岡崎市 – Wikipedia

岡崎市中心部(康生地区) 岡崎市(おかざきし)は、愛知県のほぼ中央に位置する市。中核市、中枢中核都市に指定されている。 徳川家康の生誕地や八丁味噌の産地として知られる[1]。 研究教育施設や史跡が多く、市の規模に比して文教都市の色が濃い。中世の鎌倉街道や江戸時代の東海道宿場町および城下町として栄えた。廃藩置県の際に一時存在した額田県の県庁所在地であり、岡崎城がその庁舎となっていた[2]。 足利氏族である細川氏、仁木氏、戸崎氏のほか、江戸幕府を開いた徳川家康の生誕地でもある。伝統地場産業には八丁味噌、花火、石製品などが知られる。 中心部は旧額田郡で、一部に旧碧海郡の地域も含まれる。 現在は名古屋の衛星都市であり[3]、昼間人口比率は93.9%まで減少する[4]。 市名の発音[編集] 共通語では「おかざき」と発音されるが、当市民をはじめとした地元民は、「川崎」と同じように「おかざき」と平板に発音する。人名(姓)の場合は「おかざき」と発音して区別する。岡崎が舞台となったNHK連続テレビ小説『純情きらり』や大河ドラマ『徳川家康』の中でも、放映開始当初は「おかざき」と発音していたが、途中から平板な発音に改められた。2016年にはNHKにおいて平板な発音が「地元放送局アクセント」として正式に許容されるようになった[5]。 当市は愛知県の中央部にあり、中央高地に連なる美濃三河高原と岡崎平野の接点に位置する。中京圏の中心都市名古屋市から約35キロメートルの距離にあり、市内を東西に国道1号、南北に国道248号及び国道473号が通っている[6][7]。また東名高速道路岡崎インターチェンジや、新東名高速道路岡崎東インターチェンジといった広域交通網の拠点のほか、主要地方道等の愛知県道も多くあり、市内各所で渋滞が発生している。鉄道は市内を東西に抜けるJR東海道線及び名鉄名古屋本線と、岡崎駅から豊田市方面へ結び、名鉄三河線や、愛知高速交通東部丘陵線、JR中央線と接続する愛知環状鉄道線の計3路線、16駅が設置されている。名鉄の東岡崎駅周辺が市内中心部であり、JRの岡崎駅は中心部から離れた場所に位置している。 面積は387.24平方キロメートルで豊田市、新城市に次ぎ愛知県内3位。太平洋側気候で、特に平野部は温暖で、冬でも雪が降ることはほとんどない[7][8]。また、市内に活断層や推定活断層は見つかっていない[9]。 中央アルプスの大川入山に発する矢作川が市内を南北に流れ、東西に流れる乙川など、市内に20本程流れる河川の全てが矢作川の支流である。市内にはこの豊富な水を利用した大規模工場や水田地帯が多くある。多数の河川により形成された沖積平野上に市の中心市街があり、市の東部は美濃三河高原を構成する山地となっている。最高峰は標高789mの本宮山であるが、平野部にも丘陵が点在しており、市内の標高差が700メートル以上ある変化に富んだ地形となっている。市域の約60%が森林であり、その豊かな自然環境から、自然公園法に基づき南部の桑谷山周辺が三河湾国定公園に、東部の本宮山及び巴山周辺が本宮山県立自然公園にそれぞれ指定されている[10]。また、市の中心部には岡崎城があり、城を中心とした岡崎公園は桜の名所として有名である。 気候[編集] 1981年から2010年の30年の平年値で[11]、年平均気温は15.2℃、平均日最高気温は32.3℃、平均日最低気温は-0.8℃、年間降水量は1452mmである[11]。 岡崎市の気象観測極値[12] 要素 観測値 観測年月日 最高気温 39.3℃

