ブラシカステロール – Wikipedia

ブラシカステロール IUPAC名 (22E)-24β-メチルコレスタ-5,22-ジエン-3β-オール 分子式 C28H46O 分子量 398.66 CAS登録番号 474-67-9 形状 白色固体 融点 150–151 °C(分解) SMILES C12=CC[C@]3([H])[C@@]([H])([C@@]1(C)CC[C@H](O)C2)CC[C@@]4(C)[C@@]3([H])CC[C@@H]4[C@@H](C=C[C@H](C(C)C)C)C ブラシカステロール (brassicasterol) は28個の炭素からなる骨格を持つステロールであり、単細胞の藻類(植物プランクトン)やアブラナ (Brassica)

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アルフォンソ11世 (カスティーリャ王) – Wikipedia

アルフォンソ11世像 アルフォンソ11世(Alfonso XI, 1311年8月13日 – 1350年3月26日[1]/27日)は、カスティーリャ王国の国王(在位:1312年 – 1350年)。カスティーリャ王フェルナンド4世と王妃コンスタンサの唯一の男子。 生後13ヶ月で即位したが、余りにも幼いため5人の王族が後見人グループを形成して政治を行うことになった。メンバーは母コンスタンサ、祖母マリア・デ・モリナ、叔父ペドロ大公(英語版)、大叔父フアン大公(英語版)、そしてフアンの従弟に当たるビリェーナ公フアン・マヌエルが選ばれた。 しかし5人はバラバラに行動してまとまりに欠け、数年で次々とメンバーが死んだこともありカスティーリャは乱れた。まず1313年に母が急死、続いてナスル朝グラナダに介入し支配下の町を攻略していたペドロとフアンが1319年にグラナダの反撃に遭い敗死した。1321年に祖母も亡くなり後見人はフアン・マヌエルしかいなくなってしまった。新たな後見人にペドロの弟フェリペ(英語版)、フアンの同名の息子フアン・エル・トゥエルト(英語版)(隻眼のフアン)が選ばれたが、3人はカスティーリャを分割して対立、内乱で領土は荒廃し農民が外国へ逃亡、人口減少と悪循環に陥った[2]。 こうした中、成長したアルフォンソ11世は1325年に14歳で親政開始し、フアン・マヌエルの娘コンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャと結婚した。コンスタンサは隻眼のフアンと婚約していたが、王家からのアプローチに応じたフアン・マヌエルが破棄、結婚相手をアルフォンソ11世に切り替えた経緯があった。両者を分断させたアルフォンソ11世は翌1326年にフアンを暗殺、1327年にコンスタンサと離婚し[3]、摂政であったフアン・マヌエルを追放した(同年にフェリペも死去)。 フアン・マヌエルはアラゴンと組んでカスティーリャと戦おうと企てるが、1328年、アルフォンソ11世は従妹にあたるポルトガル王アフォンソ4世の娘マリアと結婚、翌1329年に姉レオノールとアラゴン王アルフォンソ4世の結婚でアラゴンと和睦、後ろ盾を失ったフアン・マヌエルとも和解した。そして1331年に戴冠式を挙行した時、王位を請求していたラ・セルダ家も主張を撤回してアルフォンソ11世支持を表明した。こうしてアルフォンソ11世は後見人を排除して王権強化に成功した[4]。 国内を安定させたアルフォンソ11世はレコンキスタに熱心に取り組み、何度もアンダルシアのイスラム教軍を攻めている。アラゴンと和睦した頃から遠征を始めており、1331年にナスル朝を臣従させた。しかしアフリカのマリーン朝はたびたびナスル朝と手を組んでスペインを脅かすため、アルフォンソ11世は諸国から援助してもらいマリーン朝を打倒することを計画した。 1340年8月、マリーン朝スルタン・アブー・アルハサン・アリーがアルヘシラスに上陸、ナスル朝のユースフ1世と共にタリファを包囲した。直ちにアルフォンソ11世は舅のアフォンソ4世が率いるポルトガル軍を含めたカスティーリャ軍を連れてタリファ救援へ向かい、10月30日にサラードの戦い(英語版)でイスラム教軍と交戦した。敵はキリスト教軍の3倍以上あったにも関わらず戦いはキリスト教軍の勝利となり、以後マリーン朝の介入は無くなり衰退の一途を辿った[5]。 サラードの戦いの勝利に勢いづいたアルフォンソ11世はナスル朝の国境へ侵攻、1341年にアルカラ・ラ・レアル、プリエゴなどを落とし、1342年8月からアルヘシラスを包囲した。マリーン朝の救援を撃退し包囲を続け、1344年3月にアルヘシラスを降伏させた。レコンキスタの成功で高まる威信を背景に王国の改革と更なる王権強化に取り組み、曽祖父アルフォンソ10世が編纂した『七部法典』の公布(1348年)、都市の上級役職を占める下級貴族・有力商人と結びつき、彼等の世襲と特権保障を認め都市を間接的に支配するなど、アルフォンソ10世が志していたカスティーリャの法的統合、王権強化を主軸とする改革を実現させた。 1350年、ジブラルタル攻略中に黒死病で陣没した。嫡男のペドロ1世が後を継いだ[6]。 2番目の王妃マリアとの間に2男を儲けた。 フェルナンド(1332年) – 夭逝

