三根山藩 – Wikipedia

三根山藩址公園(陣屋跡)にある「三根山藩址之碑」(新潟市西蒲区)

三根山藩(みねやまはん)は、江戸時代末の越後国蒲原郡三根山(のちの西蒲原郡巻町嶺岡→峰岡、現在の新潟市西蒲区峰岡)にあった藩。藩主は譜代大名の牧野家。

沿革[編集]

1634年(寛永11年)に牧野駿河守忠成が四男定成に蒲原郡三根山の新墾田6000石を分与し、分家させたのに始まる。その後、領地が1万石に満たないことから大名ではなく旗本寄合席として長らく存続した[1]

与板(後に小諸移封)、三根山の2つの分家を、忠成の一代で諸侯(大名)として召し出されるのは恐れ多いので、三根山は当初から実質11000石の石高がありながら遠慮してこのような仕儀となった、と幕末の三根山藩文書に説明されているが、士分格式の家臣の数から推しても、村高の合計から推測しても、やや誇張の感が否めない。

なお1812年(文化 9年)9月には、旗本で石高6000石、父が「牧野播磨守」である「牧野半右衛門」が定火消役に就任し、1816年(文化13年)当時麻布市兵衛町に居住していたことが、『編年江戸武鑑 文化武鑑』に見られる。

幕末の1863年(文久2年)、時の領主忠泰(ただひろ)は新田分5000石を新たに打ち出し、高直しにより11000石の三根山藩として立藩した。なお当藩は、諸侯となってからは、参勤交代を行わない定府大名となった。藩庁は三根山陣屋に置かれた。また、藩校入徳館を開校した。

三根山藩址公園にある米百俵の碑

戊辰戦争では宗家に近い立場をとるが、新潟・長岡が相次いで陥落すると慶応4年8月には新政府側に恭順し、続く新政府軍の庄内藩征伐に出兵した。明治元年12月に転封命令が出て、明治2年転封先が信濃国伊那と決定するが、嘆願により差し止めとなった。1870年(明治3年)、藩名が丹後の峰山藩と紛らわしいため嶺岡藩(みねおかはん)と改めさせられる。翌1871年に廃藩置県されて嶺岡県となり、同年中に新潟県に併合された。旧藩主家は華族に列し、子爵となる。

なお、宗家の長岡藩は北越戊辰戦争敗戦後に極度の食糧不足に陥ったため、急遽三根山藩が100俵ほどの義援米を送り届けたが、その義援米の扱いをめぐって長岡藩が人材育成を優先したことが、後に戯曲化されて「米百俵」の美談として世に知られるようになった。

三根山藩の機構[編集]

三根山藩主牧野家の門閥は、三河国牛久保以来の譜代家臣である神戸家、倉地家、山本(岡本)家の3家が家老連綿の家柄であり、この3家の家禄は、いずれも200石台前半であった。これに次ぐ家格として槇家、塚田家、小畑家、中村家があった。家老3家と槇家の出自と家祖の功績については越後長岡藩の家臣団に記載がある。

倉地姓の藩士は、三根山藩内に一家しかないが、家老職を同時に2人出したことがある。

三根山藩は、幕末にいわば背伸びをして大名に列したため、越後長岡藩・小諸藩と異なり、表高と裏高にほとんど差がないので、家臣団の数や、その俸禄も多くはない。廃藩置県のときに、士分格式60人・卒分格式124人がいた。

歴代領主・藩主[編集]

牧野家
旗本寄合 6000石 (1634年 – 1863年)
  1. 定成(さだなり)
  2. 忠清(ただきよ) 養子、定成の弟
  3. 忠貴(ただたか)
  4. 忠列(ただつら) 養子、秋月種封の子
  5. 忠知(ただとも)
  6. 忠義(ただよし)
  7. 忠救(ただひら)
  8. 忠衛(ただもり) 養子、松平乗寛の子
  9. 忠直(ただなお) 養子、奥平昌高の子
  10. 忠興(ただおき) 養子、松平乗美の子
譜代 11000石 (1863年 – 1871年)
  1. 忠泰(ただひろ) 養子、五島盛保の子

幕末の領地[編集]

  1. ^ しかし忠成は三根山分知に当たり、いずれ諸侯となれるように、5000石を内高として仕込んでおいたとする。その一方で、士分格式の家臣は60人であり、6000石級の旗本の人数として妥当な数字である。

関連項目[編集]