一条忠香 – Wikipedia

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一条忠香

時代 江戸時代後期
生誕 文化9年2月13日(1812年3月25日)
死没 文久3年11月7日(1863年12月17日)
別名 号:後大勝寺
官位 従一位、左大臣
主君 仁孝天皇→孝明天皇
氏族 一条家
父母 父:一条忠良、母:家女房
養父:一条実通
兄弟 実通、忠香、久我建通、秀子、知君、通子、崇子など
正室:一条順子
側室:新畑民子
実良、明子、美子
養子:美賀子輝子
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一条 忠香(いちじょう ただよし/ただか)は、江戸時代後期の公卿。関白・一条忠良の四男[1]。官位は従一位・左大臣。一条家22代当主。法号は後大勝寺。

14代将軍継嗣問題では一橋派を支持。公武合体派で、尊攘派の公家と対立した。余技で絵を能くしたほか、鹿背山焼で好みの煎茶器を作らせた。明治天皇の皇后・昭憲皇太后の実父にあたる。

文化9年(1812年)2月13日誕生。文政2年(1819年)8月11日童昇殿。同年8月28日元服禁色昇殿。鷹司政通が加冠を務めた。同日、正五位下。同年9月1日、左近衛権少将叙任。同年9月15日、従四位下叙位。同年12月10日、右近衛権中将叙任。文政3年(1820年)正月19日、従三位。文政4年(1821年)12月19日、正三位。

文政5年(1822年)8月16日、権中納言。文政11年(1828年)2月4日、権大納言。同年4月3日、従二位。天保9年(1838年)10月17日、正二位。弘化5年(1848年)3月21日、右近衛大将兼左馬寮御監叙任。嘉永2年(1849年)正月14日、左近衛大将兼右馬寮御監叙任。安政5年(1858年)3月21日内大臣に叙任。安政6年(1859年)3月27日、左近衛大将及び左馬寮御監を辞任。同日、左大臣となり、随身兵杖を許された。万延元年(1860年)4月5日、従一位となる。

文久元年(1861年)、左大臣となる。文久2年(1862年)に新設の国事御用掛に子・実良らと共に就任。文久3年(1863年)4月11日、男山八幡宮行幸に供奉。同年11月7日、左大臣及び兵杖を辞退し、同日に薨去。享年52。

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  • 正室:一条順子 – 伏見宮邦家第二王女
    • 女子:明子 – 柳沢保申正室
  • 側室:新畑民子(花容院) – 一条家典医新畑種成娘
    • 三女:美子 – 明治天皇皇后、昭憲皇太后[2]
  • 側室:家女房
    • 男子:一条実良
  • 養子
    • 女子:峯 – 三条実万の娘、細川韶邦正室
    • 女子:一条美賀子 – 今出川公久の娘、徳川慶喜正室
    • 女子:一条輝子(千代) – 醍醐忠順の娘、輝姫、慶喜の婚約者だったが疱瘡のため破談し後に毫摂寺善慶の室
  1. ^ 上田正昭ほか監修、三省堂編修所編 『コンサイス日本人名事典 第5版』 三省堂、2009年、123頁。 
  2. ^ 昭憲皇太后は一条家典医の娘で忠香側室となった新畑民子(花容院)の子である。

参考文献[編集]

  • 日本史籍協會叢書15『一条忠香日記抄』(東京大学出版会発行、1967年)

関連項目[編集]

  • 小川流
  • 安政の大獄 – この弾圧で慎十日の処分を受けた。


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