レホボス・バスター – Wikipedia

レホボス・バスター(アフリカーンス語: Rehoboth Basters)は、ナミビアにおける民族。略称は「バスター」。

アフリカーナーやドイツを主とするヨーロッパからの移民である白人男性と、先住民であるコイサン人や18世紀頃にケープ植民地を経由してナミビアへ移住した奴隷であるマレー人女性の間に生まれた混血人種である。19世紀後半以降に、同国中部のレホボスとその周辺にコミュニティを形成する様になった。自国や南アフリカ共和国のアフリカーナーやカラードとは、言語や文化面において、深い歴史的関係を有している。

また、北ケープ州に居住する南アフリカにおける同様の混血人種も、自ら「バスター」を自称している。

「バスター」という呼称は、「ろくでなし」「落胤」を意味するオランダ語の”bastaard”という単語にに由来している。 一部の人々はこの呼び名を蔑称と捉えているものの、バスター達自身は「誇り高き名前」として再解釈して、自身の祖先と歴史を語り、否定的な意味合いにも関わらず、同称をナミビアにおける文化の一部として扱う事を主張している。[2]

1999年に第6代部族長として選出されたジョン・マクナブは、同国の憲法において、公的な地位は付与されていないものの、代表なき国家民族機構などにおける、民族代表としての公務を担う役割を果たしている。

レホボスにおける部族長協議会は、1990年の独立に伴い成立した新政府の下では、地域協議会に置き換えられる事となった。

現在のバスターの正確な人口は不明とされているが、約35,000〜40,000人と推測されている。 独立後のナミビアにおいては、同国の人口の半分を占めるオヴァンボ人英語版が、政財界を牛耳る様になって以来、バスターの文化とアイデンティティの存続が疑問視され始めている。バスターの政治家や活動家は、オヴァンボ人による政策を自らのコミュニティに対して差別的だと主張し続けている。[3]

起源[編集]

バスターは、主に白人社会に同化した混血人種の事である。 この呼称は、経済的および文化的グループを指し、白人を除くケープ植民地における住民の中では、「現地に精通した白人系住民」として最上位の地位を保持する事となった。バスターの一部は、白人の雇用主と非白人の使用人達の間に立つ中間管理職としての役割を担った。また、その多くは雇用主である白人男性の非嫡出子として生まれたにも関わらず、家族同然の扱いを受けるケースが多かった。

バスターの社会には、農場主としての地位を盤石なものにするなど、ビジネスでの成功によって財を成した混血ではないコイコイ人と自由黒人も含まれていた。近似した背景を持つ民族としては、オランダ語を話し、ヨーロッパ式の生活様式を実践したカラードとコイコイ人を指すオーラム人英語版がいるが、一部のバスターが“オーラム”と呼ばれる事もあった。

18世紀初頭、バスターは植民地に農場を所有することが多かったが、白人の入植者が増えるにつれ、次第に土地の所有権をめぐる競争と人種差別の圧力が強まり、政府と白人の商売敵によって抑圧される様になった。土地を手放した一部の人間は、カラードと同等の使用人になる道を選んだが、白人に屈する事を拒んだ者達は、周辺の土地へ移住し、開拓する様になった。1750年頃から、植民地の北西端にあるKamiesbergeは、農場主であるバスター達の主要な居住地となり、その一部は多くの使用人や顧客を抱える事に成功した。

1780年頃以降、同地における白人からの弾圧が激化した事に伴い、多くのバスターの世帯が内陸部の未開拓地へ移住する事を選んだ。彼らはオレンジ川中部の盆地に定住する事となり[4]、後にロンドン伝道協会英語版の宣教師から“グリクア人英語版”と改名する様に提案される事となった。
 

ナミビア中部開拓[編集]

1868年に、バスターはケープ植民地を離れ、北部の内陸部の土地を開拓する意向を発表し、翌1869年に最初の30世帯が同地を去った。彼等は現在のナミビア中部のナミブ砂漠とカラハリ砂漠の間にある高原にあたるレホボス英語版に定住し、牧畜によって生計を立てる様になった。その後は、1871年から1907年までドイツ礼賢会から派遣された宣教師であるヨハン・クリスチャン・フリードリヒ・ハイデマンに仕える事となった。[4]

