山陰中央新報 – Wikipedia

山陰中央新報(さんいんちゅうおうしんぽう)は、株式会社山陰中央新報社(さんいんちゅうおうしんぽうしゃ、The San-in Chuo Shimpo Newspaper Co.,Ltd.)が発行する新聞。朝刊のみで、発行部数は約18万5千部(2016年末)。

概要と沿革[編集]

概要[編集]

創刊は、1882年(明治15年)5月1日。2017年(平成29年)5月1日に創刊135周年を迎えた。2022年(令和4年)5月1日に創刊140周年を迎える。

島根県と鳥取県(山陰地方)、広島市を主要なサービスエリアとする[2]。2006年から広島バスセンターでも販売されている[3]。なお、同新聞の月極め定期購読者(直接配達地域<島根県全域と鳥取県一部>限定)は、朝日新聞社の有料電子版「朝日新聞デジタル」とのダブルコース申込みをすることが可能である[4]

4コマ漫画はフジヤマジョージのカンちゃん(佐賀新聞、熊本日日新聞など複数の地方紙にも掲載)と、倉田真由美のわらびん(デーリー東北にも掲載)が毎日連載されている。

受賞歴[編集]

  • 1991年(平成3年)7月3日 – 企画記事「命─医療現場から」が第10回アップジョン医学記事賞を受賞。
  • 1997年(平成9年)10月20日 – 「香りの広告シリーズ」で日本新聞協会新聞広告賞奨励賞を受賞
  • 2003年(平成15年)10月20日 – 「しまね子ども環境バンク」で日本新聞協会新聞広告賞奨励賞を受賞
  • 2013年(平成25年)10月16日 – 「環りの海」(琉球新報社との合同企画)で日本新聞協会新聞協会賞を受賞[5]

沿革[編集]

前身は、自由民権運動の機関紙として創刊された『山陰新聞』(1882年-1941年)と岡崎運兵衛によって創刊された『松陽新報』(1901年-1941年)。当時は隔日刊だった『山陰新聞』に対し『松陽新報』は日刊紙として挑み、政治的にも政友会系の『山陰新聞』・民政党系の『松陽新報』と激しく競争した。山林地主である田部家が『松陽新報』の経営に参画する一方で、『山陰新聞』も戦時下の報道使命の完遂を理由として1940年8月に読売新聞傘下となり、代表取締役会長に正力松太郎が就任した[6]。直後の10月14日には巨人対阪急のプロ野球興業(松江体育協会主催、山陰新聞後援)を松江野球場で開催した[7]。また、「独伊軍事映画の夕」などを開催した。

やがて戦時報道統制によって1941年12月に『山陰新聞』と『松陽新報』が合併して島根新聞社となり、1942年1月から題号が『島根新聞』に。終戦後の1945年12月に読売新聞との資本関係が解消[8]されたことで、田部家が経営権を掌握した。また1949年10月に夕刊島根新聞社が設立[9]

1952年に『山陰新報』に改題し、さらに1957年10月に『島根新聞』に復題した後、1973年3月25日に現在の題号となる。1973年3月改題当時のページ数は16ページ建て。

  • 改題の背景には、山陰地区のテレビジョン放送相互乗り入れが関係している。山陰中央新報が出資する山陰中央テレビジョン放送(TSK)は、当初『島根放送』(通称:テレビしまね)として開局したが、1972年に鳥取県にエリアを広げたことから現社名となった。

この動きに歩調を合わせる形で当紙も『島根新聞』から『山陰中央新報』へと改題、それまで島根県のみであった発行エリアを鳥取県にも拡大した。この攻勢は短期的には成功し、1975年には鳥取県内での競合地元紙『日本海新聞』を休刊(発行会社が倒産)にまで追い込む。ただ、同紙が別法人にて再建され短期間で復刊、巻き返しを図ったことで鳥取県への進出計画は事実上失敗に終わった。

  • 現在でも鳥取県内では島根県出身者を中心に根強い読者を持ち、島根県側に近い米子市や境港市に限れば一定数の読者を獲得しているものの、鳥取県内全体でのシェアは1割にも満たない。ちなみに改題直後から8年間「山陰は一つ」をスローガンとして題字のすぐ下に入れていた。また、鳥取市内での発行部数が極小にもかかわらず同市内に「鳥取総局」を置いているのはこの時の名残である。

1978年の段階で超高速オフセット輪転機を導入したことや1981年から一面にカラー写真を毎日掲載するなど新聞の印刷技術においては先駆的存在である。

2000年(平成12年)8月1日、ホームページを開設。

2004年1月から島根大学漫画研究会と連携し、週1回学生による4コマ漫画または1ページ漫画を連載するという試みを行なっていた。日刊の新聞で学生による漫画の連載は非常にまれなことであった。なお、現在は連載されていない。

2005年以降、竹島の日、竹島の領有権に関する報道を積極的に行っている。

2007年8月22日、移動編集車「サンちゃん号」導入[2]

2007年10月からは、ひかわ制作センターのカラー輪転機増設によって、カラー面を大幅に増やし、また、紙面の一新を図った(題字も新たに島根県出身の東寺長者・砂原秀遍氏の揮毫によるものに改めた)。

2014年(平成26年)4月1日、無料会員組織「さんさんクラブ」スタート。同年11月5日、子ども向けの無料新聞「週刊さんいん学聞」を創刊。毎週水曜日発行している。

2015年(平成27)年11月25日、製作センターに見学者ホール「しんぶん学聞館」が完成[5]

ネットワーク[編集]

本社
  • 島根県松江市殿町383 山陰中央ビル6階
本社ビルの低層階(1~4階)は元々一畑百貨店(旧)松江店新館であった。現在は複合ビルとなっており、系列文化センターやその他テナント、さらにはみしまやヴェルデ中央店(1階)も入居する。以前はエフエム山陰が4階に本社を構えていたが、2020年2月10日よりくにびきメッセ2階に移転している。
印刷所
支社
総局

※は、本社以外で発行所を兼ねる。

支局
通信部

関連紙・雑誌[編集]

  • 山陰経済ウイークリー
  • さんいん学聞
  • 生活応援情報紙りびえーる

関連団体[編集]

  1. ^ “19年4月ABC部数”. 新聞情報. (2019年5月18日) 
  2. ^ a b ご購読・試読申し込み”. 山陰中央新報社. 2020年4月27日閲覧。
  3. ^ 当初は7・8番乗り場後ろの新聞・雑誌売店で販売されていたが、バスセンター内の改装に伴い、現在はコンコース内のコンビニ「B-コンショップ」で販売されている
  4. ^ 朝日新聞デジタルダブルコースのお申し込み受付中!”. 山陰中央新報社. 2020年4月27日閲覧。
  5. ^ a b 社史”. 山陰中央新報社. 2020年4月27日閲覧。
  6. ^ “山陰新聞並に九州日報 読売新聞社と合併す”. 山陰新聞社. (1940年8月14日) 
  7. ^ この試合は連盟の公式戦ではなく、現在の規定では練習試合に位置づけられる試合であった。そのため、日本野球機構には公式の試合記録が残っていない。
  8. ^ 翌1946年2月には正力松太郎も島根新聞会長を辞任。その後1952年に『大阪讀賣新聞』(現在の読売新聞大阪本社)が創刊されると、島根県内でも販売を開始して現在に至る。
  9. ^ 当時は同一企業による夕刊の発行が認められていなかったため、名目上は島根新聞の子会社として創刊。1950年に「夕刊山陰」に改題。1952年の山陰新報改題と共に夕刊山陰を吸収する

外部リンク[編集]