白糠線 – Wikipedia

停車場・施設・接続路線

※途中の橋梁は省略

白糠線(しらぬかせん)は、1964年(昭和39年)から1983年(昭和58年)まで日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。

北海道白糠郡白糠町に所在する根室本線の白糠駅から分岐し、同町二股地区の北進駅までを結んでいた。1980年(昭和55年)の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行を受け、特定地方交通線廃止の第1号として、1983年(昭和58年)10月23日に廃止された。

開業の経緯[編集]

白糠町の北端にある二股への鉄道を敷設する構想は第二次世界大戦前からあり、釧網本線の弟子屈駅(現在の摩周駅)から二股を経由して池北線(第三セクターの北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線を経て、2006年〈平成18年〉に廃止)の足寄駅までを結ぶ「釧勝線」が提案されていた[2]。大戦後は白糠から二股を経由して足寄へ結ぶ白糠線構想が持ち上がり、1951年(昭和26年)に白糠町が中心となって運動を開始し、足寄村・西足寄町と連携して期成会を結成し、中央省庁への働きかけを行うようになった[3][2]。1952年(昭和27年)には現地での測量が行われ[4]、1953年(昭和28年)8月1日に改正鉄道敷設法が改正されたことにより、第1条別表第147号の2に掲げる予定線として「釧路国白糠ヨリ十勝国足寄ニ至ル鉄道」と規定されて、白糠駅から池北線の足寄駅までが予定線となった[5]。さらに足寄駅から新得駅までの北十勝線(未成線)とあわせて根室本線のバイパスを形成する予定であった[6]。この他に、当路線の螺湾から分岐して、上足寄を経由し相生線の北見相生駅へ至る「阿寒線」という構想も存在した[2]

予定される路線の沿線には、公有・民有合わせて64,000ヘクタールに及ぶ森林資源と、約3億2000万トンに及ぶ高品質の石炭があり、一時は石炭年産50万トンを目標として5か所で採炭が行われ、人口も23,000人に達していた時代があった[3]。石炭産業は第二次世界大戦後から相次いで現地に入り、縫別の三菱鉱業、上茶路・右股の雄別炭礦、二股の明治鉱業、茶路の共同石炭などの鉱業権が設定され、一部は実際に生産を開始していた[2]。さらに足寄奥地にある日本特殊鉱業阿寒鉱業所では年間2万トンの硫黄の生産を行っていた[2]。しかしこれらの資源はトラックでの搬出を強いられていたため輸送費がかさみ、増産が困難という問題を抱えていた[2]。森林資源については、足寄から螺湾・上足寄を経由して鳥取までを結ぶ森林鉄道が開通し、馬車や河川流送などでも運ばれていたが、輸送力が不足している状況であった[7]。こうした森林・石炭資源の開発が白糠線の大きな目的であった[8]。また北見・北十勝地方で生産される農産物を釧路港へ輸送する経路を短絡することや、足寄から螺湾にかけて計画されていた開拓地の輸送を担うことも期待されていた[7]

用地の買収にあたっては、札幌鉄道工事局や白糠町当局と地元の農民団体の間で血みどろともされる争いがあり、町議会においても対立で紛糾するといった事態となったが[9]、1958年(昭和33年)に白糠から足寄までの76キロメートルが建設線に認可され[3]、6月に着工された[8]。この時期に建設が開始されたのは、釧路炭田における失業対策が考慮されたという[7]

1964年(昭和39年)10月7日に白糠から上茶路駅までが開業した。折りしも、雄別炭鉱の上茶路炭鉱が本格操業に入る時期であった[4]ため、同炭鉱からの石炭輸送には白糠線が利用された[4]。出炭量年間10数万トンのほとんどが白糠線による輸送であった[8]。この頃、白糠線には石炭車を長く連ねた石炭輸送列車が走り、上茶路地区はわずか9戸の農家のみであったのが、一挙に250戸600人が住み商店・学校・郵便局・駅・役場支所などが立ち並ぶ街へと成長した[9]。しかしながら、当初予定されていた木材の河川流送方式から鉄道輸送への転換は実現することなく、自動車による運送に転換していった[9]

延伸開業まで[編集]

一方、1968年(昭和43年)には上茶路駅以北釧路二股駅までの区間で路盤工事に着手、翌1969年(昭和44年)には軌道敷設工事が開始されていた[4]。この工事は日本鉄道建設公団の手により1970年(昭和45年)には完成していたものの、折り悪く上茶路炭鉱は1970年2月に閉山となり[4]、石炭輸送が皆無となっていた[4]。また、当時は「赤字83線」のローカル線廃止取組みの最中であり、開業すれば赤字必至のローカル線の引き受けを国鉄が拒否したため、完成した線路が2年間に渡って放置されていた[10]