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周辺光量 – Wikipedia

周辺光量(しゅうへんこうりょう)は、光学用語である。レンズ中心部の明るさ(中心光量)に対し、レンズの縁辺部の明るさのことをいう。特に写真撮影におけるカメラレンズの特徴として使用され、撮影後の写真画像における縁辺部の明るさにも用いられる。 レンズを通った光が結像面に当たったときには、光軸の中心が最も明るく、中心から離れるに従って暗くなる。これを周辺光量低下、または周辺光量不足、あるいは周辺減光という。 周辺光量の低下には、大きく二つの原因があり、一つは口径食、もう一つは、コサイン4乗則(cosine fourth law)に従うものである(詳細は各項目参照)。前者は絞りを絞ると軽減するが、後者は絞りとは関係しない。後者は画角が広くなるほど影響が大きいが、特に対称型の(超)広角レンズで問題になり、逆望遠型の広角レンズでは軽減される。写真レンズでは、これらの現象や収差による影響が比較的小さく良好な像が得られる円盤をイメージサークルと称し、その径が撮像素子等の撮像範囲の対角線分よりやや大きい程度を目安として設計される(顕微鏡写真や全周魚眼などの例外を除き)。このため、フォーマットが異なる撮影システムの写真レンズの流用はイメージサークルの違いによる問題が起きる(ことがある)。 カメラシステムとしては、レンズフードなどのアクセサリがレンズに合っていない場合にも起き、この場合もっぱら「ケラレ」と呼ぶ。レンズの設計に合わせて専用として設計されたアクセサリであればこれが起きないように注意して作られているが、汎用品などでは撮影者が注意する必要がある。ただし超広角域をカバーする高倍率ズームレンズ(そういった製品は、あまりないが)では対応アクセサリでも注意が必要かもしれない。 関連項目[編集]

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おっ!サン – Wikipedia

おっ!サンは、兵庫県にあるテレビ局・サンテレビジョン(SUN)のマスコットキャラクター。同局のPRコマーシャルに登場している。 局名のサン、リモコンキーIDの「3」をおじさんとかけた。 2005年12月5日、デビュー。 体は太陽の形をしており、メガネを掛け、鼻の下にはちょびヒゲを生やしている。 太陽の「輝き」部分が髪・手・足に変化して登場することもあり[1]、ちょいワルバージョン[2]、阪神タイガースの野球帽を被ったバージョン、野球のバットやグローブを持ったバージョン、くしゃみをするバージョン、マリオネットバージョンなど、無数のバージョンが存在する。 声優は餃子大王の元気ブラザーズあか[3]。 設定プロフィール[編集] 出身は神戸市長田区[4]。 年齢は自称38歳だが、話が合わないのでどうやら50歳代半ば頃らしい[5][6]。 趣味はサンテレビの視聴。 野球は阪神戦以外見ない[7]。 実は大のギャンブル好きで、スロット捌きがすごい。 盲牌が得意な時代があったらしい。 いつかは馬主になりたいと思っている[8]。 携帯メールを打つのは異様に早い。 メガネは学生時代からのもので、毎日手入れは欠かさない。 自分では若いつもりでいるため、「おっさん」と呼ばれるとちょっとヘコむ。 左利き。ごはんをよそうのとお箸を持つのは左手。 おっ!サンは前述の通り、サンテレビのPRCMに使われている。内容はあまりにもシュールなものが多く、一部は携帯サイトやサンテレビボックス席のCMとなっている。現在ホームページ上で閲覧可能なCMの種類は30種類程(30秒、15秒などバージョン違いも含む)。以下、主だった物を紹介する(名称はサンテレビホームページ上より)。 実写[編集]

