宮中三殿 – Wikipedia

宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)は、皇居吹上御苑にある賢所皇霊殿神殿の総称。これら三殿を一括して「賢所(けんしょ)」とも称する[1]

宮中三殿のうち、中央が皇祖天照大御神を祀る賢所(かしこどころ/けんしょ)、その西側が歴代の天皇や皇后、皇族の霊を祀る皇霊殿(こうれいでん)、その東側が天神地祇を祀る神殿(しんでん)。三殿の西方にあるのが中和院の正殿に由来する神嘉殿(しんかでん)で、ここでは11月23日に新嘗祭が行われる。

宮中三殿は、賢所、皇霊殿、神殿の三つの建物の総称で、二重橋の後方に鎮座している。賢所は南向きに建てられており、その西側に皇霊殿、東側に神殿が回廊によって連結されている。賢所は一段高く、三殿の中でも最も大きい。三殿の屋根は、当初は檜皮葺だったが、後に銅板葺に改められている[2]。それぞれ神道の神を祀っており、宮中祭祀(皇室祭祀)の中心となる。

宮中三殿の構内には、附属するいくつかの建造物が配置されている。三殿の西方にあるのが神嘉殿(しんかでん)で、普段は空殿だが、毎年11月30日に新嘗祭が行われ、神嘉殿前庭では、元旦に四方拝が行われる。その他、鎮魂祭や天皇・皇后の装束への着替えが行われる綾綺殿(りょうきでん)、皇太子・皇太子妃の着替えが行われる東宮便殿(とうぐうびんでん)、神楽を奉納する神楽舎(かぐらしゃ)、楽師が雅楽を演奏する奏楽舎(そうがくしゃ)、列席者が待機する左幄舎(ひだりあくしゃ)と右幄舎(みぎあくしゃ)、賢所に正対する賢所正門、新嘉殿に正対する新嘉門などが配されている。

宮中三殿では、皇室祭祀をつかさどるため、国家行政機関たる宮内庁の組織とは別の内廷の組織として、掌典職が置かれ[3]、掌典長の統括の下に、掌典次長・掌典・内掌典などの掌典職員が置かれている。内掌典(一般の神社で巫女に相当する未婚女性)は全員が三殿北側の詰所に住む。毎朝午前8時から、賢所及び皇霊殿では内掌典、神殿では掌典が清酒や神饌などを供える「日供の儀」(にっくのぎ)をそれぞれ行う。続いて、午前8時30分には、宮内庁侍従職の当直侍従が、賢所、皇霊殿、神殿を天皇に代わって拝礼する「毎朝御代拝」(まいちょうごだいはい)を行う。日供の儀及び毎朝御代拝の各儀式は、廃朝(天皇が執務しないこと)や宮中喪が発せられていても、欠かさず行われる。

宮中三殿の祭祀は、明治維新から宮中祭祀の変遷と漸次的集約を経て、教部省が成立した直後の明治5年4月2日(1872年5月8日)に整ったと解されている[4]。このとき鎮座された皇居内の砂拝殿は、翌1873年(明治6年)に皇居西之丸から出火の際に類焼したため、赤坂仮御所へ動座された。現在の宮中三殿の建物は、宮内省一等匠手を務めた木子清敬の設計で、1888年(明治21年)10月に竣工し、翌1889年(明治22年)1月9日に遷座された。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)には、空襲を避けるため皇居内の防空壕である御斎庫(おさいこ)へ動座され(翌1945年(昭和20年)の終戦により戻る)、2004年(平成16年)6月18日には、建物の耐震劣化調査のため数十メートル離れた場所に設置した仮殿(かりどの)へ一時的に動座された(同月27日に戻る)。

八咫鏡(イメージ)実物は非公開

皇祖神の天照大御神を祀る。

御霊代(御神体)として、崇神天皇の命によって創られた神鏡(三種の神器の一つである八咫鏡の複製、実物は伊勢神宮の内宮に奉安)が奉斎されている。また「かしこどころ」と読んで神鏡そのものを指すこともある。八咫鏡は古代より宮中で祭祀されたが、伊勢神宮が創建されるとそこに移され、宮中では別の神鏡を祀り、ここを賢所と称した。賢所は平安時代は温明殿(うんめいでん)、室町時代以後は春興殿にあり、かつては内侍が管理したため、「内侍所(ないしどころ)」とも称された[5]。掌典及び内掌典が御用を奉り、「忌火」(「神聖な火」の意味)を護り続けるとされる。神聖な場所のため穢れを嫌い、「次清」の別などの厳格な規律があるという[6]

古代から続くという宮中祭祀が行われ、現在の上皇后美智子や皇后雅子、皇族の妃らを宮中に迎える結婚の儀もここで行われた。その際、后妃が賢所を退出した際に婚姻成立とみなされる。

歴代天皇および皇族の霊を祀る。

明治維新の際、神仏判然令により宮中でも祭祀改革が行われ、明治2年(1862年)、再興された神祇官(のち神祇省)が附属の神殿を創建し、併せて歴代天皇の霊を神式で祀った。このため、平安時代より宮中で歴代天皇を仏式で祀っていた「黒戸」は廃止され、歴代天皇の位牌(尊牌)や尊像は泉涌寺「霊明殿」に移された[7]

神祇官の神祇省への昇格に伴い、明治4年(1871年)9月に宮中に遷座し、賢所と共に「皇廟」と呼ばれた。明治10年(1877年)には皇妃や皇族の霊も合祀。明治33年(1900年)から皇霊殿と称した。天皇や皇族の霊は、死後1年をもって皇霊殿に合祀される[8]。毎年春分の日には春季の、秋分の日には秋季の皇霊祭が行われる。また、1月7日は昭和天皇祭(先帝祭)、4月3日は神武天皇祭が行われ、式年(一定の年数)にあたる時は、御陵で天皇の親祭が営まれ、皇霊殿では皇太子・皇太子妃拝礼する。

天神地祇を祀る。

明治2年(1862年)、再興された神祇官(のち神祇省)が附属の神殿を創建し、天神地祇および律令制での神祇官の八神殿の八神を祀った。当初は八神殿と称していたが、明治5年(1872年)、神祇省の祭祀は宮中に移され、八神殿も宮中に遷座し、八神と天神地祇を合祀して神殿と改称した。毎年春分の日と秋分の日には春季、秋季の神殿祭が行われる。

参考文献[編集]

  • 皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』KADOKAWA、2019年
  • 久能靖『知られざる皇室ー伝統行事から宮内庁の仕事まで』河出書房新社、2019年
  • 高谷朝子『皇室の祭祀と生きて 内掌典57年の日々』河出書房新社、2017年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]