神路信号場 – Wikipedia

神路信号場(かみじしんごうじょう)は、北海道中川郡中川町字神路にあった日本国有鉄道宗谷本線の信号場である。

開業当初は一般駅であったが、1977年(昭和52年)5月25日に信号場兼仮乗降場に格下げされ、1985年(昭和60年)3月14日に廃止された。

北海道大学(以下、北大)演習林(現:北大中川研究林)の強い要望もあって木材搬出のために設置された[1]

駅名の由来[編集]

当駅の所在する地域名(字名)より。地域名は、駅対岸(天塩川左岸)の崖(現在の神居山)がアイヌ語で、「カムイルエサニ(kamuy-ru-e-san-i)」(神の・坂路が・そこから・浜に出る・所)と呼ばれていたものを意訳したものである[6][7][8]

相対式2面2線を持ち列車同士の交換可能な地上駅であった。現在の本線は当時の2番線に沿っている。

利用状況[編集]

乗車人員の推移は以下の通り。1日乗降人員については元データを期間日数で割って算出した参考値を括弧書きで示す。

乗車人員推移
乗車人員(人)
年度 年間 1日平均 出典 備考
1922年度(大正11年度) 589 (1.6) [9] 開通初年度。11月8日から営業
1923年度(大正12年度) 3,575 (9.8)
1924年度(大正13年度) 4,155 (11.4)
1925年度(大正14年度) 4,023 (11.0)
1926年度(大正15年度) 3,413 (9.4)
1965年度(昭和40年度) 2,666 (7.3) [10] 同年住民が全戸撤退を決定
1966年度(昭和41年度) 2,110 (5.8)
1967年度(昭和42年度) 558 (1.5) 同年最後の農家が撤退
1968年度(昭和43年度) 492 (1.3)
1969年度(昭和44年度) 306 (0.8)
1970年度(昭和45年度) 328 (0.9)

当駅設置当時の神路地区は当駅の天塩川対岸(左岸)に7戸36人が入植しており、その後北大演習林地を借りて駅側(右岸)に入植する人も現れ、鉄道官舎も建設され、人口が増えたことから1951年(昭和26年)には右岸側へ小学校も設置されている[1][4]

1953年(昭和28年)には開拓計画が立てられ、左岸側に5戸が入植したが、左岸側と右岸側は渡船で結ばれているのみで児童の通学や物資の運搬に不便があり、加えて1955年(昭和30年)前後の冷害・水害の連続により離農も発生する状況にあった[11]。このため、中川村(当時)では対策として当地への架橋を計画し農林省(当時)へ陳情をつづけた。

1962年(昭和37年)10月にようやく農林省開拓予算により、左岸の国道40号と右岸の駅側とを結ぶ吊り橋、神路大橋(125m)が着工され、翌1963年(昭和38年)3月に完成、同年5月20日に開通したが、開通からわずか7ヶ月後の同年12月18日午後11時ごろ、神居山から吹き降ろす突風により落橋した[11][12]

もともと、前年の台風被害で2戸が離農・撤退していた神路地区であったが、この落橋が動機となり、営農が困難になった住民6戸は道と町の離農手当を受け1965年(昭和40年)に撤退を決定し[11]、1967年(昭和42年)に最後の農家が撤退した[1]。小学校も1965年6月末で廃校となった[4]

のちに鉄道官舎も消滅し[1]、1973年(昭和48年)に国鉄北海道総局が発行した『北海道 駅名の起源』で「駅周辺には人家が一軒もないところ[8]」と紹介される状況にあった。

また、1975年(昭和50年)に発行された『中川町史』には当時の様子について以下のように記されている[1]

現在は、官舎もなく駅だけが残り、駅員は音威子府から通勤しています。それは列車の時間帯による待ち合せなどがあるからで、川向いの国道を走る自動車の姿を眺めるとき、わびしさが感じられます。 — 『中川町史』 p.473[1]

近郊駅との駅間距離が長く、交換設備が必要だったため、1977年(昭和52年)5月25日に信号場となった後は通勤時のみの仮乗降場となっていたが、1985年(昭和60年)3月14日に廃止された。2005年(平成17年)5月頃、老朽化のため駅舎本屋を撤去した[4]

その後現在に至るまで、神路地区右岸と左岸を結ぶ橋は再架橋されることは無く、駅廃止後の当駅跡地への到達は困難となっている。

  • 天塩川
  • 神居山
  • 北海道大学北方生物圏フィールド科学センター森林圏ステーション中川研究林
  • 神路大橋橋桁・橋台跡地
  • 中川町立神路小学校跡地
  • 日本通運稚内支店神路派出所跡地
日本国有鉄道
宗谷本線

筬島駅 – 神路信号場 – 佐久駅

関連項目[編集]