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ナズナ – Wikipedia

ナズナ(薺、学名:Capsella bursa-pastoris)は、アブラナ科ナズナ属の越年草。別名、ペンペングサ(ぺんぺん草)、シャミセングサ(三味線草)。田畑や荒れ地、道端など至るところに生え、春から夏にかけて白い花と三角形の果実をつける。春の七草の一つで、若葉は食用にもなる。ムギ栽培の伝来と共に日本に渡来した史前帰化植物と考えられている[3]。 和名ナズナの由来は諸説あり、早春に開花して夏になると枯れることから「夏無き菜」、つまり夏無(なつな)から変化したという説、撫でたいほど小さく可愛い花(菜)の意味から、「撫で菜(なでな)」から転訛したという説、あるいは朝鮮古語のナジから「ナジ菜」となり変化したなどの説がある。 ペンペングサ(ぺんぺん草)やシャミセングサという別名がよく知られ、ビンボウグサなどの呼び名もある。「ペンペン」は三味線を弾く擬音語で、花の下に付いている果実の形が、三味線の撥(バチ)によく似ていることから名付けられている。また、シャミセングサの由来も同様に、果実が三味線のバチの形に似ることによる。 英名の Shepherd’s purse は「羊飼いの財布」の意味で、学名の種小名の語義も同じである。中国植物名(漢名)では、薺(せい)、薺菜(せいさい)と書かれる。 花言葉は、「すべてを君に捧げる」である。 北半球に広く分布する。日本では北海道から九州まで分布する。草原、野原、土手、荒れ地や、各地の郊外の道端、畑のすみなどに自生する。 越年生の草本(二年草)。草丈は10 – 50センチメートル (cm) で、春の終わりごろには50 cm近くに生長する。冬越しの根生葉は地面に接して放射状に広がる。これをロゼットといい、早春の弱い日光を少しでも多く受け取ろうとする性質と考えられている。株元にある葉の長さは10 cmで、ダイコンの葉のような切れ込みがあり羽状に裂けて、裂片は尖り、先は大きめになる[15]。茎につく葉は小さめで、無柄で基部は茎を抱き、切れ込みは無い。茎の上部につく葉は楕円形で、先は尖る。 花期は春から夏(3 – 7月)ころで、越冬するので背の低いうちから咲き始める。花茎を伸ばして分枝する茎先に総状花序を出して、有柄で十字形に4枚の白い花弁を持つ直径3ミリメートル (mm) ほどの小さな花を多数、花穂に付ける。下から上へと次々に花を咲かせる無限花序で、下の方で花が終わって種子が形成される間も、先端部では次々とつぼみを形成して開花していく。