レホボスにおけるバスターの人口は、1872年には333名にまで達した。[4]その後も、ケープ植民地に残っていた70世帯のうち、最終的には約60世帯がそれに追従する形でレホボスへ移住し、1876年までにその人口は800名までに増加した。これに伴い、「レホボス自由共和国」の建国を宣言するとともに、現在ではバスターの民族旗とされている、当時のドイツ国旗をモチーフとした国旗をデザインした。また、独自の憲法(アフリカーンス語: Vaderlike Wette)を制定・採用し、法としての効力が失われた21世紀の現在でも、バスターにとっての行動規範の核として受け継がれている。[5]

1870年代に、レホボスのバスターは一貫して近隣のナマ人とヘレロによる大規模な窃盗団から度々襲撃を受け、家畜を強奪され続けた。1880年に、オーラム人の一部がヘレロに対して蜂起した事を期に、生存の為にバスターは彼等と同盟を結び、損害を被りながらも1884年頃まで抵抗を続けた。

1880年代になると、レホボスのバスター社会には、ハイデマンの手引きによって、レホボス以外に居住していた一部のバスター達が合流する様になった。

ドイツ統治時代[編集]

ドイツによる併合の過程で、バスターの部族長であるヘルマナス・ファン・ヴィック英語版は、1884年10月11日に同地における原住民としては初めてドイツ帝国との間に、外交をはじめとする行政権におけるバスターの権限が大幅に削減される代償に、ドイツ人とバスターの共存を保証する内容の保護友好条約に署名した。[6]

1893年に、ドイツはバスターに対して独自の憲法の適用を認める居留地を設置し、以降もバスターの代表による領域の拡大を求める交渉が続けられた。ドイツ人の居留地は、バスターの統治区域よりも面積が広く、同区域内においてはドイツの植民地法が適用されていた。また、その土地の大部分は、ドイツ人入植者が所有する農場として開発された。[4]

1895年には、バスターの兵役義務に関する条約が批准された事に伴い、バスターによる軽歩兵部隊が設置され、ドイツ帝国軍と共に、先住民による反乱の鎮圧にあたった。特に、1904年~1907年にかけてのヘレロ戦争英語版では、先住民であるヘレロとナマ人に対する大規模な虐殺に加担している。[7]

ドイツ側の国勢調査では、レホボスにおけるバスターの人口は、1912年に3,000人にまで増加している事と、彼等が兼ね備えている高い移動性を指摘している。[4]

レホボスとドイツは、第一次世界大戦勃発後の1914年まで、20年以上も緊密な関係を保っていた。ドイツの植民地防衛隊英語版は、障碍の無いバスターの男性全員に兵役義務を課そうとしたが、この事はバスター社会から反発を買う結果を招いた。[8]

植民地防衛隊は、イギリスと同盟を結んでいる南アフリカ連邦防衛軍英語版には、殆ど勝ち目が無いと見込んでおり、バスターも双方に対して中立を維持しようと試みる一方で、日和見主義的なスタンスによって、ただでさえ縮小された自治権が完全に失われる、という最悪の事態が起きる可能性とも葛藤する事となった。

白人同士の戦争に、同胞の若者達を出征させたくないと考えていたバスター協議会は、テオドール・ザイツ英語版総督と、バスター兵は後方支援にのみ従事させるという合意に達したと捉えていた。協議会は、バスター兵達が通常の兵士と見なされる事を危惧し、彼等にドイツ軍の軍服を着用する事を認めなかった。だが、協議会の抗議にも関わらず、バスター兵達には自身等の居留地から遠く離れた場所での任務が割り当てられる事となった。[8]