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播磨新宮駅 – Wikipedia

播磨新宮駅1・2・3番ホーム 播磨新宮駅(はりましんぐうえき)は、兵庫県たつの市新宮町新宮にある西日本旅客鉄道(JR西日本)姫新線の駅である[1]。手延素麺揖保乃糸の産地、たつの市の新宮町域の中心駅でもある。過去には姫新線を経由していた急行「みささ」・「みまさか」などの優等列車が停車していた。姫新線のICOCA利用可能エリアは姫路駅から当駅までであり、佐用・津山方面は現時点(2020年10月)では利用できない。 単式・島式2面3線のホームを持つ橋上駅[1]。各ホームと2階の改札口とは階段および3基のエレベーターで連絡する形になっている。2階の改札外には南北方向の自由通路があり[1]、自由通路につながる階段にはスロープが併設されていて、自転車も通行可能である。駅舎の外壁にはSPring-8をイメージしたステンレスによる円形の飾り帯が取り付けられている[1]。姫路駅から当駅までは、全駅に交換設備がある。 ホーム[編集] のりば 路線 方向 行先 1・3 K 姫新線 下り 佐用方面 1・2・3 上り 姫路方面 1番のりば(下り本線)は姫路方からのみ入線可能で、出発は両方向に対応。2番のりば(上り本線)は両方向からの入線が可能だが、出発は姫路方面のみ対応。3番のりば(上下副本線)は両方向からの入線・出発とも対応している。当駅で折り返す列車が多いため、発着番線は不規則である。 播磨新宮駅1番ホーム 播磨新宮駅2・3番ホーム 2・3番ホーム上には電光掲示板が設置してある。

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方言学 – Wikipedia

方言学(ほうげんがく、英語:dialectology)とは、方言についての言語学。[1][2][3] 研究の対象とするのは方言であるが、方言と言語との区別は必ずしも明確でない。例えば、上海語は中国語の一方言であるが、[4][5][6]北京語を母体とする普通話との差は、別々の言語とされるスペイン語とポルトガル語以上に大きい。 つまり、純粋に言語構造としての見方と、社会・国家の下での言語の見方が必ずしも一致していないわけである。 一般に方言学が関心を寄せるのは、言語の地域変種または社会変種としての特性、その成因、分布、通時的変化などであり、一般言語学とはある程度違う視点をもつ。[7] 言語地理学では、方言の地理的分布を元に言語・方言の歴史を追究する。[8][9]また、比較言語学を方言に応用して、方言間の比較により祖語を再構しようとする学問を比較方言学とも言う。[10] 隣接した分野[編集] 方言学は民族学、歴史学、社会学、民俗学、地理学など周辺分野との学際的な研究が多い。その一つには柳田國男が提唱した「方言周圏論」等がある。 関連項目[編集] ^ Chambers, J. K., & Trudgill, P. (1998). Dialectology. Cambridge University Press.

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荘原駅 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “荘原駅” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年6月) 荘原駅(しょうばらえき)は、島根県出雲市斐川町学頭にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陰本線の駅である。 元は単式・島式1面の2面3線構造であったが山陰線高速化事業に伴い、島式側の外線1線は撤去され、相対式2面2線の構造となるとともに駅舎側の1番線を上下本線、反対側の2番線を上下副本線とした一線スルー方式になっている。島式ホームとは跨線橋で連絡しているが、前述の理由から当駅に発着する停車列車の大半は、上下線とも跨線橋を渡らずに済む駅舎側に停車する。 松江駅管理の無人駅ではあるが、駅舎内に自動券売機が設置されている。 のりば[編集] 通過列車及び行違いを行わない停車列車は上下線とも1番のりばを通る。 反対方向からの通過列車と行違いを行う停車列車は、上下線とも2番のりばに停車する。 停車列車同士の行違いの場合は、米子方面行(上り)が1番のりば、出雲市方面行(下り)が2番のりばに入る。 利用状況[編集] 2019年(令和元年)度の1日平均乗車人員は319人である[統計 1]。2004年度は338人、1994年度は358人、1984年度は325人だった。 近年の1日平均乗車人員は以下の通りである。