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隠し剣 鬼の爪 – Wikipedia

この項目では、2004年公開の日本映画について説明しています。藤沢周平の短編時代小説「隠し剣鬼ノ爪」については「隠し剣」をご覧ください。 『隠し剣 鬼の爪』(かくしけん おにのつめ)は、藤沢周平作の短編時代小説を原作とする日本映画。本項では、山田洋次監督・永瀬正敏主演で2004年10月30日に公開された映画の記述を中心とする。 国内の映画賞を独占し、米国のアカデミー外国語映画賞にもノミネートされた『たそがれ清兵衛』(2002年公開)に続き、山田洋次が藤沢周平の小説を映画化した本格派時代劇の第2弾である。 藤沢の人気剣豪小説でもある『隠し剣』シリーズの「隠し剣鬼ノ爪」「邪剣竜尾返し」(『隠し剣孤影抄』収録)と男女の淡い恋愛を描いた人情劇「雪明かり」(『時雨のあと』収録)の3つの短編を基に、東北地方の小さな藩で暮らす秘伝の剣術を習得した武士が、親友の謀反で起こった藩内の騒動に巻き込まれながらも、かつて自らに仕えていた百姓の娘との身分違いの恋に心を揺らされる模様を描いている。 キャッチコピーは、幕末。愛に生きる侍がいた。 ストーリー[編集] 幕末。東北の小藩である海坂藩の平侍であった片桐宗蔵は、母と妹の志乃、女中のきえと、貧しくも笑顔の絶えない日々を送っていた。やがて母が亡くなり、志乃ときえは嫁入りしていった。心中は寂しいが武士としての筋目を守り、日々をすごす宗蔵。海坂にも近代化の波は押し寄せつつあり、藩では英国式の教練が取り入れられ始めていた。 ある雪の日、宗蔵は三年ぶりにきえと再会する。大きな油問屋の伊勢屋に嫁して幸せに暮らしているとばかり思っていたきえの青白くやつれた横顔に心を傷めた宗蔵。志乃の口からきえが嫁ぎ先で酷い扱いを受けて寝込んでいることを知り、宗蔵は武士の面目や世間体を忘れ去って走り出していた。伊勢屋を訪れた宗蔵は、陽のあたらない板の間に寝かされ、やつれ果てたきえを見ると、自分で背負い家に連れ帰る。 回復したきえと共に暮らし始め、宗蔵は心の安らぎを覚える。だが、世間の目は二人が同じ家に暮らすことを許さなかった。宗蔵はきえを愛している自分と、彼女の人生を捻じ曲げている自身の狡さに悩む。きえも身分の前に伝えられない気持ちを抱え、気付かない振りをして目をそらしてきた。そんな時、藩に大事件が起きた。宗蔵と同じく藩の剣術指南役・戸田寛斎の門下生だった狭間弥市郎が謀反を企んだ罪で囚われ、さらに山奥の牢を破って逃げ出したのだ。宗蔵は、逃亡した弥市郎を斬るよう、家老の堀に命じられる。そうすれば、狭間と親しかったお前の疑いも晴れると。 かつて狭間は門下生の中でも随一の腕前であった。しかしある時を境に宗蔵に抜かれ、それを宗蔵が戸田より授かった秘剣『鬼の爪』によるものだという不満を抱いていた。狭間の妻からの命乞いを拒んだ宗蔵は、不条理さを感じつつも藩命に従い、狭間との真剣勝負に挑む。戦いの中、宗蔵は「『鬼の爪』とは、狭間の思うような技ではない」と語る。そして宗蔵は師より新たに伝授されていたもう一つの秘剣『龍尾返し』を用い、『鬼の爪』を振るうことなく狭間を倒す。深手を負った狭間は『龍尾返し』を「卑怯な騙し技」と罵りながら、失意の中で鉄砲隊に撃たれて死んだ。 しかし戦いのあと、家老の堀が狭間の妻を騙し、辱め、彼女を死に追いやった。その所業を知るにおよび、ついに『鬼の爪』が振るわれる。堀は城内の廊下で進み出て控える宗蔵を見咎め、何の用かと問いただす。宗蔵が不意に視線を逸らし、堀もそれにつられたかと思うと、そのまま何事もなく宗蔵は立ち去る。しかしそれを呆然と見送った後、堀は倒れた。大慌てで医師が呼ばれるが、既に堀は事切れていた。遺体を検分した医師も、あまりに奇妙な遺体の状況に匙を投げ、ふと呟く。「これは人間ではなく、何か別のモノに与えられた傷ではないか」。実は『鬼の爪』とは、胸についた心臓に至るほんの一点の僅かな傷跡を除けば一切の証拠を残さず一撃・一瞬にして相手を屠る小柄を用いた暗殺剣であり、およそ武士が決闘の場で振るうに相応しいものではないどころか、口にするのも憚られる裏の技だったのだ。 自分に誠実に生きる意味が深くわかった宗蔵の足は、きえのもとへ向かっていた。武士を棄てて蝦夷に向かう宗蔵は、きえに一緒に来て欲しいと素直な言葉で語る。陽光の下で笑いあう2人。 キャスト[編集] スタッフ[編集] この節の加筆が望まれています。 第29回報知映画賞 主演女優賞(松たか子) 第28回日本アカデミー賞

