ペウケスタス – Wikipedia

ペウケスタス(希:Πευκεστας、ラテン文字転記:Peucestas、紀元前4世紀)はアレクサンドロス3世(大王)に仕えたマケドニアの将軍である。彼はアレクサンドロス(大王とは別人)の子であり、マケドニアのミエザの生まれである。 アレクサンドロスの下で[編集] ペウケスタスが史書において初めて言及されたのは紀元前326年にヒュダスペス川を下る際の三段櫂船艤装奉仕の担当者の一人としてであり、それ以前の彼の働きは知られていない[1]。 ペウケスタスが一躍有名になったのは紀元前325年のマラヴァスへの攻撃においてである。その時王に付き添っていた彼は、一人敵の真っ只中に飛び込んで危険に陥った王をレオンナトス、アブレアスと共に助け、トロイのアテナの神殿から取ってきた聖なる盾で庇い、負傷した[2]。この功績によりペウケスタスは東征の軍功第一位に選ばれ、スサではいの一番に功績に金の冠でもって報いられた[3]。ペルセポリスに着いた時にペルシス太守に任じられた[4]。なお、それに前後して彼は王の側近護衛官に昇進しており、その時王は彼のために本来は七人だった定員を一人分増やすという特例処置をとった[5]。 太守としてのペウケスタスはペルシアの服装と風習を積極的に取り入れることによってペルシア人の支持を得たが、マケドニア人からは不興を買った[6]。紀元前323年の春、 20000のペルシア人兵士を率いたペウケスタスはバビロンへと病に臥せっていた王の元にはせ参じ[7]、王が危篤の時にはサラピス神殿で参籠した[8]。 アレクサンドロス死後、ディアドコイ戦争[編集] ペウケスタスはアレクサンドロスの死に続いて起こった諸事件においては主導的な役割を果たしはしなかったが、紀元前323年に開催されたバビロン会議ではペルシス太守に留任し[9][10][11](一方でユスティヌスはバビロニア太守だとしている[12])、それを修正した紀元前321年のトリパラディソスの軍会でもペルシス太守に留任した[13]。 紀元前317年にメディア太守ペイトンが勢力拡大を目論んでパルティアを同地の太守を殺して奪った。この時ペウケスタスは自らの10000のペルシア兵と他の東方の太守たちを率いて戦い、ペイトンを破った[14]。ペウケスタスは引き続いて起こったアンティゴノスとエウメネスの戦いでは親しかったエウメネスの側についた。ペウケスタスは対ペイトン戦で共に戦ったティグリス川以西の諸太守の支持を得、ペウケスタス自身もペルセポリスでは豪華な饗宴を開くなどして将兵の支持を得ようとしたが、エウメネスは特定の総司令官をたてる代わりにアレクサンドロスの遺品を飾ったテントを再現していわば御前会議の形で会議を行ったり、手紙を偽造したり、ペウケスタスの支持者のシビュルティオスを告訴するなどして巧妙にペウケスタスの影響力を排除して事実上の総司令官となった[15][16]。 この一連の戦いでペウケスタスはエウメネスと総指揮権を争ったように権力欲は強いが臆病で無能な将軍として描かれている。引き分けに終わった紀元前317年のパラエタケネの戦いではペウケスタスは騎兵部隊を率い[17]、この時は大過なく任を果たしたが、紀元前316年のガビエネの戦いの直前にアンティゴノスが越冬のために散らばっていたエウメネスらの軍を奇襲しようとした時にはアンティゴノスの接近に狼狽し、後方への後退を提案した[18][19]。ガビエネの戦いではペウケスタスは散々エウメネスの足を引っ張った[20]。アンティゴノスの騎兵部隊の攻撃で恐慌状態に陥って勝手に後退し、エウメネスが反撃を試みた時にはそれを拒否してさらに後退した[21]。結果としてこの会戦での敗北(戦術的には引き分けだったが)はエウメネスの破滅に繋がり、彼は味方に裏切られてアンティゴノスに引き渡され、軍は敵に降伏した。しかし、その裏切りを快く思わなかったアンティゴノスはペウケスタスから所領を取り上げ、空約束でペウケスタスを元気付けながらも、彼を遠ざけた[22]。 ^ アッリアノス, 『インド誌』, 18 ^ アッリアノス, 『アレクサンドロス大王東征記』, VI. 9, 10

