藤井幸槌 – Wikipedia

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藤井幸槌

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藤井 幸槌(ふじい こうつち、1864年2月12日(文久4年1月5日) – 1927年4月17日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。

山口県出身。藤井由助の二男として生れる。1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第10連隊付となる。近衛歩兵第1連隊付などを経て、1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。

1894年(明治27年)4月、陸士教官心得となり、後備歩兵第3連隊中隊長心得、陸士教官、台湾総督府参謀、同陸軍部課員、参謀本部第3部員などを経て、1900年(明治33年)10月、陸軍少佐に進級し近衛歩兵第4連隊付となった。参謀本部員、兼陸大教官などを歴任し、1904年(明治37年)2月、第12師団兵站参謀長に発令され日露戦争に出征。第3軍兵站参謀長、鴨緑江軍兵站参謀長を歴任。

1906年(明治39年)5月、参謀本部付となり、第6師団参謀長を経て、1907年(明治40年)11月、陸軍大佐に進み歩兵第22連隊長に着任。歩兵第3連隊長、近衛師団参謀長を歴任し、1912年(明治45年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長に就任。独立守備隊司令官を経て、1916年(大正5年)8月、陸軍中将となり第7師団長を拝命しシベリア出兵に従軍。1919年(大正8年)11月、近衛師団長に就任し、1922年(大正11年)2月に待命となり、同年5月、予備役に編入された。

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位階
  • 1886年(明治19年)11月27日 – 正八位[1]
  • 1895年(明治28年)9月20日 – 正七位[2]
  • 1907年(明治40年)12月27日 – 従五位[3]
  • 1912年(明治45年)5月31日 – 正五位[4]
  • 1916年(大正5年)9月11日 – 従四位[5]
  • 1918年(大正7年)10月10日 – 正四位[6]
  • 1921年(大正10年)11月10日 – 従三位[7]
勲章等
  • 1896年(明治29年)4月11日 – 功五級金鵄勲章・勲六等瑞宝章[8]
  • 1920年(大正9年)11月1日 – 旭日大綬章・功二級金鵄勲章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[9]
  • 1921年(大正10年)7月1日 – 第一回国勢調査記念章[10]
  • 妻 藤井チョウ子 柴田家門(文部大臣)の妹。
[脚注の使い方]
  1. ^ 『官報』第1035号「叙任」1886年12月10日。
  2. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  3. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  4. ^ 『官報』第8684号「叙任及辞令」1912年6月1日。
  5. ^ 『官報』第1236号「叙任及辞令」1916年9月12日。
  6. ^ 『官報』第1858号「叙任及辞令」1918年10月11日。
  7. ^ 『官報』第2784号「叙任及辞令」1921年11月11日。
  8. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1896年4月23日。
  9. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  10. ^ 『官報』第2858号・付録、「辞令」1922年02月14日。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

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