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カラオケ – Wikipedia

カラオケとは、歌唱またはメロディパート(主旋律)を担う楽器を演奏する際に、事前に制作された伴奏を再生し合唱・合奏や演奏する行為をいう。対語として生演奏を生オケと言う。また、事前に制作された伴奏の録音もカラオケと呼ぶ。1970年代以降、娯楽用の演奏装置そのものやカラオケボックスなどの施設、それを使って歌う行為そのものを「カラオケ」と呼ぶ機会も増えている。 通常、楽曲の伴奏部分だけを「事前に記録」[注釈 1]している記録媒体(音楽テープやディスク等)を機械で再生して演奏する。現場では開始時に機械を操作するだけで後は自動的に行われる。 この形式は日本で生まれたもので、カラオケが娯楽として普及するにつれ、「カラオケ」を使用して歌を歌うための装置、さらにはその装置を使って歌う行為や、カラオケボックスなど歌うための場所を提供している店舗などを「カラオケ」と略して指すようにもなった。カラオケは、歌って楽しみストレスを発散させたりするため娯楽に分類され、レジャー白書で統計を取る一項目ともなった。娯楽向けのカラオケは純粋に伴奏だけではなく、歌いやすくするためのボーカル用メロディが収録されている。また、歌唱のための娯楽用カラオケとは別に、楽器練習用に特定パートだけを除いたカラオケも教材として普及している。 カラオケの発祥[編集] カラオケのカラは「空」、オケは「オーケストラ」の略で、楽団・楽隊による生演奏ではなく、レコードやテープで代用することを指し、本来は放送業界で使われていた用語であった。一説にはNHK交響楽団員らの雑談から出た言葉という。録音機材が発達する前は放送は基本的に生放送で行われていたが、次第に録音素材が用いられるようになり、費用がかかるオーケストラを準備させずとも、あらかじめ録音した「カラオケ」に歌手の唄を重ねることが技術的に可能になると、番組制作経費の削減目的で普及した。カラオケという言葉が普及する以前は「空演奏」と表現することが多かった。現在でもこの意味での「カラオケ」は放送業界用語として使われている。 カラオケ・空演奏は、元々は歌を歌う際に本来居るべきオーケストラがいない、という意味なので、カラオケ用の音源自体はマイナスワンと言われていたこともあった(曲から、1パートのみ削減されていることから)。[1] 1970年以前には、日本ではすでにハードウェアとしてはマイク入力つきの8トラック磁気テープ式小型ジュークボックスが、また、ソフトウェアとしては伴奏用ミュージックテープが販売され、これらを使って歌を歌わせる店が出現していた[2]。初期の8トラック式小型ジュークボックス装置としては、1967年に発売された根岸重一による国際商品のミュージックボックスや、1968年に発売された浜崎厳によるミニジューク等がある[3][4]。 バンドマン出身の井上大佑は、カラオケ関連サービスと専用装置を1971年に発明したと主張している。井上は、8トラックテープ再生機にあらかじめ用意された調やテンポから選択して再生・歌唱できるテープを添付し「8 Juke(エイトジューク)」と名づけてリース販売し、人気を博した。初期にはコイン式の有料再生装置で、テープ1本当り4曲、10本セットの計40曲で、料金は5分で100円でスナック等に設置された。2010年秋、井上の著書『カラオケを創(つく)った男』の著作権が2万口に分割、高額で権利を売り付ける業者が表れていることが判明し問題となった[5]。 8トラックテープ、コンパクトカセット、レーザーディスク、VHD、ビデオCD、DVDなどを経て、1990年代以降のブロードバンド環境の発達後は、日本では通信カラオケが主流となっている。 当初は音声入力にエコーを掛ける程度の付加機能だったが、その後はキー変更やテンポ調整などに対応し歌いやすくしたものが主流になり、さらに採点や音声変換など、遊びの要素も含めた多機能化が進んでいる。選曲もリモコン式から、バーコード入力、タッチパネル式端末と発達した。また歌詞の表示も、当初は歌声喫茶と同様に「歌本」や歌詞カードを見ながら歌っていたが、レーザーディスク普及後はモニターに歌詞が字幕スーパーの形で表示され、歌うべき部分の色を変えて歌い手をサポートする仕組みが一般化している。 日本国外におけるカラオケ[編集] この節の加筆が望まれています。 欧米においては多くの人が飲食するパブやバーで提供されるほうが多く、日本のように個室を用いたカラオケボックス形式は少ない。なおイギリスでは、ロンドン市内を中心に展開している高級カラオケボックス「ラッキー・ヴォイス」があるが、このような例は少数に限られる[要出典]。 2008年に、イギリス政府が2500人以上の成人を対象に行った「最も重要と思いつつも最も不快に感じる電子機器」の調査では、カラオケが22%を獲得し、携帯電話などを抑えて1位となった。イギリスでは、日本のように防音施設が整った個室型のカラオケボックスが、まだあまり広まっておらず、カラオケを設置しているパブで、音痴の人や酔っぱらいの歌声が“騒音”被害を招いているとの理由から[6]。 一方、東アジアや東南アジアでは、「KTV」などの呼び名でカラオケボックスが普及している。 世界各国での言語表記[編集] 日本語の「カラオケ」をローマ字表記した「KARAOKE」を基本とした各国語の表記・発音で呼ばれている。 英語では「karaoke[注釈