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サミー・リョン – Wikipedia

サミー・リョン(森美) 基本情報 出生名 梁志健(サミー・リョン) 別名 サミー 生誕 (1973-12-03) 1973年12月3日(48歳) 出身地 イギリス領香港 職業 ラジオ番組司会者、テレビ番組司会者、歌手、俳優 活動期間 1997年 – 現在 事務所 ゴールド・レベル・エンターテインメント→ゴールド・タイフーン・エンターテインメント 共同作業者

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水酸化カリウム – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “水酸化カリウム” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) 水酸化カリウム 水酸化カリウムPotassium hydroxide 識別情報 CAS登録番号 1310-58-3 EC番号 215-181-3 E番号 E525 (pH調整剤、固化防止剤)

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従化区 – Wikipedia

従化区(じゅうかく)は中華人民共和国広東省広州市に位置する市轄区。2014年以前は従化市(県級市)であった。 従化区は広州市東北部に位置し、東は竜門県及び増城区と、南は広州郊区と、西は清遠市及び花都区と、北は仏岡県及び新豊県と接する。 市域は統計113°17’から114°04’、北緯23°22’から23°56’に位置し、東西は約4.5キロメートル、南北は約8キロメートルである。 全市は半山区の地形である。東北は山地・丘陵、中南部は丘陵・谷地、西は丘陵・台地である。市内の最高点は良口の天堂頂、高さ1210メートル、従化区東部と竜門県の区分山である。最低点は太平村、高さ163メートル。市中心区の街口街道、高さ31メートル。市内には流渓河、琶江河と蓮麻河が流れ、年平均水量22.7億立方メートル。 中国の気候区分による南亜熱帯季風気候であり、年間平均気温はセ氏19.5〜21.4度、最高月間平均気温はセ氏28.6〜29.3 度。 年間降水量は1800〜2200ミリメートルであり、日最高最低気温の記録はセ氏38.1度と零下セ氏7度である。 四季の特徴としては、春では春季の寒さと暖かさによる変化が多く、陰湿に雨も多くて、春のあらしがある;夏では晴れの時に気温高く、時々暴風雨がある;秋では爽やかで、少雨、干ばつと寒露時期の風に常遇;冬では晴れ多く、乾燥な気候で、霜害がよく出る。気象の災害は水害、干害、低温の冷害、大風と雹などがある。 『今県釈名』によれば1489年(弘治2年)に従化県が設置された。1994年3月26日に県級市(従化市)に昇格し、2014年1月25日に区制施行し、従化区となった。 悠久な歴史を持つ従化区から、発掘された文物は七八千年前の新石器もある。500年前県を設立した時から、広州府に属する。 明清の時代から、従化では多くの農民運動が興られ、封建統治に反抗した。 日中戦争期間では有名な粤北第一、二次会戦の主戦場となったことがある。 従化区は山青水秀で綺麗な風光に恵まれ、山、水、森、果物、泉、湖などの豊富な観光資源がある。 文化観光スポットは10カ所以上あり、広裕祠、五岳殿等の7カ所は広東省或いは広州市重要文物保護スポットに指定されている。 流溪河国家森林公園には「第二廬山」の名とされた。広州揚水発電所リゾートは3A級の国家重要風景名勝区である。石門国家森林公園、流溪温泉リゾート、天湖滝、流溪香雪、仙沐園、三椏塘幽谷探険、銭岡古村等の名勝は国内外の多くの観光客で賑わっている。 市内には従化温泉、凱旋宮、碧水湾、文軒苑、逸泉山荘、温泉ゴルフ場等の高級ホテルもある。 行政区画[編集] 3街道、5鎮を管轄する: 街道 街口街道、江埔街道、城郊街道

