ヘンリー7世 (イングランド王) – Wikipedia

ヘンリー7世Henry VII, 1457年1月28日 – 1509年4月21日[1])は、テューダー朝初代のイングランド王(在位:1485年8月22日 – 1509年4月21日)およびアイルランド卿。ボズワースの戦いでリチャード3世を破って王位を勝ち取り、戦いで王座を得た最後のイングランド王となった。

ランカスター朝の系統のヘンリー7世は、ヨーク朝のエドワード4世の娘にしてリチャード3世の姪にあたるエリザベス・オブ・ヨークと結婚して王位を固め、薔薇戦争による混乱を解決した。テューダー朝を創立して24年間王位に座り、平和裏に息子ヘンリー8世に王位を継承した。君主の権力を回復し、政治を安定させ、優れた統治、積極的な外交政策と経済運営を行った。一方で、富裕層に対しては不当な手続きによって財産罰を濫発した。

テューダー朝断絶後にイングランド王位を継承したステュアート朝のジェームズ1世は、ヘンリー7世の長女マーガレットの曾孫であり、そのためヘンリー7世は現在のイギリス王家の祖先にもあたる。

家系および幼少期[編集]

ヘンリー・テューダー、後のヘンリー7世はウェールズのペンブルック(ペンブローク)城で1457年1月28日に生まれた。母はランカスター家傍系ボーフォート家の当時13歳のマーガレット・ボーフォート。父はリッチモンド伯エドマンド・テューダーであったが、誕生の3カ月前に死去していた[2]

ヘンリーの祖父オウエン・テューダーは古のウェールズ君主の血をひくが、イングランド王ヘンリー5世の未亡人でフランス王女であるキャサリン・オブ・ヴァロワの納戸係秘書を務める下級貴族に過ぎなかった。しかしオウエンはキャサリンと結婚し、その間に生まれたエドマンド(ヘンリー7世の父)はヘンリー6世の異父弟となり、フランス王家の縁者ともなって、リッチモンド伯に封じられた。

彼の王位継承権は主に母方のボーフォート家に由来する。母マーガレット・ボーフォートはエドワード3世の三男のジョン・オブ・ゴーントの子であるジョン・ボーフォートの孫であった。だが、ジョン・ボーフォートは両親が結婚する前に生まれた私生児であり、後に従兄に当たるリチャード2世に嫡出子として認められた時、王位継承権を放棄させられていた。さらに女系の血筋であることもあって、ヘンリーの王位継承権には疑問符が付いていた。

しかし1483年までには、ヘンリー6世と息子の王太子エドワード・オブ・ウェストミンスター、さらに他のボーフォート家の成員が死に絶え、ヘンリーがランカスター家一門の最年長の一員となっていた。

ヘンリーはテューダー家がウェールズ君主の末裔であることを活用して、ウェールズからの援軍および軍の通行権を確保した[3][4]。ヘンリーは、いつかウェールズを抑圧から解放するとされる“予言の子”の候補であると見なされており、ウェールズ君主の赤いドラゴンの旗を聖ゲオルギウス十字の旗と共に掲げていた。

1456年、父エドマンドは戦場でヨーク家側に捕えられ、ヘンリーの誕生3か月前に死んだ。幼年時代は叔父ジャスパー・テューダーの保護を受け、ウェールズで暮らした。1461年にヨーク家のエドワード4世が王位に着くとジャスパーは追放され、ヨーク派のペンブルック伯ウィリアム・ハーバートがヘンリーと母を保護した。だが1469年にペンブルック伯は処刑され、1470年にランカスター家のヘンリー6世が復位し、ジャスパーは追放から戻ってヘンリーを宮廷に連れて行った。

翌1471年にヘンリー6世と王太子エドワードが殺されてエドワード4世が復位すると、ヘンリーはランカスター家の血を引く最後の男子となり、ヨーク派から命を狙われるようになった。そのため、叔父ジャスパーに連れられてフランスに渡り、ブルターニュに匿われて続く14年間をこの地で過ごした。

王位継承[編集]

ヘンリー7世王の紋章:テューダー家のルーツであるウェールズを象徴する赤竜、下部には両家の融和を象徴する紅白の薔薇が描かれる

1483年までに、ヘンリーの母マーガレット・ボーフォートはヨーク派のトマス・スタンリーと再婚し、ヘンリーをヨーク朝のリチャード3世に代わる王の候補として運動していた。

1483年に、ヘンリーはエドワード4世の長女エリザベス・オブ・ヨークと婚約した。兄弟たちが叔父リチャード3世によってロンドン塔に幽閉されて亡くなっていたと思われていたため、エリザベスはエドワード4世の世継ぎとなっていた。

