飯沼金太郎 – Wikipedia

飯沼 金太郎(いいぬま きんたろう、1897年(明治30年)7月22日 – 1964年(昭和39年)6月10日)は、日本の航空黎明期のパイロット。「亜細亜航空学校」を創立した。

千葉県印旛郡佐倉町(現在の佐倉市)中尾余町に生まれる。

1915年(大正4年)に千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を卒業後、工兵中尉の澤田秀の書生を務める。

1917年(大正6年)12月、帝国飛行協会の第3期飛行機操縦練習生となる。1918年(大正7年)5月10日、東京奠都50年祝賀飛行に参加した。 同年11月16日には帝国飛行協会研究生に進級する。

1919年(大正8年)9月から翌年4月にかけ、群馬県尾島飛行場に出張し、中島知久平の知遇を得る。1920年(大正9年)4月21日、東京・大阪間無着陸周回飛行に参加するも、丹沢に墜落する。

1929年(昭和4年)年11月、東京府豊多摩郡杉並町馬橋(現・東京都杉並区)に、飯沼金太郎商店を開業した。 1932年(昭和7年)1月頃には、事業を拡大して、亜細亜航空機研究所を開設する。 さらに1933年(昭和8年)4月21日、亜細亜航空学校及び亜細亜航空機関学校を創設した。航空学校は拡張を続けたが、1939年(昭和14年)10月10日に国策により廃止となり、1940年(昭和15年)5月6日に帝国飛行協会に寄附の形で引き継ぎがれた。この間、金太郎は1940年3月30日に「民間航空功労者」として表彰を受けた。

1964年(昭和39年)6月10日、国立がんセンターで死去。享年68(満66歳没)。墓所は妙経寺。

亜細亜航空学校について[編集]

1933年に創設された亜細亜航空学校には、1939年の廃止まで以下のようなトピックがあった。

1935年12月には東京市板橋区石神井関町に、航空機関学校の新校舎が竣工する。 さらに1936年(昭和11年)7月、中島飛行機水上試験場内に、航空学校水上部を開設した。1938年(昭和13年)4月、航空学校は第5号埋立地から第7号埋立地に移転した。

参考文献[編集]

  • 『日本民間航空史話』財団法人日本航空協会
  • 平木國夫『飛行家をめざした女性たち』新人物往来社
  • 渡部一英『巨人中島知久平』鳳文書林
  • 『日本航空史・明治大正編』財団法人日本航空協会
  • 佐倉市史編さん委員会『佐倉市史 巻4』佐倉市
  • 練馬区『練馬区史』練馬区
  • 『航空時代』第7巻4号、航空時代社
  • 前川正男『中島飛行機物語』光人社
  • 平木國夫『日本飛行機物語・首都圏編』冬樹社
  • 『富士重工業30年史』30年社史編纂委員会・社史編簿室
  • 中川良一・水谷惣太郎『中島飛行機エンジン史』酣燈社
  • 中村光男『生きている航空日本史外伝(上巻)日本のルネッサンス』酣燈社
  • 中村光男『生きている航空日本史外伝(下巻)日本の航空ミレニアム』酣燈社
  • 山本夏彦『戦前という時代』文藝春秋
  • 水嶋英治『航空博物館とは何か?』星林社
  • 小暮達夫「空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校」AIRFORUM『航空と文化』
  • 小暮達夫「ひとすじのヒコーキ雲 ―飯沼金太郎の生涯-」『さくらおぐるま』佐倉市教育委員会