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ナイトメアハンター=ディープ – Wikipedia

『ナイトメアハンター=ディープ』は、2007年にエンターブレインから出版された現代ホラーものテーブルトークRPG (TRPG)。人間の心から生まれ、人間の夢を侵略する夢魔と、それに立ち向かう夢魔狩人(ナイトメア・ハンター)の戦いを描く。2007年7月26初版発行。3800円。作者は小林正親。世界設定は前作『ナイトメア・ハンター』の20年後ということになっている。 この項目ではスピンオフ作品である『大江戸RPG アヤカシ』についても併せて解説する。 1988年に翔企画から発売されたTRPG『ナイトメア・ハンター』の続編。人々の夢の中の世界に巣くうバケモノ「夢魔」。夢魔は人々の心から生まれ、その心を利用して現実を「悪夢化」することで自身を強化し、更に悪夢を広げていく。それを止めることができるのは夢の力を持つ者、ナイトメアハンターだけだ。このゲームではすべてのプレイヤーはこのナイトメアハンターをキャラクターとして演じることになる。 前作の20年後の世界とはなっているものの、世界観やシステムなどは別物といっていいほど変化しており、前作では敵勢力の一部にすぎなかった「夢魔」が、「ナイトメア」と名前を変え、今回は敵勢力の根源となっている。 システム[編集] 夢のタイムギャップなどの設定については前作と似ている部分はあるが、ほとんどは別物となっている。 ヒーローポイントとして「夢の力」と「宿命」があり、それぞれ、「ブースト(行為判定に使用するサイコロの個数を一時的に増やす)」、「戦闘時の割り込み行動」、「行為判定のやりなおし」、「現実世界で超能力を使える(通常は夢の世界でしか超能力は使えない)」など、いくつかの機能をもっている。 キャラクターメイキング[編集] 前作とは変わり、プレイヤーキャラクターは「パワー」「タフネス」などの、能動的能力3つと受動的能力3つ、合計6つの能力値をもつ。また、キャラクターには後天的な習得技術をあらわす「スキル」や、超自然的パワーの発現である「超能力」を習得することができる。 プレイヤーキャラクターの作成手順は以下の通り。 六面体サイコロ2個を3回振り、それぞれの合計値を求める。 それぞれの合計値を2つの能力値に任意で割り振る。これは作成時から変化しない。 キャラクターはスタンダードとエキスパードの二段階で「スキル」を習得する。スキルはキャラクターが教育や訓練などで得た後天的技術を表し、主に現実世界で使用される 「超能力」を取得する。超能力は超自然的パワーの発現であり、主に夢の世界で使用される。この超能力はスキルと違い普通の人間は習得できない。つまりこのゲームのプレイヤーキャラクターは全員が特殊能力者で普通の人間ではないことをあらわしている。 キャラクターの所属を決定する。そのキャラ背景から、キャラクターは「レジェンド」か「ディープルート」どちらかのナイトメアハンターに分類される(Role&Roll誌のvol36で「夢見の民」、41で「ハーメルン」が追加された)。 ナイトメアハンターの分類[編集] レジェンド 2001年以前にナイトメアハンターとして生まれ、「協会」による訓練を受けたナイトメアハンター。