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日本私法学会 – Wikipedia

この記事の主題はウィキペディアにおける組織の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。基準に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “日本私法学会” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年3月) 日本私法学会(にほんしほうがっかい、英: Japan Association of Private Law)は、民法・商法・民事訴訟法など私法に関心を持つ研究者・実務家などで組織された学会である。 会員数は約2000名。毎年、私法学会大会において、研究発表会、シンポジウム、ワークショップが開催されている。大会は関西、関東の大学で毎年秋に交互に開催されるが、特別大会が催されることもある。また、学会報告やシンポジウムの内容をまとめたものが毎年、雑誌『私法』として発行されている。 初代の我妻栄にはじまり、鈴木竹雄、川島武宜、矢沢惇、加藤一郎、星野英一、竹内昭夫、米倉明、平井宜雄、落合誠一、能見善久、神田秀樹ら民商法の学者が、歴代の理事長を務めている。 理事[編集] (2012年10月現在) 中田裕康

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宇治橋 (伊勢市) – Wikipedia

宇治橋(うじばし)は、三重県伊勢市にある皇大神宮(内宮)の参道口にある、五十鈴川にかかる橋[1]。別名「御裳濯橋(みもすそばし)」。日本百名橋の一つ。 宇治橋は伊勢の神宮の内宮の参道口にある長さ101.8m、幅8.42mの木造の和橋(わきょう、日本風の橋)で、橋の両側に神明鳥居がある。五十鈴川に架けられたこの橋は内宮参拝時の記念撮影の名所になっており、内宮のシンボルとされる。神宮の定義では宇治橋を渡った先は神域ではなく神苑であるが、崇敬者・参拝者は通常神域と扱うことから、一般に「俗界と聖界の境にある橋」とされる[1]。 明治以降は神宮式年遷宮にあわせて架け替えられていた。太平洋戦争での日本の敗戦直後に昭和天皇の指示で第59回神宮式年遷宮は無期延期とされ、のちに4年遅れの1953年(昭和28年)に行なわれることに決まった。しかし宇治橋だけでも架け替えようと声が強く、宇治橋だけが当初の予定通り1949年(昭和24年)に架け替えられ、以降は神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになった。4年前に架け替えるようになったので社殿の造営と期間がずれ、遷宮に必要な大工の数が減らせるようになるとともに、遷宮に対する参拝客の興味を長く引き止めることができるようになり、遷宮の資金面で役立っている。 宇治橋の鳥居[編集] 橋の両側の鳥居の高さは7.44m、直径は最も太い部分で約70cm、総重量は約5tで、外側(西)の鳥居は、外宮正殿の棟持柱の古材から、内側(東)は内宮正殿の棟持柱の古材から作られる[2]。式年遷宮に合わせて20年ごとに建て替えられ、第62回式年遷宮では2014年9月29日に起工、同年10月3日に完成式を挙行した[3]。完成式では外側の鳥居に笠木をはめ込んで鳥居が完成し[3]、お祓いが行われた後、神職ら約100人がくぐり始めを行った[2]。