1915年2月に、とある収容所で南アフリカ人捕虜の監視にバスター兵が割り当てられた際は、捕虜の内50名に看守兵と親類関係にあるカラードの人間がいた事から、親族同士を看守と捕虜の立場に置くという措置に対して、バスター兵から抗議の声が挙がった。看守兵の一部が捕虜の脱獄を手助けする事態にまで発展し、ドイツ側はバスター兵に割り当てる弾薬の数を制限する懲罰措置を取った。[8]

レホボス・バスターの第2代部族長となったコーネリアス・ファン・ヴィックは、1915年4月1日にウォルビスベイで南アフリカのルイス・ボータ首相と密会し、南アフリカがドイツ領南西アフリカを併合した場合、バスターの領土と権利が認められる事を保証する様に働きかけた。ボータもファン・ヴィックに対し、これ以上バスター兵を戦闘に参加させない様に忠告した。[8]

南アフリカの勝利により、ドイツ軍の将校達はバスター協議会に、捕虜とバスター警備隊を北に移動させる事を助言した。会合において、ドイツ側はバスターに対して決断をするまでの期限として、3日の猶予を与えた。協議会は、警備隊を北部へ退避させる事は、南アフリカがバスター警備隊を完全な敵対勢力と見なし、危険に晒される事態を招いてしまう事を危惧した。これにより、バスターは協議会・兵側ともにドイツ側の提案を拒否する決断を下した。1915年4月18日夜に、300名のバスター兵達は、2台のウォーワゴンに乗り込んでドイツ軍から集団脱走し、レホボスへ遁走する計画を立てた。しかし、計画はドイツ軍の知るところとなり、ドイツ側はバスター兵達を武装解除させた。その過程で、非武装のバスター1名が殺害され、大慌てとなった協議会側は、問題の解決をはかるべくドイツ側への接触を試みたが、レホボスのバスター社会は激しい怒りに包まれる事となった。[8]

混乱の最中、バスターとナマ人の警察官はレホボスの居留地内でドイツ軍将校の武装解除を試み、1人に重傷を負わせ、もう1人を殺害した。また、ナマ人警官が率いる武装集団は、ドイツ人住民への無差別殺人を実行した。[8]

1915年4月22日に、ドイツ軍は一連のバスター側の行動は保護条約に違反する敵対的なものと見なす事を書面で通知した。ザイツ総督は、レホボスを攻撃する事を意図して、バスターとの保護条約を破棄した。ファン・ヴィックはその旨をボータ首相に知らせ、ボータはバスターをレホボスから遁走させる様助言した。[8]バスターは家畜の大群を追いながら荷馬車で移動し、山地へ逃げ込んだ。時を同じくして、バスターに対するドイツの攻撃が、同地域の周辺で開始される事となった。

ドイツ軍の基地で働いていた14歳のバスターの女児は、酒に酔った将校達がバスターへの攻撃計画を話している事を偶然耳にして、その内容を部族長であるファン・ヴィックに報告した。これにより、女性や子供を含めた約700人のバスターが、ドイツ軍の攻撃に備えるべく、レホボスの南東80kmにある山岳地帯であるサムクビスへ撤退した。その最中にファン・ヴィックは、農場に潜伏させていた自身の子供とその家族達が、ドイツ軍に虐殺されるという悲劇に見舞われている。[8]

1915年5月8日、ドイツ軍はサムクビスへの攻撃を開始した。そこでは、要塞が700〜800人のバスターによって守られていました。ドイツ軍は、2門の大砲と3丁のマキシム機関銃により攻勢をかけたにも関わらず、7~800名のバスター兵によって守られた要塞を攻略する事が出来ず、日没をもって撤退を余儀なくされた。[8]ただ、バスター側も弾薬の殆どを使い果たし、翌日の敗北は目に見えている状態だった。

だがその翌朝、ドイツ軍にはレホボスへ進攻した南アフリカ軍に応戦する為に、サムクビスから撤退する様上層部から命令が下され
、奇跡的にレホボスのバスター社会は壊滅を免れる事が出来た。[9]この5月9日は、バスターの歴史と不屈の精神を後世に伝えるべく、現在でも毎年祝われ続けている。