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源智 – Wikipedia

勢観房源智(せいかんぼうげんち、寿永2年(1183年)- 暦仁元年12月12日(1239年1月18日))は、鎌倉時代前期の浄土宗の僧。号は勢観房。妙法院法印。紫野門徒の祖。賀茂(かもの)上人ともいう。法然没後の京都における法然教団の維持に努めた。 父は平師盛と伝わる[1]。平家滅亡後、北条時政のもと「平孫狩り」が横行しその後に、母と共に京都普照寺奥大覚寺北に潜伏していた平維盛の子の平高清(六代)が斬られかけるなど、鎌倉幕府治政下で、平家の遺児が生きていくことは困難を極めていた。そのため、建久6年(1195年)、源智13歳、法然63歳のときに、法然の室に入る。法然に帰依した九条兼実の実弟である天台座主慈円のもとで出家得度した[2]。そして、基礎教育のために、法然の高弟の真観房感西について勉学に励む。しかし正治2年(1200年)、18歳のときに、感西が亡くなる。感西の臨終の際、源智が「形見のために、要文を書いてほしい」というと、「如来の本誓は、一毫(いちごう)もあやまり給ふ事なし。ねがはくはほとけ决定して、我を引接(いんじょう)し給へ。南無阿弥陀仏」という『往生要集』の一節[3]が書き与えられたが、感西の遺弟たちは、この文を「要集ノ肝心」と呼んだ[4]。感西没後、法然の元に帰参する。それ以来、法然が没する建暦2年(1212年)まで、約12年間、入室以来約18年の長きにわたり、法然に近侍した。 建暦2年、法然の臨終の2日前に、「一枚起請文」を授けられた[5]。源智は法然自筆の「一枚起請文」を生涯、首に懸け秘蔵していたが、源智に帰依した河合(ただす)の法眼の所望に応じ、それを授与し、それによって「一枚起請文」として世間に流布したという[6]。金戒光明寺が所蔵するものが、源智に与えられた法然真筆のものであると伝えられている。その他、法然から、円頓戒の道具、本尊(南禅寺畔の西福寺 (京都市左京区)の本尊として伝わる)、現知恩院の地である大谷の坊舎、聖教などを譲られた[7]。法然の中陰法要において、五七日の檀那となっている[8]。 法然没後に生じた、天台宗の延暦寺衆徒が法然教団を弾圧した嘉禄の法難のために、大谷の坊舎は、法然の廟所を含めて荒廃した。文暦元年(1234年)、奏聞を遂げ、四条天皇から仏殿に「大谷寺」、廟額に「知恩教院」、総門に「華頂山」の勅額を賜り、大谷の坊舎を「知恩院」として再興した[9]。法然を知恩院初代とし、源智を知恩院二世としている。度重なる専修念仏に対する弾圧にもかかわらず、法然教団の維持に努めた。 嘉禎3年(1237年)、法然教団の将来を鎮西義の弁長(浄土宗二祖)に託する書状を書いたと言われる[10]。 暦仁元年(1238年)、法然が住んだ賀茂の河原屋の旧跡である功徳院で、56歳で没した[11]。この功徳院は、後に移転して百万遍知恩寺となった。知恩院と同様に、法然を知恩寺初代とし、源智を知恩寺二世としている。そのほか金戒光明寺も同様に源智を二世とする。 弟子に知恩寺3世蓮寂房信慧・浄信・宿蓮があり、この門流を紫野門徒という。 建治2年(1276年)、鎮西義の弁長の弟子である良忠(浄土宗三祖)が鎌倉から京にやってくると、間もなくして信慧は良忠と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行い、両流を校合してみたところ、相違するところが全くなく符合したので、以後源智の門流は別流を立てずに、鎮西義に合流した(「赤築地の談」)[12]。 これにより、紫野門徒の拠点であった百万遍知恩寺と知恩院は鎮西義の京での有力な拠点となった。 源智の生涯は、ひたすら「隠遁」に努め、自分の行に邁進した。たまたま仏法上の話題となり、聞く者が5~6人と多くなると、「人々を惑わす天魔の勢力を増してしまう、ものものしい」と言って、止めるほどであった[13]。このような控えめな態度にもかかわらず、知恩院の再興、後述の玉桂寺阿弥陀如来像造立への結縁活動など、法然没後の法然教団の維持に多大な貢献をした。 源智が所持していた、法然から授与された金字の「南無阿弥陀仏」の六字名号を、力づくで熊谷直実に奪われてしまったが、後にその六字名号を源智に返還することを直実に諭す法然の書簡(『源空、証空自筆消息』、重要文化財)が、清凉寺に残っている[14]。  法然没後、『選択本願念仏集』に対する、批判や疑問に答えたもの。源智は、法然から『選択本願念仏集』の書写を直接許された、6人のうちの一人といわれている[16](他は、隆寛、幸西、弁長、証空、親鸞)。               『法然上人伝記』(醍醐本)[17] 大正6年(1917年)に醍醐寺三宝院から発見された『法然上人伝記』(醍醐本)は、源智が書き記されたといわれるものを、醍醐寺座主義演が江戸時代初期に書写させたものである。 法然没後30年、源智没後4年の仁治3年(1242年)頃、源智の弟子が遺品の整理中に発見した、源智の法然からの伝聞、法然の法語の記録を編集したのではないかとも言われている[18]。そこには悪人正機説の「善人尚以往生況悪人乎(善人尚もって往生す。況んや悪人をや)」の法語が法然の「口伝」として書かれている[19]。 玉桂寺阿弥陀如来像[編集] 昭和49年(1974年)に(秋葉山十輪院)玉桂寺が、文化庁美術工芸課と滋賀県教育委員会との文化財集中地区特別調査の対象となった。その際、快慶の流派の作風である安阿弥様の阿弥陀如来像が発見された。その阿弥陀如来像に内蔵された「阿弥陀仏造立願文」により、その像が、法然の死亡した建暦2年(1212年)に、師の法然の恩徳に報いるために、源智が中心となって造立されたことが記されている[20]。その中で還相回向の思想が明文化されている[21]。また、同じく像内にあった「結縁交名帳」には、近畿・中国・東海・北陸・東北・蝦夷の、身分の上下を問わずに、4万6千名分記載され、源智の法然教団における組織力が示されている。その像は、昭和56年(1981年)に重要文化財に指定され、平成22年(2010年)に、法然の800年大遠忌を記念して、玉桂寺から浄土宗へと譲渡された[22]。