国鉄北海道総局では1970年(昭和45年)11月11日、上茶路 – 北進間(1970年10月30日完成)に列車を運行した場合、営業係数は2291になる見通しを初めて公表した。開業した場合、1日3往復させる計画だが、1日の利用客は56人、年間の赤字額は998万円と試算した。既に開業した白糠 – 上茶路間と合わせた白糠 – 北進間の営業係数では1260となり「赤字経営に拍車をかけ、それに雄別炭砿上茶路砿業所が閉山されたいま、それほどの重要性は持たない」とした[11]

赤字83線の取組みが頓挫した1972年(昭和47年)7月7日に田中角栄内閣が成立し、北海道出身の佐々木秀世が運輸大臣に就任した。直後の7月12日に白糠町長の千葉清が運輸省を訪問して佐々木大臣に釧路二股駅までの開業の要請をしたところ、話が急速に進んで7月14日には開業認可が下りることになった[10][注 1]

開業に際して、延長区間に2駅設置された奥茶路駅と終点である釧路二股駅に関してはさらなる延長への期待を込めて延伸開業時にそれぞれ「下北進」および「北進」と変更され[13]、1972年9月8日に北進駅までが開業した[4]。開業前、同区間にはマイクロバスが一往復していたが、乗客は30人足らずであり需要がないことは確実であった。同年6月に北海道内で札沼線の一部区間が廃止されていたことから、同線沿線関係者による「白糠線より利用者の多い札沼線をちぎっておいて、片方で廃止予定線を延長することはおかしい」とのコメントが全国紙に掲載された[14]

全通以降[編集]

残された釧路二股(北進) – 足寄間についても、現地調査と地図上での比較検討が行われ、1965年(昭和40年)1月から線路選定が行われていた[7]。路線は、二股から左股・稲牛・中足寄を通って足寄へ至るルウクシュチャロ川・稲牛川沿いの経路と、右股・螺湾・中足寄を通って足寄へ至るコイカタホロカチョロ川・螺湾川沿いの経路の2案が比較検討され、1966年(昭和41年)1月に後者の経路に決定された[7]。これは螺湾と北見相生を結ぶ「阿寒線」構想との接続を考慮してのことだと推定されている[7]。足寄での取り付けは、北見と釧路を結ぶ役割を考慮して南側からとされた[7]。1967年(昭和42年)8月に工事実施計画が承認され、白糠町と足寄町の境界には延長5,200メートルの釧勝トンネルが計画されていた[15]。1969年(昭和44年)7月からは路盤工事も開始されていた[15]。しかし、沿線の炭鉱閉山に伴い人口が激減していた[4]。手を組むはずであった北十勝線も頓挫し、白糠線は新線延長はおろか既開業線の存続すら危うい状況に陥った。結局、北進延長を果たした1972年に、以北への延長工事の中止が決定した[15][注 2]

過疎化に加えて自家用車の普及もあり、白糠線利用客数は1969年(昭和44年)度の年間15万2000人を最高に年々低下の一途をたどるようになった[3]。1978年(昭和53年)には白糠 – 上茶路間の貨物輸送も廃止され[17]、常に廃止対象路線にリストアップされていた[4]。それでも当時の白糠町長の千葉清をはじめ沿線は、廃止に反対した上[4]、本来の目的である足寄までの全線開通を願い、また上茶路坑跡地の炭鉱住宅を生かした「青少年旅行村」施策により夏場は賑わい臨時列車を出したほどであった[18]

廃止まで[編集]

1980年(昭和55年)に国鉄再建法が成立すると、特定地方交通線の選定基準であった1977年(昭和52年)度から1979年(昭和54年)度までの輸送密度が123人/日しかなかった[4]白糠線は、1981年(昭和56年)に第1次特定地方交通線に指定された[19]。この時点での白糠線は、営業係数2,872(100円稼ぐのに2,872円かかる)という大赤字路線で[4]、白糠町も特定地方交通線の廃止基準が決まった時点で「もう助からないと腹に決めた」と思ったという[19]

当初は白糠町も廃止反対の立場であったが、その理由は「未成線である」という1点のみであった[19]。また、同様に廃止問題を抱えていた自治体で構成されていた「北海道特定地方交通線関係市町村協議会」は、それまでは廃止反対という統一行動をとっていたが、1982年3月に「各線区ごとに地元の事情を勘案して検討」という方向性に切り替えた[19]。白糠線は全線が白糠町内であり、複数の自治体を走る他線に比べ地元自治体からの了承取り付けは容易であった[19]こと、ほぼ並行して国道392号が通っており、しかも集落は線路沿いよりも国道沿いにあったこと[19]などの条件もあり、同年8月31日には白糠町議会でバス転換の方針を固め、7ヶ月の間に5回の協議を経た1983年3月には全会一致でバス転換に関する合意が成立した[19]