バスターがレホボスへ帰還した際、一部の農場においてドイツ人がバスターによって殺害される事態が起きた。ドイツ軍は、民間人の保護の為にいくつかの部隊を配置したが、南アフリカ軍が接近すると5月23日に撤退した。バスター達は、ドイツ人の家畜を奪い、農場を略奪し、宣教師の家まで襲撃した。一連の惨劇は、戦後も長期間に亘って両者の間に深い禍根を残す事となった。[8]

南アフリカ委任統治領[編集]

ドイツは南アフリカに降伏し、1915年7月9日にコラブで和平を締結した。南アフリカは、正式に南西アフリカの統治を引き継ぐと同時に、戒厳令を敷いた。また、治安の安定化を図るべく、部族長であるファン・ヴィックに対し、ドイツ人とのあらゆる対立を回避する様努める事と、家畜の損失やその他の問題をウィントフックの当局に報告する事を助言したほか、南アフリカ軍の警備隊を定期的にレホボスへ派遣する事も通達した。[8]

第一次世界大戦の終結後、バスターは南西アフリカ一帯をバストランドの様なイギリスの保護国にする事を希望したが、南アフリカ側に拒否されただけでなく、嘗てドイツ統治下では認められていた自身達のあらゆる権利も剥奪される事となった。[7]

一部のバスター達は、「レホボス自由共和国」の正当性と、共和国は国際連盟によって承認された事、更に国際法は、第一次世界大戦後に国際連盟が新国家の組織における原則として使用した民族自決の願望を支持した事からも、共和国は主権国家としての地位が認められる権利がある事なども主張した。1952年にバスターは、この趣旨の請願書を国際連合へ提出したが、国連からの返答は無かった。

この最中も、一部のバスターの指導者達は、新政党を旗揚げし、南アフリカによる統治を終わらせるべく、国連による介入を請願するなどの運動を展開した。[10]また、かねてよりアパルトヘイトに反発していたオヴァンボ人や他の先住民族も、植民地主義の終焉を望んで連帯した。

南アフリカ議会は、1976年に「レホボス自治法」を可決し、バスターは正式に一つの部族であると認定され、一定の自治権を与えられる事になった。これに伴いバスターは、南アフリカ本国のホームランドと同等の扱いで、レホボスを中心に13,860平方キロメートル程の面積を定められた「先住民の黒人ではない民族のホームランド」たるバスターランド英語版に定住する様になった。

1981年の国勢調査では、南西アフリカにおけるバスターの人口は、35,000人弱にまで達した事が明記された。[11]

ナミビア独立以降[編集]

ナミビア独立直前の1989年7月29日に、バスターランドは解体された。 ナミビアの新しい与党で、国内におけるマジョリティであるオヴァンボ人を中心に構成された南西アフリカ人民機構(SWAPO)は、1990年に政権を掌握すると、バスターの土地を収用し、共同体として保持していた財産を没収した。更にバスターが住んでいた土地を分割する新たな選挙制度を導入した結果、バスターはそれまでの所有地に他民族が侵入し始め、生活基盤である牧畜業にも支障が出るなど、マイノリティであるが故に益々不利な状況に置かれるようになったなってしまった。多くのバスターは、SWAPOが国家を代表して事を認める一方で、オヴァンボランド英語版における自身らの政治的基盤への利益を、極端に誘導しすぎているのでは、と疑問を感じた。[11]

部族長協議会は、新政府によって没収され、バスター以外に売却されたと主張するレホボスにおける土地に対する補償を求めた。協議会には当事者適格が与えられたが、1995年の高等裁判所における判決では、レホボスの土地は、レホボス・バスター社会によって、当時のナミビア政府に自発的に引き渡された、という判決を下した。[12][7]

1998年に、ハンス・ディーアハールド英語版部族長は、国連の自由権規約人権委員会に対して、ナミビアにおけるバスターへの権利侵害を告発し、正式に苦情を申し立てた。2000年に同委員会は、ナミビア政府がアフリカーンス語の公用語から除外した事は、自由権規約第27条に違反する、バスターに対する言語差別であると認定した。[13]