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松阪市立第一小学校 – Wikipedia

松阪市立第一小学校(まつさかしりつ だいいちしょうがっこう)は三重県松阪市の市立小学校。 学制発布に伴い1873年(明治6年)7月、大手学校として創立する[2]。大手学校は旧松坂学習館を本校とし、鍛冶町と西町に分校を設置した[2]。正確な時期は不詳ながらその後殿町学校に改称している[2]。松坂城下にはほかに本町学校(1973年〔明治6年〕、正円寺を利用)、日野町学校(1973年〔明治6年〕、弥勒院を利用)、西町学校(1974年〔明治7年〕、花山寺を利用)、新町学校(1974年〔明治7年〕)、中町学校(1975年〔明治8年〕、常念寺を利用)、愛宕町学校(1975年〔明治8年〕、常念寺を利用)、魚町学校(1976年〔明治9年〕2月、教会を利用)、湊町学校(1976年〔明治9年〕3月、三井家下屋敷を利用)が相次いで開校したが、1883年(明治16年)1月にこれらの学校はすべて殿町学校に統合され、同校は松坂学校に改称した[2]。松坂学校は5つの分教場を置いた[2]。1884年(明治17年)1月、仮本校とされた旧殿町学校が焼失、同年11月に現校地に新校舎が完成した[2]。また1886年(明治19年)1月に松坂尋常小学校へ改名、分教場は東西2つに再編された[2]。 1887年(明治20年)5月、松坂尋常小学校に飯高郡・飯野郡の24町村の組合立の飯高飯野郡高等小学校が併設された[2]。飯高飯野郡高等小学校は飯南郡高等小学校、松阪高等小学校と名を変えた後、1908年(明治41年)4月に松坂尋常小学校に統合され、同校は松阪男子尋常高等小学校と松阪女子尋常高等小学校に分離した[2]。両校は翌1909年(明治42年)4月に統合、松阪第一尋常高等小学校となった[2]。同時に校区(学区)見直しが行われ、松阪第二尋常高等小学校を分離した[2]。松阪第一尋常高等小学校には1910年(明治43年)4月に実業補習学校(1923年〔大正12年〕4月に専修実業学校に改称)、1926年(大正15年)7月に青年訓練所が併設された[2]。また1912年(明治45年)4月開校の松阪第三尋常小学校と1925年(大正14年)4月開校の松阪第四尋常小学校は創設時に第一尋常高等小学校を借用していた[3]。 1927年(昭和2年)4月、高等科を松阪第四尋常小学校へ移したため、松坂尋常小学校に校名が戻った[2]。1935年(昭和10年)7月、専修実業学校と青年訓練所が統合して商工青年学校となり、そのまま松坂尋常小学校に併設された[2]。1941年(昭和16年)4月、国民学校令により松阪第一国民学校に改称、1947年(昭和22年)4月、松阪市立第一小学校に改称した[2]。 通学区域は以下の通り[4]。 魚町 中町 中町六丁目 新座町 京町 京町一区 日野町 末広町一・二丁目 殿町(一部) 本町(一部) 湊町(一部) 宮町(一部) 2009年5月1日現在の児童数は156人であった[5]。2016年5月1日現在の児童数は9学級187人である[1]。 ^

