ジョージ・ウェア – Wikipedia
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ジョージ・ウェア | |
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George Weah | |
2016年9月5日撮影 |
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就任 2018年1月22日 |
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副大統領 | ジュエル・テーラー |
前任者 | エレン・ジョンソン・サーリーフ |
個人情報 | |
生誕 | (1966-10-01) 1966年10月1日(55歳) |
政党 | 民主変革会議 |
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1996年、ACミラン時代 |
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名前 | ||||||
本名 |
ジョージ・マネー・オポング・ウェア George Manneh Oppong Weah |
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愛称 | リベリアの怪人 | |||||
ラテン文字 | George WEAH | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | (1966-10-01) 1966年10月1日(55歳) | |||||
出身地 | モンロビア | |||||
身長 | 185cm | |||||
体重 | 82kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW/MF/DF /GK | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1986 |
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10 | (7) | |||
1986-1987 |
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23 | (24) | |||
1987 |
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2 | (1) | |||
1987-1988 |
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18 | (14) | |||
1988-1992 |
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103 | (47) | |||
1992-1995 |
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96 | (32) | |||
1995-2000 |
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114 | (46) | |||
2000 |
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11 | (3) | |||
2000 |
→ |
7 | (1) | |||
2000-2001 |
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19 | (5) | |||
2001-2003 |
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8 | (13) | |||
代表歴2 | ||||||
1986-2002 |
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75 | (18) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年12月2日現在。 2. 2019年4月25日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ジョージ・マネー・オポング・ウェア(George Manneh Oppong Weah、1966年10月1日 – )は、リベリアのサッカー選手、政治家。現在、同国大統領。サッカー選手として同国代表に14年間にわたって選出された。モンロビア出身。「リベリアの怪人」の異名を持つ[1]。
バロンドールの規定が改定されて最初の年である1995年にFIFA最優秀選手賞と欧州最優秀選手賞を受賞。ゴールキーパーを含めたほとんどのポジションをこなす。高い身体能力とゴール決定力を誇り、ACミラン時代のラツィオ戦では一人スルーパスからゴールを決めたことも有名。また、96~97シーズンの開幕戦で自陣ペナルティエリア付近から約80メートルを相手ゴール前まで単独でドリブル突破した上でゴールを決めた際、翌日の地元紙は「サン・シーロにUFO出現」の見出しを掲げた。
モンロビア郊外のブッシュロード島のシャンティタウンにて14人兄弟の3番目として生まれる。幼い時に父親を失い、祖母に育てられた彼の最初の夢はモンロビアのテレフォンオペレーターになることだった。