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装幀 – Wikipedia

装幀 (そうてい、装丁)とは、一般的には本を綴じて表紙などをつける作業を指す。 広義には、カバー、表紙、見返し、扉、帯、外箱のある本は箱のデザイン、材料の選択を含めた、造本の一連の工程またはその意匠を意味する。 また、装幀を担当する専門家のことを装幀家、装丁家と呼ぶ。本文のデザインなどを含めた図書設計を行う専門家のことを、図書設計家と括る場合もある。 漢字表記について[編集] 「そうてい」「装幀」は、正しくは装(よそお)い訂(さだ)める意味の「装訂」である[1]。書画の表具を意味する「幀」(読み:トウ)[2]が好まれ、装訂の略用表記「装丁」とともに定着している。「装釘」は職人間の同音による誤用である[1]。 日本において、明治までは、造本作業は単に「製本」と呼ばれた。明治末年頃からの出版文化の発展とともに、装い釘(てい)じるという意味の「装釘」が使われ始めた[3]。「装釘」は「装い釘うつ」を意味する熟語として、中国古代より存在した[4]。1920年代後半からは、釘との連想を避けて「装幀」と表記することが多くなった。1946年(昭和21年)に発表された当用漢字表には幀・釘ともに入っていなかったため、1956年(昭和31年)の国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」では、装幀・装釘には「装丁」が置き換えられることとされたが、装幀や装釘も一般に用いられている。 “そうてい”逸話[編集] 大正から昭和初期に、民族学、民俗学や考古学の名著を多数世に送り出した岡書院店主の岡茂雄は、壊れない本造りにこだわり、「装釘」の表記を好んで用いた。ついには「装釘同好会」の創設に参加。機関誌『書物と装釘』(1930年刊)が刊行された。岡はでき上がった本を床に叩きつけ、堅牢に仕上がっているかを試したという[5]。 岩波書店の創業者の岩波茂雄も、社長室で、でき上がったばかりの本を床に叩きつけ、試したという話が伝わっている[4]。 装幀とブックデザイン[編集] 「装幀」と「ブックデザイン」という言葉は、同じ意味で使われることも、そうでない場合もある。 たとえば、書籍そのもので、 と分けて表記されている場合もある。このような場合には、「ブックデザイン」はカバーを除いた部分、すなわち、書籍本体のデザインのみを意味する。 ブック・デザイナーの桂川潤によれば[6]、 *装丁:たいていは「本のジャケット、表紙、本扉、帯」といった外まわりのデザイン(+装丁資材の指定) ブック・デザイン:これら外まわりのデザインに加え、判型、版面、見出しや本文の書体、本文用紙の指定など編集的要素を含めた「本のトータル・デザイン」という語感が加わる とのことである。 「13歳のハローワーク公式サイト」[7]には、以下のような記述がある。 ブックデザインには、表紙やブックカバーなど本の外観をデザインする装丁と、本文までを全てデザインする造本がある。ブックデザイナーには両方手がける人もいれば、装丁のみ手がける人もおり、装丁を専門とする人を装丁家とも言う。

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河原駅 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “河原駅” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年8月) 河原駅(かわはらえき)は、鳥取県八頭郡八頭町国中字萩原にある西日本旅客鉄道(JR西日本)因美線の駅である。 旧河原町(現・鳥取市)との境界附近にある。 1919年(大正8年)12月20日 – 因美軽便線(現在の因美線)鳥取 – 用瀬間開業時に設置[1]。 1922年(大正11年)9月2日 – 軽便線制度廃止により、因美軽便線が因美線に改称され、当駅もその所属となる。 1928年(昭和3年)3月15日