なお、白糠線の建設当時に農地を提供した住民からは「たった10年余りで廃止になること」への不信感は強かった[19]が、毎年赤字ワースト上位で新聞に載る路線だけに「鉄道とはこんなものだ」という諦めの気持ちも強かったために(同じ北海道の美幸線の様な)強硬な反対運動はなかったとみられている[19]。どの報道メディアでも「廃止になっては死活問題」という地元住民の声は全くなく[20]、それどころか「廃止になるので一度乗っておこう」という沿線住民が多かった[20]

こうして、白糠線は1983年(昭和58年)10月22日限りで、特定地方交通線の先陣を切って廃止された[21]。最終日は定期列車に増結が行われたほか、臨時列車も2往復運行され、そのうち1往復は10両編成という長大編成であった[21]。開業から19年[21]、上茶路 – 北進間が延伸開業してわずか11年後であった[22]。また、1972年の延伸区間は「バス転換された特定地方交通線」としては最後の開業となった大隅線の延伸区間の1日前の開業[注 3]であった。

年表[編集]

ほぼ平坦な地帯を屈曲しながら茶路川に沿って北上する路線で、茶路川を白糠 – 上茶路間では10回、上茶路 – 北進間では13回横断していた。支流まで合わせると、橋梁の数は白糠 – 上茶路間で41か所1,678メートル、上茶路 – 北進間は15か所1,568メートルとなっていた。またトンネルが鍜高トンネル(145メートル)と縫別トンネル(510メートル)の2か所あった。レールは30キログラムレールを使用し、最急勾配は16パーミル、最小曲線半径は300メートルであった[1]

比較的建設年が新しいため、コンクリートで作られた橋梁が多かったのが特徴で[23]、廃止から18年が経過した2001年時点でも多くの橋梁が残存していた[24]

運行形態[編集]

開業時は白糠 – 上茶路間に全線通しの列車が1日4往復運行されていた[4]が、1972年の北進延長時に1往復減便され、それ以来全線通しの列車が1日3往復運行される体制が最終日まで続いた[4]。車両の送り込みを兼ねた根室本線釧路駅方面からの乗り入れもあり[13]、朝の運行に関しては釧路駅 – 根室駅間を走行していた急行「ノサップ」号に使用される急行型車両を間合い運用していた[13]

廃止後の状況[編集]

廃線から32年後の2015年(平成27年)に道東自動車道(北海道横断自動車道)の浦幌インターチェンジ – 白糠インターチェンジ間が開通し、縫別駅跡地近くに白糠インターチェンジが設置されて、足寄町の南側にある本別町から白糠線未成区間に近いルートで十勝と釧路の両地域間を結ぶ交通網が整備された。2016年(平成28年)には白糠インターチェンジから釧路市西部の阿寒インターチェンジまで延伸され、道央と道東を結ぶ道内幹線交通の一部となっている。

2021年(令和3年)4月、白糠町は国道392号を跨ぐ「第10茶路川橋りょう」(縫別 – 上茶路間、1962年完成)の約57メートルと「道道白糠本別線こ道橋」(下北進 – 北進間、1968年完成)の約35メートルを、崩落の危険があるとして撤去することを決め、関連経費約2億4千万円を年度予算に盛り込んだ[25]

転換バス[編集]

白糠線の代替バスは、当時の道路運送法101条による特認を受けて、自家用バスによる有償乗合輸送で行われることになった[26]。民間バス事業者ではなく町営バスとなった理由は、民間バス事業者では運賃や便数について住民の了承が得られる保証がない上、「いずれバスも廃止になる」という住民の不安を払拭するためと説明されている[26]。しかしこれにより、国鉄再建法24条に基づくバス運営費補助が受けられないということになった[8]

白糠町営バスは、白糠駅前に設置された町営バスターミナルと二股を国道392号経由で結び、途中停留所は28箇所が設定された[26]。定員72名の大型ワンマンカー2両が導入され、町営バスターミナルやバスの車庫、バス発着道路、自転車置き場、運転士住宅などが整備された[8]。初年度の町営バス欠損金の見込みは3200万円であったのに対して、1982年(昭和57年)度の白糠線の欠損額は2億3200万円であった[8]。転換事業に要した総額は運営基金を含めて10億1300万6000円で、廃止路線1キロメートルあたり3000万円の転換交付金9億9300万円(33.1キロメートル×3000万円)が充てられて残りの2000万6000円が町費負担となった[8]