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上海グランド – Wikipedia

『上海グランド』(シャンハイグランド、原題:新上海灘)は、1996年の香港映画。 1980年にチョウ・ユンファが主演し出世作となった、1920年代の上海租界を舞台とした香港の連続テレビドラマ『上海灘』(原題:上海灘)を、1996年にレスリー・チャン、アンディ・ラウ主演でリメイクした作品。2008年には中国においてホァン・シャオミン主演で再び連続テレビドラマ『新・上海グランド』(原題:新上海灘)としてリメイクされた。 ここではオリジナル作品である1980年の『上海灘』と、2008年のリメイク作品『新・上海グランド』についても説明する。 あらすじ[編集] この節の加筆が望まれています。 登場人物[編集] 許 文強(シュー・ウェンチャン) 台湾出身。日本の統治から逃れた脱走兵。 北京で学問を積んだ後、かつての恋人を探しに、上海へ。 馮 程程(フォン・チェンチェン) 誘拐されそうになったところを許文強と丁力に助けられる。文強に惹かれる。 父親は上海一のマフィアだが、それが原因で母が亡くなったこともあり、良く思っていない。 丁力(ディン・リー) 梨売りの青年。母の命の恩人である文強に多大なる恩義を感じ、弟分となる。母親思いで楽天家、気が弱いところもあるが、自身曰く「やる時はやる男」。 方 艶芸(ファン・イェンユン) 許文強のかつての恋人。上海の社交界の華として多くの男性から熱い視線を送られている。 馮

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近畿大学附属和歌山高等学校・中学校 – Wikipedia

近畿大学附属和歌山高等学校・中学校(きんきだいがくふぞくわかやまこうとうがっこう・ちゅうがっこう、英: Kindai University Wakayama High School and Junior High School)は、和歌山県和歌山市善明寺にある私立高等学校・中学校。近畿大学の附属学校である。略称は近大和歌山、近附、近和歌など。 学校内では、中学受験を経て入学する中高一貫の中等部(スーパー数理コース、数理コース)と、高校受験を経て入学する高等部(スーパーADコース、ADコース)に分かれている。中等部については、内部では「中4」「中5」「中6」と呼ばれる。教室の表示も「J6-1」のようになっている。県内有数の進学校であり、生徒の半数以上は国公立大学へと進学する。1991年から1月の共通テスト直後に卒業式を行っている[1]。 染髪、パーマ、化粧、ピアス、色付きのアンダーシャツなどは禁止されている。大阪南部や和歌山中部から通学する生徒もいる。携帯電話は2020年度から持ち込み可になった。また、2013年で開校30周年を記念して県下初の芝生グラウンドを創設した。 1983年(昭和58年)3月9日 近畿大学附属和歌山高等学校設置認可 1983年(昭和58年)3月31日 第一期工事完了(南校舎竣工) 1983年(昭和58年)4月1日 近畿大学附属和歌山高等学校開校 1983年(昭和58年)4月21日 第一回入学式挙行(於:県民文化会館) 1984年(昭和59年)3月21日 第二期工事完了(本館、北校舎、体育館竣工) 1984年(昭和59年)4月21日 校舎竣工記念行事挙行 1985年(昭和60年)4月1日 近畿大学附属和歌山中学校開校 1986年(昭和61年)3月6日 高等学校第一回卒業証書授与式挙行