1999年に第6代部族長として選出されたジョン・マクナブは、嘗てバスターが所持していた土地を、政府が無断で国有地にしたうえに、二束三文で他民族に売却した事と、同胞の農民達が法外な額で買い戻す事を余儀なくされた事を、度々国内外に主張し続けている。[12]

2006年に、サムクビスの日の祝典準備が進んでいた際、著名なソーシャルワーカーであるHettie Rose-Juniusは、組織委員会にナマ人の代表を祝祭へ招待する様打診したものの、委員長は先の反独闘争において、バスターとナマ人は共闘関係あった訳ではないとして、提案を拒否した。[14]

2007年2月に、バスター協議会は代表なき国家民族機構(UNPO)に加入する事を表明した。2012年11月以降、UNPOはナミビア政府に対して、同国における他の民族と同様に、バスターに対する「伝統的権威」を認める様に勧告している。[12]

  1. ^ UNPO: Rehoboth Basters”. UNPO (2015年2月11日). 2019年3月29日閲覧。
  2. ^ Britz, Rudolf; Lang, Hartmut; Limpricht, Corenlia (1999). A Concise History of the Rehoboth Basters until 1990. Rehoboth: Klaus Hess Publisher. pp. 12. ISBN 9991674713 
  3. ^ Nunuhe, Margreth (2013年2月18日). “Rehoboth community in danger of extinction”. New Era (Namibia). http://www.newera.com.na/articles/50491/-Rehoboth-community-in-danger-of-extinction- 
  4. ^ a b c d e Hartmut Lang (1998). “The Population Development of the Rehoboth Basters”. Anthropos 93 (4./6): 381–391. JSTOR 40464838. 
  5. ^ Shiremo, Shampapi (2011年5月26日). “Hermanus van Wyk: The ‘Biblical Moses’ of the Rehoboth Baster Community”. New Era (Namibia). http://www.newera.com.na/article.php?articleid=38914 
  6. ^ Oermann, Nils Ole (1999). Mission, Church and State Relations in South West Africa Under German Rule (1884-1915). Missionsgeschichtliches Archiv. 5. Franz Steiner Verlag. pp. 58–60. ISBN 9783515075787. https://books.google.com/books?id=UdeXKuIFMQkC&q=%22Josef+Frederiks%22&pg=PA58 
  7. ^ a b c Goldbeck, Manni (April 2015). The Centenary of Sam Khubis: A pledge made between rugged rocks. Padlangs Publications. 8. Informante reprint, 26 April 2015 
  8. ^ a b c d e f g h i j k GJJ.OOSTHUIZEN, “THE MILITARY ROLE OF THE REHOBOTH BASTERS DURING THE SOUTH AFRICAN INVASION OF GERMAN SOUTH WEST AFRICA, 1914-1915”, Scientia Militaria, South African Journal of Military Studies, Vol 28, Nr 1, 1998; accessed 10 April 2016
  9. ^
    Sam Khubis”. rehobothbasters.com. 2012年4月25日閲覧。
  10. ^ Allister Sparks, “Namibia’s ‘Bastards’ Insist on That Term”, The Washington Post, 18 January 1983, accessed 10 April 2016
  11. ^ a b JOSEPH LELYVELD, Special to the New York Times, “MIXED-RACE NAMIBIAN GROUP SEEKS POLITICAL ALLIES”, New York Times, 30 July 1981, accessed 9 April 2016
  12. ^ a b c Magreth Nunuhe, “Namibia: ‘Rehoboth Community in Danger of Extinction’ “, 18 February 2013, Rehoboth Basters website, first published in New Era (Namibia), accessed 9 April 2016
  13. ^ HRC views
  14. ^ Frederick Philander WINDHOEK, ” ‘Sam Khubis Day Is for Basters’”, New Era (Namibia), 6 May 2006, accessed 10 April 2016