運行開始当初は1日4往復であった[26]。バスは、車内にトイレがなく鉄道より所要時間が長いという欠点はあるものの、バス停の数が多く集落の近くにバスが止まること、便数を増やしたことなどで、それなりに好評を得て、運行開始当初は国鉄時代に比べて運賃収入が20パーセントほど増加したとされる[3]。2011年(平成23年)4月1日時点では、平日3往復、土曜1往復、日曜運休であった[27]。2018年(平成30年)4月の白糠町営バス路線見直しにより、茶路団地以北は「茶路沢予約制バス」となった(平日3往復、土曜2往復、日曜運休の設定)[28]が、北進駅のあった二股地区への町営バスは維持されている。

路線データ[編集]

  • 管轄:日本国有鉄道
  • 区間(営業キロ):白糠 – 北進33.1km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:7(起点駅を含む。他に仮乗降場1)
  • 複線区間:なし(全線単線)
  • 電化区間:なし(全線非電化)
  • 閉塞方式:スタフ閉塞式(全線一閉塞)
  • 有人駅:なし(開業時の終着駅であった上茶路駅は昭和40年代に無人化され、廃止まで簡易委託駅であった)

駅・乗降場一覧[編集]

全駅北海道白糠郡白糠町に所在。

※仮乗降場には営業キロが設定されていなかった。括弧内に実キロを記す。

未成区間
北進駅 – 鯉方信号場 – 茂螺湾駅 – 螺湾駅 – 中足寄駅 – 足寄駅

注釈[編集]

  1. ^ 後の廃止時には、北海道新聞が「日本一の赤字線。特に1970年(昭和45年)の上茶路炭鉱(雄別鉄道上茶路坑)閉山の後は採算の合うはずのない路線だった。上茶路 – 北進間延長の時、釧路鉄道管理局は開業を渋った。建設されたレールが2年間もたな晒しにされたが、当時の佐々木秀世運輸大臣が『赤字よりも公共性だ』と1972年(昭和47年)強引に開業させた。政治の後押しでできたレールが同じ政治の力で剥がされる。建設費計16億円は捨てたも同然となった」と記している[12]
  2. ^ 毎年5月に実施されていた日本鉄道建設公団(鉄道公団)AB線(地方開発線・地方幹線)に対する工事着工線の建設予算配分が、1979年(昭和54年)より凍結された。しかし、関係議員からの強い要望もあり同年7月にAB線の建設予算配分における4段階のランク付けを初めて実施したが、白糠線はこの時点で同じ北海道の芦別線と共に鉄道公団工事着工線としてはランク外である「工事休止線」扱いとなっており、前述のランク付けにおける「第4ランク」路線(同じ北海道の名羽線や中部の中津川線、山陰の今福線など)と共に建設予算配分の対象外であった[16]
  3. ^ 大隅線の廃止は1987年3月14日であるため、営業期間は白糠線の上茶路 – 北進間のほうが短い

出典[編集]

参考文献[編集]

書籍[編集]

  • 『北海道鉄道百年史』下、日本国有鉄道北海道総局、1981年3月31日、18 – 19頁。
  • 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』1、JTB、1998年10月1日、初版、250頁。
  • 森口誠之『鉄道未成線を歩く(国鉄編)』JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉、2002年6月1日、初版。ISBN 978-4533042089。

雑誌記事[編集]

  • 鈴木文彦「特定地方交通線の実態と問題を現地に見る 26 白糠線」『鉄道ジャーナル』第201号、鉄道ジャーナル社、1983年11月、 64-69頁。
  • 種村直樹「鉄道記事ざっくばらん」『鉄道ジャーナル』第202号、鉄道ジャーナル社、1983年12月、 141頁。(掲載当時は匿名コラムであったが、種村は自らが執筆者であることをのちに明らかにしている)
  • 千葉清「わが町の白糠線はバスに転換した」『運輸と経済』第43巻第11号、運輸調査局、1983年11月、 23-27頁。
  • 西科国雄「白糠線開業三か月」『トランスポート』第34巻第3号、運輸振興協会、1984年3月、 40-44頁。
  • 松下弘之「国鉄白糠線廃線跡を訪ねて」『鉄道ファン』第485号、交友社、2001年9月、 128-131頁。
  • 松永英郎「白糠線のバス転換」『国鉄線』第39巻第4号、交通協力会、1984年4月、 18-19頁。
  • 「道内切っての“赤字線”開通 – 二年間放置されていた白糠線上茶路・北進間」『地方行政』第6445号、時事通信社、1972年9月、 8-9頁。
  • 「特定地方交通線“転換”第一号 白糠線の最も長い日」『鉄道ジャーナル』第203号、鉄道ジャーナル社、1984年1月、 120-122頁。

関連項目[編集]

  • 北海道拓殖鉄道(国鉄北十勝線、鉄道敷設法142-3「新得ヨリ上士幌ヲ経テ足寄ニ至ル鉄道」)

外部リンク[編集]