初めて鳥居が設置された時期は不明であるが、室町時代後期の宇治橋を描いた絵には既に鳥居も描かれている[3]。 明治以降、これらの鳥居が建て替えられると外の鳥居は三重県桑名市桑名宿の七里の渡しで、内の鳥居は鈴鹿峠の麓にある三重県亀山市関町関宿の関の東の追分で、それぞれ神宮遙拝用の鳥居に20年間使用されている[2][4]。その後も日本各地の神社で鳥居や部材として再利用される[3]。 宇治橋は五十鈴川に対してほぼ直角に架けられており、西岸から東岸を見た場合は約30度南を向いている。宇治橋の東側には島路山があり、日の出は島路山からとなる。このため日の出が南よりからとなる冬至を中心とする約2か月の間は宇治橋の鳥居の間からの日の出となるが、永らく誰の気にも止められなかった。鳥居の正面から朝日が昇るのは冬至の前後数日に限られる[5]。1980年代にこれに気付いた参拝客の情報により、神宮の広報誌の『瑞垣』(みずがき)に冬至前後は鳥居の間から日が昇ると紹介されてから有名となり、冬至前の数日から1月初旬の間は鳥居からの日の出を見る人で賑わうようになった。 2014年12月22日の冬至祭では600人が参拝し、7時30分頃に宇治橋から昇る朝日を拝んだ[5]。 饗土橋姫神社[編集] 宇治橋西側(宇治今在家町)に内宮所管社の饗土橋姫神社がある。祭神は宇治橋鎮守神(うじばしのまもりのかみ)で、宇治橋を守護する神社とされる[6][7]。社殿は内宮に準じ内削ぎの千木と、4本で偶数の鰹木を持つ板葺屋根の神明造で東面し、宇治橋を向いている。 中世に宇治橋が架けられた時に宇治橋の守護神として祀られたとする解釈が一般的であるが、それ以前は船着き場の守護神であったとする説がある。 宇治橋渡始式[編集] 新しい宇治橋が完成すると橋の無事を祈り、宇治橋を最初に通行する式典の宇治橋渡始式(うじばしわたりはじめしき)が行われる。当初は長寿の老人が最初に渡っていたが、1823年(文政6年)の両国橋の渡初式に3代揃った夫婦が最初に渡ったことにならい、以後は3代揃った夫婦が最初に渡るようになった。 宇治橋は橋脚杭のみがケヤキで、他はヒノキで作られている。橋板は近世の記録では365枚の数字があるが、1969年(昭和44年)の架け替えでは476枚とされた。長さは101.8mで、幅は1949年(昭和24年)に架け替えられた時は7.88mであったが、参拝者の増加に対応するべく1969年(昭和44年)の架け替えでは8.42mに拡幅され、橋桁が5本から7本へ増やされた。 下部構造[編集] 1969年(昭和44年)の架け替えの際にコンクリートの基礎が初めて採用された。景観に配慮して基礎表面は石畳で覆われている。 橋脚は橋脚杭3本、水貫4本、筋交貫4本と梁1本から構成されており、梁の上に載せた7本の台持木に橋桁が渡されている。橋脚13組が橋体を支える14径間連続木桁橋の構造である。また、梁の両木口には小屋根と梁鼻隠が取付られ、風雨による劣化を防いでいる。 上部構造[編集] 欄干は男柱の上に取付られた16基の擬宝珠で装飾される。西詰北側の擬宝珠には、橋の安全を願う萬度麻(まんどぬさ)という御札が納められている[1]。この擬宝珠は仏教的な名称を嫌う神宮内部では葱花型金物と呼ばれている。造替にあたり他の部材が全て新調されても、擬宝珠だけは磨き上げられるのみで、擦り切れるまで繰り返し使用される。 近年は宇治橋の橋板の厚さを15cmにしているが、年間400万人前後の参拝客が通行するため橋板の摩耗が激しく、20年間では約6cm摩耗する。靴ではなく草履での通行が大部分であった明治以前はこれほど摩耗しなかったという。