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中鉄バス – Wikipedia

「中国鉄道」はかつて中国鉄道株式会社と称した岡山県の企業について説明しているこちらの項目へ転送されています。 ラオス中国鉄道とも訳される、ラオスの鉄道事業者については「中国ラオス鉄道」をご覧ください。 中国鉄道省や中国鉄道部とも略される、中華人民共和国の鉄道を監督する官庁(廃止済み)については「中華人民共和国鉄道部」をご覧ください。 CRと略される、かつて中国鉄路総公司と称した中華人民共和国の国有企業については「中国国家鉄路集団」をご覧ください。 中華人民共和国における鉄道全般については「中華人民共和国の鉄道」をご覧ください。 中鉄バス株式会社Chutetsu Bus Co.,Ltd 種類 株式会社 略称 中鉄 本社所在地 日本〒700-0821岡山県岡山市北区中山下二丁目8番55号 本店所在地 〒700-0821岡山県岡山市北区中山下二丁目8番50号 設立 1896年(明治29年)4月30日(中国鉄道株式会社) 業種 陸運業

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のと鉄道 – Wikipedia

のと鉄道株式会社(のとてつどう)は、国鉄再建法により第3次特定地方交通線に選定された能登線を引き受けるために石川県などが出資し、第三セクターとして設立された鉄道事業者である。現在は、七尾線のみを運営している。ロゴマークは平仮名の「のと」を組み合わせたもの。 石川県が旧国鉄能登線廃止に際して鉄道存続に意欲を見せ、運輸省(当時)に廃止対象路線の早期指定を愛知県・高知県と共同で陳情したいきさつを持つ。能登線の廃止の決定を受けて路線の引き受け会社としてのと鉄道株式会社が設立され、能登線の全線を継承して運営に当たった。転換当初は運賃を若干値上げしたものの、運行本数を増加して乗客・収入ともに増加させ、第三セクター鉄道の成功例と言われたこともあった。 1991年に地元の悲願であったJR七尾線の和倉温泉までの直流電化の見返りとして、同線のうち電化されなかった和倉温泉 – 輪島間の営業を西日本旅客鉄道(JR西日本)から引き受ける。しかし能登半島の道路網整備が進んだことや過疎化による沿線人口の減少を受け乗客数は減少の一途をたどっていった。経営改善のため、経営コンサルタントの助言を受けながら2001年には輪島線とも呼ばれていた七尾線の穴水 – 輪島間を、2005年には能登線の穴水 – 蛸島間全線を廃止し、最盛期には100kmを超えた営業路線も現在では三分の一にまでになっている。乗客数の減少により列車本数は削減され、厳しい経営が続いている。なお、七尾線七尾 – 穴水間を存続させた理由の一つに、2014年度の北陸新幹線開業時に並行在来線の経営分離を控えており[3]、石川県に鉄道運営の組織やノウハウを維持しておく必要があったためとされる。 穴水 – 輪島間廃線翌年の2003年、のと鉄道七尾線では急行列車や能登中島折り返し列車も含め上下合わせて10数本が減便され、普通列車のみ1日上下計29本となった。2005年に新型車両が導入された際には、上下各2本が増便された。2015年3月現在、普通列車上下計34本を定期運行している。2015年からは観光列車「のと里山里海号」を運行しており、「のと里山里海号」の運行形態によっては、普通列車が減便となる。 イベントなどで新型車両NT200形を用いた体験運転を穴水駅構内で行っている。NT200形導入後は沿線の小学校・保育所の児童による絵画や田鶴浜野鳥公園で撮影された野鳥の写真、能登線の車両や駅の写真などを積極的に車内に掲示している。 2009年5月から2011年度末まで、えちぜん鉄道などで採用されている車内で接客業務を行うアテンダントが乗務していた(地元の女性2人を採用)[4]。 1987年(昭和62年)4月30日 – 会社設立。 1988年(昭和63年)3月25日