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千疋狼 – Wikipedia

千疋狼、千匹狼(せんびきおおかみ)は、日本の説話の類型の一つ。送り狼と並んでオオカミの説話で有名なものとされ[1]、「鍛冶が嬶」「小池婆」「弥三郎婆」など、類する多くの説話が日本全国に伝承されている[2]。 多くは、夜間にオオカミの大群に襲われた人間が木の上に登り、オオカミたちが梯子のように肩車を組んで樹上の人間を襲おうとするものの後一歩で届かず、オオカミが自分たちの親玉の化け物を呼びつける、というものである。動物学者・平岩米吉はこれらを、オオカミが夜に活動する習性、指揮をとる者のもとに集団で行動する習性を意味するとし、オオカミが肩車を組むのは、オオカミの高く飛び上がる身の軽さを表現したものと指摘している[1]。 鍛冶が嬶[編集] 鍛冶が嬶、鍛冶が媼(かじがかか、かじがばば)は、高知県室戸市に伝わる説話。 ある身重の女が奈半利(現・安芸郡奈半利町)へ向かうために峠を歩いていた。夜になる頃に陣痛が起き、運悪くオオカミが襲って来たが、そこへ通りかかった飛脚に助けられ、木の上へ逃げることができた。オオカミたちは木の上へは爪が届かないので、梯子状に肩車を組んで木の上へ襲いかかろうとし、飛脚は脇差で必死に応戦した。 その内にオオカミたちは「佐喜浜の鍛冶嬶を呼べ」と言い出した。しばらくすると、白毛に覆われた一際大きいオオカミが鍋をかぶった姿で現れ、飛脚に襲い掛かった。飛脚は渾身の力で脇差しを振り下ろすと、鍋が割れると共に人の叫びのような声が響き、オオカミたちは一斉に姿を消した。 夜が明けて峠に人通りが出始めたので、飛脚は女を通行人に任せ、自分は血痕を辿って佐喜浜の鍛冶屋へ辿り着いた。お宅に嬶はいないかと尋ねると、頭に傷を負って寝込んでいるということだった。飛脚は屋内に入り込み、中で寝ていた嬶を斬り倒した。嬶の姿をしていたのはあの白毛のオオカミであり、床下には多くの人骨、そして本物の嬶の骨も転がっていたという[3]。 佐喜浜には現在でも鍛冶が嬶の供養塔が残っている。また佐喜浜を訪れた郷土史家・寺石正路によると、明治時代には鍛冶が嬶の墓石もあったとされ、鍛冶屋の子孫といわれる人々には必ず逆毛が生えていたという[2]。 江戸時代の奇談集『絵本百物語』では「鍛冶が嬶」と題し、オオカミに食い殺された女の霊がオオカミに憑いて人を襲う話となっており(絵本百物語#第五巻を参照)、千疋狼のような特徴は見られないが、挿絵ではオオカミの群れが樹上に向かって梯子状に肩車を組む姿が描かれている[4]。 小池婆(こいけばば)は、雲州松江(現・島根県松江市)に伝わる説話。 松江の小池という武家に仕える男が、正月休みに里帰りし、主の登城日前日の朝、未明の内に家を発って主のもとへ向かった。檜山へ差し掛かった頃、オオカミの群れに出くわしてしまい、逃げ場を失って路傍の大木に登り、難を逃れようとした。 するとオオカミたちは梯子状に肩車を組んで男に近付いてきたが、あと少しのところで高さが足りない。一番上のオオカミが「小池婆を呼べ」と吠えたてた。それに応じて1匹の巨大なネコがやって来て、オオカミの梯子を昇って来た。男はネコを待ち受け、腰の刀を抜いてネコの眉間を切りつけた。金属音が響き、ネコもオオカミの群も姿を眩ました。 やがて夜が明けて人の声がするようになり、男は安心して木から降りると、足元に茶釜の蓋が落ちていた。良く見ると、それは見慣れた主の家の茶釜の蓋だった。不思議に思い、男はそれを持って主の家へ向かった。 主の家へ着いたところ、主の母親が昨晩、厠で転んで額に大怪我をしたと大騒ぎになっていた。さらに家の茶釜の蓋がなくなり、探し回っているところだった。男は茶釜の蓋を主に見せて事情を話した。主が母の部屋を覗くと、母は布団をかぶって妙な声で呻いていた。 主は母を怪しいと睨み、布団の上から刀で突き刺した。布団を剥いで見ると、そこには老いたネコの死骸があったという[5]。 弥三郎婆[編集] 弥三郎婆(やさぶろうばば)は、新潟県弥彦山を始め、山形県[6]、福島県、静岡県に伝わる説話[7]。中でも、以下の弥彦山の伝説が知られている[8]。 弥彦山の麓に、弥三郎という男が老いた母親と共に暮していた。ある日、弥三郎は山の中でオオカミの群れに出くわしてしまい、大木に登って難を逃れようとした。 するとオオカミたちは梯子状に肩車を組んで男に近付いてきたが、あと少しのところで高さが足りない。一番上のオオカミが「弥三郎の婆を呼べ」と吠えたてた。すると空に暗雲が垂れ込め、その中から毛むくじゃらの腕が現れて弥三郎を掴んだ。弥三郎は必死に刀でその腕を斬りつけると、雲もオオカミも消えてしまった。 弥三郎は、オオカミたちはなぜ自分の母を呼んだのだろうと不思議に思いつつ、斬り落とした腕を持って帰宅した。家では母が布団を被って妙な声で呻いていた。弥三郎が事情を話して件の腕を見せると、母は「これは俺の腕だ!」と叫び、肩口から血を滴らせつつ逃げ去った。この母の正体は鬼婆であり、本物の母は既に鬼婆に食べられてしまった後だったという[9]。

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