サッカー選手として[編集]
15歳の時に当時3部リーグ所属の地元のサッカークラブ、ヤング・サバイバーズと契約するとゴールキーパーとしてサッカーキャリアをスタートした。すぐに得点をすることへ楽しさを覚え、フォワードへ転向、30試合に出場し31得点を記録。チームを2部リーグに昇格させた。
その後1部リーグのクラブを経て、1986年にはリベリアで最高のチームであったインビンシブル・イレブンへ移籍。このクラブではキャプテンを務め得点王にもなる活躍を見せ、カメルーンのスカウトの目にとまり1987年に国外デビューを果たした。
1シーズンカメルーンで過ごしたウェアはその後フランスのASモナコへ移籍しそのポテンシャルを開花させ、1991年にフランスカップをもたらすと、翌年にはチームを欧州カップ・ウィナーズカップの決勝に導いた。その後移籍したパリSGでもチームをリーグ優勝に導くと、1995年には再びフランスカップをチームにもたらした。
1995年、アフリカ人として初のバロンドールを受賞し、同年にFIFA(国際サッカー連盟)選出の世界年間最優秀選手賞も受賞[2]。最後に自身3度目(89年、94年、95年)となるアフリカ年間最優秀選手賞と、この年の個人タイトルを総なめにした。
マルコ・ファン・バステンの後釜として加入したACミランでは数多くのゴールをあげた。驚異的な身体能力を誇り、「リベリアの怪人」と呼ばれた。その後は膝の怪我等も有り、99/00シーズン途中にチェルシーFCに移籍。以降マンチェスター・シティFC、マルセイユ、アル・ジャジーラと渡り歩き2002/2003シーズンをもって現役引退した。
リベリア代表としても活躍したが、FIFAワールドカップの本大会に出場することはできなかった。特に2002年大会のアフリカ予選では1位と勝ち点1差で惜しくも出場を逃した。
内戦で傷ついた祖国リベリアの為にジョージ・ウェア基金を設立するなどしてリベリアのユニセフ親善大使も務めている(大統領立候補の際、規定により一時的に大使を辞めている[3])。
2008年1月、日本の福島県社会人リーグ3部西のバリエンテ郡山の総監督に就任したが、来日は就任会見時の1度のみで、シーズン開幕後に訪日することはなかった。同クラブは不祥事のため2008年シーズンをもって運営会社が解散。ウェアも事実上退任した。
政治家として[編集]
サッカー選手引退後、アメリカのフロリダ州とニューヨークで妻子と共に暮らしていたが、2005年の大統領選挙に民主変革会議 (CDC)候補として立候補。その際の遊説は、自身がエリート層出身者では無いと貧困層に訴えるポピュリズムそのものだった[2]。第1回目の選挙で最多得票を勝ち取ったものの過半数に満たなかったために、ウェアに次ぐ票を得たエレン・ジョンソン・サーリーフとの決選投票となり、他候補者との連合に成功したサーリーフに最終投票で敗北した[2]。
2009年にアメリカからリベリアに帰国し、CDCのモンセラード郡の上院議員候補になるために政治活動を開始。2011年の大統領選挙で現職のサーリーフに再び挑む意向を発表した。実際にはCDCのウィンストン・タブマンがサーリーフに挑む事なり、タブマン候補は彼を副大統領候補に選んだ。結局はサーリーフが再選を果たしたが、政治家になる決意をさらに固めた。
2014年の上院議員選挙にモンセラード郡から立候補し、12月20日の投開票でエレン・ジョンソン・サーリーフ大統領の息子であるロバート・サーリーフ候補を下し初当選。2017年の大統領選挙に出馬し、10月10日の第1回目投票では得票率39%で1位となり、12月26日の決選投票では61.5%を得票、ジョゼフ・ボーカイ副大統領を下し当選した[4]。2018年1月22日に就任。副大統領は、かつてリベリア内戦に加担し収監中のチャールズ・テーラー元大統領の元妻であるジュエル・テーラーで、欧米諸国からはテーラー元大統領の復権につながるとの懸念も出た[5]。
ウェアはキリスト教プロテスタントの家で生まれているが、彼は1997年にイスラム教に改宗し、名前も「ウスマン(Ousman)」と言うイスラム名で呼ばれ、10年間イスラム教徒としてイスラム教を学んだ。しかし、再びプロテスタンティズム精神を求め、彼が当時在住していたフランスで2007年に「自分はもうイスラム教徒ではない」と語り、イスラム教徒をやめ、元のプロテスタントに戻った。彼はキリスト教徒とイスラム教徒が平和になる事を願っており、彼らは一人だと言う。2017年10月に彼はナイジェリアでナイジェリアの著名なキリスト教伝道師の預言者T・B・ジョシュアの主催の集会に出席した。そこにはリベリアのプリンス・ジョンソン上院議員がおり、一緒に並んでジョシュアと握手を交わしている。なおジョンソン上院議員はリベリア内戦の時、敵対するサミュエル・ドウ大統領を捕らえ殺害したが、その後、ナイジェリアに亡命し、キリスト教に目覚め、牧師となっており、2007年にジョシュアの仲介でジョンソンはドウの残された家族と和解している。2017年の大統領選でジョンソン上院議員はウェア候補を支持しており、T・B・ジョシュア仲介のナイジェリアでのジョンソン上院議員との出会いが彼の2017年の大統領選への立候補に重要な影響を与えたと言われている。
フランス語が流暢に話せサッカー選手としてフランスのリーグに所属し長らくフランスに住んでいた事もある縁から、フランスの市民権も持っている。
3人の息子がおり、長男のジョージ・ウェア・ジュニア(George Weah Junior 1987年8月27日 – )は1995年から父親の様にプロのサッカー選手になる為にスタートしている。2004年にACミランのプリマヴェーラと契約し、2008年にスイスのCSロモントイズと契約した。また以前U-20のアメリカ代表であったが、最終的には父同様にリベリア代表としてプレーしている。