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ヨハン・ヨーゼフ・フックス – Wikipedia

ヨハン・ヨーゼフ・フックス ヨハン・ヨーゼフ・フックス(Johann Joseph Fux, 1660年 – 1741年2月13日)は、オーストリア[1]のバロック音楽の作曲家、オルガンおよびチェンバロ奏者[2]。 現在のシュタイアーマルク州ヒルテンフェルトの農家の家系で1660年頃に生まれた。若い頃のことはほとんど知られていない。1680年にはグラーツ大学の学生であったことが判明している[3]。 1681年から1695年までインゴルシュタットの大学で法学を学ぶ傍ら、聖モーリツ教会のオルガニストとして奉職。Juliana Claraと結婚した1696年にウイーンのショッテン教会(英語版)(「スコットランド教会」の意味だがスコットランド国教会ではなく、当時ドイツ語で「スコットランド人 (Schotten[4])」と呼ばれていたアイルランド人に由来するローマ・カトリック教会である。12世紀にレーゲンスブルクから招かれたアイルランド人司祭によって建てられたベネディクト派修道院「ショッテン修道院(英語版)」[5]に付属する。)のオルガニストに就任、1701年まで務める。この頃に結婚したと推定される。1698年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世によって宮廷音楽家に任命される[2]。オーストリアは1683年の第二次ウィーン包囲から続く大トルコ戦争を遂行中で宮廷の財政に余裕がなく、高給取りのイタリア人の代わりにドイツ人のフックスを雇ったものと考えられる。1700年に宮廷楽長アントニオ・ドラーギ死去。楽長位が空位のままマルカントニオ・ジアーニ(英語版、イタリア語版)(ツィアーニとも表記される)がヴェネツィアから招かれ宮廷副楽長に就任[6]。レオポルト1世はドラーギの長年の忠誠と貢献を讃えるために楽長位を空位としたものと見られる。この頃からフックスもオペラの作曲を担うようになる。 1705年にウィーンのシュテファン大聖堂の第二楽長に抜擢される[2]。皇帝レオポルト1世崩御。1711年には皇帝ヨーゼフ1世も天然痘により崩御。前任者のジアーニの楽長就任に伴い、皇帝カール6世によって宮廷副楽長に任命される。正式な就任は1713年であった。1713年に聖シュテファン大聖堂の第一楽長に就任。宮廷楽長となる1715年まで務める。1715年に楽長ジアーニ死去、宮廷作曲家アントニオ・カルダーラ[7]が「宮廷楽長又は福楽長の地位を求める上申書」をカール6世に提出する。カルダーラはスペイン継承戦争さなかの1708年にスペイン国王位の継承を目指していたカール6世(当時はカール親王大公)に仕えカール6世の婚礼の祝宴のためのオペラを作曲した経歴があり、カール6世の音楽家としては先任であること、自身がジアーニと同じヴェネツィア出身であり、宮廷にとって重要な政治宣伝の場となるヴェネツィアでのオペラ公演の際に優位であること(これはレオポルト1世がジアーニを招いた理由でもある)等を主張したと考えられるが、カール6世はフックスを、すぐさま宮廷楽長に就任させた[2](カルダーラは1716年に副楽長になるが、カール6世はフックスを上回る俸給を与えることでカルダーラの面子を保った[8])以後フックスは終生この地位に在り続ける。 1723年に祝祭オペラ『コスタンツァとフォルテッツァ』(「竪国と不抜」または「節操と力」、Costanza e Fortezza )を作曲[9]。この曲はカール6世のボヘミア王戴冠の式典のため作曲され、莫大な費用をかけてプラハ城で演奏された。この時の上演は極めて豪華で、ウィーン以外の音楽家たち、例えばタルティーニやクヴァンツ、ゼレンカら優れた音楽家がオーケストラのメンバーに加わっており、また皇帝カール自身もチェンバロの演奏をした。この時フックスは痛風のため歩行が困難だったため、カール6世はフックスを籠に乗せてプラハまで送迎したと伝えられる。1725年には最もよく知られた著書『グラドゥス・アド・パルナッスム』(Fux 1725)を発表した。ラテン語で書かれたこの対位法の教程書はJ.S.バッハの蔵書にもあり、モーツァルトやベートーヴェンもこれで勉強したと伝えられる。教程のアイデアはジローラモ・ディルータとほぼ同一であったが、フックス独自のルールも付加されており、絶大な影響力を19世紀のフランスで得ることになる。1734年頃に妻Juliana Claraが死亡、その後の作品は宗教的な色彩を帯びるようになった。 1741年2月13日、皇帝カール6世崩御の翌年、ウィーンで死亡した。 フックスは死ぬまで宮廷楽長を務めたが、フックスに対する皇帝の信頼は厚く、前述の対位法の教程書の出版費用はカール6世自らが負担した。また、フックスの元には副楽長のアントニオ・カルダーラ、宮廷詩人アポストロ・ゼーノら、優れた才能が多く在り、オペラや音楽劇が華やかに催され、バロック音楽の最後の花を咲かせた。

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