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三根山藩 – Wikipedia

三根山藩址公園(陣屋跡)にある「三根山藩址之碑」(新潟市西蒲区) 三根山藩(みねやまはん)は、江戸時代末の越後国蒲原郡三根山(のちの西蒲原郡巻町嶺岡→峰岡、現在の新潟市西蒲区峰岡)にあった藩。藩主は譜代大名の牧野家。 沿革[編集] 1634年(寛永11年)に牧野駿河守忠成が四男定成に蒲原郡三根山の新墾田6000石を分与し、分家させたのに始まる。その後、領地が1万石に満たないことから大名ではなく旗本寄合席として長らく存続した[1]。 与板(後に小諸移封)、三根山の2つの分家を、忠成の一代で諸侯(大名)として召し出されるのは恐れ多いので、三根山は当初から実質11000石の石高がありながら遠慮してこのような仕儀となった、と幕末の三根山藩文書に説明されているが、士分格式の家臣の数から推しても、村高の合計から推測しても、やや誇張の感が否めない。 なお1812年(文化 9年)9月には、旗本で石高6000石、父が「牧野播磨守」である「牧野半右衛門」が定火消役に就任し、1816年(文化13年)当時麻布市兵衛町に居住していたことが、『編年江戸武鑑 文化武鑑』に見られる。 幕末の1863年(文久2年)、時の領主忠泰(ただひろ)は新田分5000石を新たに打ち出し、高直しにより11000石の三根山藩として立藩した。なお当藩は、諸侯となってからは、参勤交代を行わない定府大名となった。藩庁は三根山陣屋に置かれた。また、藩校入徳館を開校した。 三根山藩址公園にある米百俵の碑 戊辰戦争では宗家に近い立場をとるが、新潟・長岡が相次いで陥落すると慶応4年8月には新政府側に恭順し、続く新政府軍の庄内藩征伐に出兵した。明治元年12月に転封命令が出て、明治2年転封先が信濃国伊那と決定するが、嘆願により差し止めとなった。1870年(明治3年)、藩名が丹後の峰山藩と紛らわしいため嶺岡藩(みねおかはん)と改めさせられる。翌1871年に廃藩置県されて嶺岡県となり、同年中に新潟県に併合された。旧藩主家は華族に列し、子爵となる。 なお、宗家の長岡藩は北越戊辰戦争敗戦後に極度の食糧不足に陥ったため、急遽三根山藩が100俵ほどの義援米を送り届けたが、その義援米の扱いをめぐって長岡藩が人材育成を優先したことが、後に戯曲化されて「米百俵」の美談として世に知られるようになった。 三根山藩の機構[編集] 三根山藩主牧野家の門閥は、三河国牛久保以来の譜代家臣である神戸家、倉地家、山本(岡本)家の3家が家老連綿の家柄であり、この3家の家禄は、いずれも200石台前半であった。これに次ぐ家格として槇家、塚田家、小畑家、中村家があった。家老3家と槇家の出自と家祖の功績については越後長岡藩の家臣団に記載がある。 倉地姓の藩士は、三根山藩内に一家しかないが、家老職を同時に2人出したことがある。 三根山藩は、幕末にいわば背伸びをして大名に列したため、越後長岡藩・小諸藩と異なり、表高と裏高にほとんど差がないので、家臣団の数や、その俸禄も多くはない。廃藩置県のときに、士分格式60人・卒分格式124人がいた。 歴代領主・藩主[編集] 牧野家 旗本寄合 6000石 (1634年

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鈴木清 (実業家) – Wikipedia

鈴木 清(すずき きよし 嘉永元年4月29日(1848年5月31日) – 1915年(大正4年)3月21日)は、日本の実業家。北海道開拓を事業とした赤心社の初代社長であり、また、神戸区会議員、赤十字神戸支部幹事、神戸商業会議所議員なども務めた。 元摂津国三田藩士。家は代々九鬼家の重臣であったが、廃藩置県を転機に神戸に移って事業に手を出すようになる。ここでアメリカン・ボードの宣教師で神学博士J・D・デイヴィスに出会ったことからキリスト教徒となり、1874年(明治7年)、日本初の会衆派教会である摂津第一公会(現・日本基督教団神戸教会)の創立に参画。 1878年(明治11年)ごろには日本初となる牛肉缶詰の製造を行なって事業も大いに伸びていたが、その後北海道開拓を志し、1880年(明治13年)、移民による浦河開拓を目的とするキリスト教結社である赤心社を興した。 赤心社による開拓は、蝗害などのため当初困難を極めたが、副社長の沢茂吉が現地に渡って指導を続けたことなどもあり、1886年(明治19年)ごろからは軌道に乗るようになった。特に、牧畜事業を始めたことは、その後日高一円が馬産地として発展することの基礎となっている。なお、鈴木や沢ら幹部は敬虔なクリスチャンであったため、赤心社の事業が軌道に乗った後も、給料など幹部の物質的報酬は最低限に抑えられていた。 関連項目[編集] 新島襄(学校の共同名義人となったことがある) 福澤諭吉(福沢の知人の財産整理を依頼された) 大澤善助(赤心社の取締役であり、鈴木の長女が大沢の長男に嫁いだ) 参考文献[編集] 外部リンク[編集]

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