また末子のティモシー・ウェア(2000年2月22日 – )もプロサッカー選手であり、アメリカで生まれたことから年代別代表では兄同様にアメリカ代表でプレーしている。2014年から父の古巣であるパリSGの下部組織に所属していたが、2016年5月13日にプロ契約を結んでいる[6]。
個人成績[編集]
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
1988-89 | モナコ | ディヴィジョン・アン | 23 | 14 | |||||||
1989-90 | 17 | 5 | |||||||||
1990-91 | 29 | 10 | |||||||||
1991-92 | 34 | 18 | |||||||||
1992-93 | パリ-SG | 30 | 14 | ||||||||
1993-94 | 32 | 11 | |||||||||
1994-95 | 34 | 7 | |||||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1995-96 | ミラン | セリエA | 26 | 11 | |||||||
1996-97 | 28 | 13 | |||||||||
1997-98 | 24 | 10 | |||||||||
1998-99 | 26 | 8 | |||||||||
1999-00 | 10 | 4 | |||||||||
イングランド | リーグ戦 | FLカップ | FAカップ | 期間通算 | |||||||
1999-00 | チェルシー | プレミア | 11 | 3 | |||||||
2000-01 | マンチェスター・C | 7 | 1 | ||||||||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
2000-01 | マルセイユ | ディヴィジョン・アン | 19 | 5 | |||||||
UAE | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2001-02 | アル・ジャジーラ | ||||||||||
2002-03 | |||||||||||
通算 | フランス | ディヴィジョン・アン | 218 | 84 | |||||||
イタリア | セリエA | 114 | 46 | ||||||||
イングランド | プレミア | 18 | 4 | ||||||||
UAE | |||||||||||
総通算 |
個人タイトル[編集]
- FIFA最優秀選手賞 :(1995年)
- バロンドール :(1995年)
- オンズドール :(1995年)
- アフリカ年間最優秀選手賞 :(1989、1994、1995年)
- BBCアフリカ年間最優秀サッカー選手賞 :(1995年)
- FIFAフェアプレー賞 :(1996年)
- 20世紀世界最優秀選手 27位(1999年)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 43位:(1999年)
- FIFA100 :(2004年)
- ゴールデンフット賞 (all time legend) :(2005年)
- ^ “ジョージ・ウェア氏の息子がPSGからレンタルへ…セルティック加入か”. サッカーキング (2018年12月26日). 2020年11月10日閲覧。
- ^ a b c スティーヴ・ブルームフィールド『サッカーと独裁者 アフリカ13か国の「紛争地帯」を行く』白水社、2011年、229-231頁。
- ^ George Weah has temporarily stepped aside from his role with UNICEF
- ^ “George Weah declared winner of Liberia vote”. Al Jazeera English. アルジャジーラ. (2017年12月30日). http://www.aljazeera.com/news/2017/12/boakai-concedes-defeat-george-weah-liberia-vote-171229122812783.html 2018年1月4日閲覧。
- ^ “「リベリアの怪人」が大統領選首位で11月の決選へ サッカーの元国際的スター、ジョージ・ウェア氏”. 産経新聞. (2017年10月20日). http://www.sankei.com/world/news/171020/wor1710200028-n1.html 2018年1月23日閲覧。
- ^ “リベリアの怪人ウェアの息子がPSGと2018年まで契約”. Goal.com (2016年5月14日). 2016年5月14日閲覧。
関連項目[編集]
- タレント政治家
タイトル・受賞歴 |
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公職 | ||
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先代: エレン・ジョンソン・サーリーフ |
第25代:2018年 – |
次代: (現職) |
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