11編成の先頭車で構成される2両編成1本が投入された。
いずれも正面色は譲渡時にパステルカラーからオレンジに変更されており、下回りは浅野川線用の8000系が京王時代の中間車(デハ3000・3050形)の主要機器が流用されている2M編成であるのに対し、石川線用の7700系は同線の主力形式である7000系(旧・東急7000系)と仕様を統一するため、JRおよび西武鉄道の廃車発生品を流用し1M1T編成となっている。

上毛電気鉄道[ソースを編集]

上毛電気鉄道へは、1998年から2000年にかけて2両編成8本(計16両)が譲渡された。
下回りは京王時代のものが使用されているが、MT比は1M1Tである。また、中間車両にオリジナルとほぼ同じ形態の運転台が設置された編成が存在する。改造種車によって冷房装置が分散式と集中式に分けられており、両者を混用した編成は存在しない。
正面色は当初は薄青緑色(フィヨルドグリーン)だったが、後に第1編成を除く各編成の正面上半分の配色変更が実施され、全編成それぞれが色違いとなった。

岳南鉄道(岳南電車)[ソースを編集]

岳南鉄道7000形 岳南鉄道8000形

岳南鉄道7000形

岳南鉄道8000形

岳南鉄道(現・岳南電車)へは、1996年に7000形3両、2002年に8000形2両の計5両が譲渡された。
7000形は、デハ3100形を両運転台に改造したもので、正面色は朱色である。1両編成3本(3両)が在籍。
8000形は、中間電動車(デハ3100+デハ3000)に松本電気鉄道(現・アルピコ交通)3000系と同様の6000系廃車発生品のワンハンドルマスコンを採用した運転台を新設して2両編成にしたもので、正面色は緑色である。2両編成1本のみの在籍。「がくちゃんかぐや富士」の愛称がある。
両形式とも先頭車の前面に白色の帯が入り、側面にも正面色と同じ帯が入っている。また、松本電気鉄道と同様、窓の左上に行先表示器を新設した。

松本電気鉄道(アルピコ交通)[ソースを編集]

松本電気鉄道3000系
松本電気鉄道(現・アルピコ交通)へは、1999年から翌年にかけて2両編成4本(8両)が譲渡された。すべて第6 – 9編成の中間電動車デハ3100形(モハ3000型)・デハ3050形(クハ3000型)から改造されたものである。全車ワンマン運転に対応している。
3001-3002・3003-3004・3005-3006・3007-3008と編成を組む。奇数番号がモハ3000型、偶数番号がクハ3000型となっている。
クハ3000型のうち、3004・3008の前寄りには霜取り用パンタグラフが設置され(京王時代は集電用)、3002・3006の同部分にはパンタ台のみが設置されている。
新設された前頭部には、オリジナルの更新車と同じくパノラミックウインドウを採用している。また、先頭車前面下部への行先表示器の設置は行わず、窓の左上に行先表示器を新設した。運転台は6000系の廃車発生品のワンハンドルマスコンを採用している。

伊予鉄道[ソースを編集]

  • 3000系
    • 伊予鉄道へは、2009年度から2011年度にかけて3両編成10本(30両)が譲渡され、2009年度中に4本(12両)、2010年度に4本(12両)、2011年度に2本(6両)[7]が郊外線に登場した。3000系のうち第20 – 29編成のTc2‐M1‐Tc1の30両[8]が京王重機整備で整備改造され、2009年8月24日から3両編成2本が運用されている[9]。正面色はアイボリーである。伊予鉄道導入時にVVVFインバータ制御に改造された[7]。また、同社の架線電圧は直流750Vまたは直流600Vであるため、降圧工事も施工された。

出典[ソースを編集]

  1. ^ 自動空気ブレーキ (Automatic air brake) を示すA、電動車 (Motor car) 用を示すM、さらに中継弁 (Relay valve) を付加する場合にはRが、直通弁 (Straight valve) を付加する場合にはSが、そして電磁給排弁 (Electro-pneumatic valve) を併用する場合にはEが、それぞれ基本となるアルファベット3文字の後ろに追加される。つまり、「A弁による電動車用電磁給排・中継併用直通自動ブレーキ」はAMARSEブレーキとなる。もっとも、こういった付加機能がある場合は表記が煩雑になるのを避ける目的で先頭の2文字を省略して、「基本となるブレーキ制御弁の種類を示すアルファベット」+「付加機能を示すアルファベット各種」の構成で表記されることが大半であり、この場合はARSEブレーキと呼称されることになる。
  2. ^ a b 「私鉄の車両 17 京王帝都電鉄」(ネコ・パブリッシング)
  3. ^ 京王井の頭線3000系車両の引退を記念し「ありがとう3000系フェスタ」を実施します – 京王電鉄ニュースリリース 2011年10月14日(インターネットアーカイブ)
  4. ^ 京王3000系、ついに全廃に – 交友社『鉄道ファン』railf.jp 鉄道ニュース 2011年12月11日
  5. ^ 2008/8/19 朝日新聞夕刊東京本社版7面
  6. ^ 07年度 銚子電気鉄道 安全報告書 – 銚子電気鉄道(インターネットアーカイブ)
  7. ^ a b 新型鉄道車両(3000系)安全祈願祭 – 伊予鉄道 2009年8月4日(インターネットアーカイブ)
  8. ^ 『鉄道ファン』2009年3月号(通巻575号)
  9. ^ 新型鉄道車両(3000系)の導入について – 伊予鉄道 2009年6月26日(インターネットアーカイブ)
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1963年3月号(通巻142号)pp.36,37 吉村光夫 京王帝都井の頭線のステンプラカー ※第1編成落成時の記事。
  • 交友社『鉄道ファン』1963年2月号(通巻20号)pp.14-16 合葉博治 京王帝都電鉄 井の頭線 ステンレス・カー ※同上
  • 藤崎一輝『仰天列車』(秀和システム、2006年) ISBN 4798015474 – p.95 – 98に本系列についての記述がある。
  • 森本富夫、荒川好夫『私鉄の車両17 京王帝都電鉄』保育社、1986年。ISBN 4586532173。