同年、支援者であるブルターニュ公フランソワ2世の援助で、ヘンリーはイングランドに上陸しようとしたが、嵐のために計画は失敗し同調者のバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードはリチャード3世に処刑されてしまった[5]。リチャード3世はブルターニュ公国の宰相を動かしてヘンリーを追放しようとしたが、ヘンリーはフランスに逃げた。エドワード4世の妹マーガレット・オブ・ヨークが嫁いだブルゴーニュ公国はヨーク朝を支援していたため、これと対立するフランス王ルイ11世から軍勢と装備を援助され、ヘンリーは2度目の攻撃の準備を行った。

フランス兵とスコットランド兵を率い、叔父ジャスパーやオックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーと共にランカスター派の拠点であるウェールズのペンブルックシャーに上陸し、イングランドに進軍した。父を通じてウェールズ王の血をひくヘンリーの軍勢は、ウェールズ兵を加えて5000に膨れ上がった[6]

ヘンリーはノッティンガムとレスターでも援軍を得て、1485年8月22日のボズワースの戦いでリチャード3世の8000の軍に勝った。リチャード3世側の多くの貴族は日和見し、リチャード3世の味方であったノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、およびウィリアム・スタンリー卿とヘンリーの継父トマス・スタンリー (初代ダービー伯爵)の兄弟は、決定的なタイミングでヘンリーの側に寝返った。リチャード3世は戦死し薔薇戦争は事実上終結した。だがイングランドが女系の王位継承権を認めているために王位継承権者は数多く、この後もヘンリーの戦いは続いた。

統治[編集]

婚姻と内乱鎮圧[編集]

ヘンリー7世妃エリザベス・オブ・ヨーク

ヘンリー7世はまず王位を固めなければならなかった。1486年には、共にジョン・オブ・ゴーントの玄孫であり、ヨーク家のエドワード4世の世継ぎエリザベスとウェストミンスター寺院で結婚し、長く対立してきたランカスター家とヨーク家を統合した。ランカスター家の赤薔薇の紋とヨーク家の白薔薇の紋を組み合わせて、テューダー・ローズをテューダー家の紋とした。また、この結婚によって、エドワード3世の次男のライオネル・オブ・アントワープの娘フィリッパの子孫と結婚した四男の初代ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーの子孫の王位継承権が、三男のジョン・オブ・ゴーントの子孫の王位継承権に勝るのかどうかという長年の論議が終結した。また、エドワード4世の子らを私生児におとしめていた議会の決議を無効とし、妻のエリザベスを嫡出子の地位に戻した。

ヘンリーはボズワースの戦いの前日の1485年8月21日にさかのぼって即位を宣言し、リチャード3世の側で戦った者全てを反逆罪に問えるようにした。だがその対応は相手に応じて変化し、リチャード3世の甥で王位継承者であったリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールは助命する一方、同じくリチャード3世の甥で前の王位継承者であったクラレンス公ジョージの長男のウォリック伯エドワードは捕え幽閉したが、その姉のマーガレット・ポールをソールスベリーの女伯爵にして融和を図った。10月30日にはウェストミンスター寺院で即位式を挙げ、自分に忠誠を誓う者は過去の行動を問わず、その生命と財産を保証するとした。

エドワード6世を名乗ったランバート・シムネル

ヨーク公リチャードを名乗ったパーキン・ウォーベック

即位後は、ヘンリー7世の王位継承権の疑惑(テューダー朝を参照)から王位を僭称するものが相次いだ。1486年にはランバート・シムネルがリチャード3世の旧支持者たちに擁立されて、本物は幽閉中であったウォリック伯エドワードと名乗り、翌1487年にダブリンで国王エドワード6世を称した。これにエドワード4世の妹ブルゴーニュ公シャルル妃マーガレットや、先に助命したリンカーン伯などが味方して王位要求の軍を起こすが、ストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世に敗れた。シムネルは捕らえられたが、大人に操られただけだとして刑を免じられ、厨房の召使とされた[7]。リンカーン伯は戦死した。

1490年にはパーキン・ウォーベックがエドワード4世の次男ヨーク公リチャードを名乗って国王リチャード4世を自称し、再びブルゴーニュ公妃マーガレットの支持を得てイングランドへ侵攻し、フランス王シャルル8世やスコットランド王ジェームズ4世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世などを巻き込んで国際的な問題となったが敗れて捕えられた。幽閉していたウォリック伯エドワードとパーキン・ウォーベックは1499年に脱走を図って失敗し処刑された。エドワードの姉マーガレット・ポールは再び助命されたが、後にヘンリー8世によって処刑されることになる。

経済[編集]

前任の王たちと違い、ヘンリー7世には即位まで領地の経営や財政運営の経験がなかった。だが在位期間を通じて財政担当者を変えず、事実上破産していたイングランドの財政運営に安定をもたらした。厳しい徴税によって歳入を安定させ、貨幣と度量衡を統一した。ネーデルランドとは自由貿易の通商条約を結び、イングランドとの貿易の特権を有していたヴェネツィア共和国やハンザ同盟に対しては強硬な態度に出て自主権の回復に努めた。毛織物工業を盛んにするため、羊毛関税を上げ、ネーデルランドから職人を招聘した。顧問官らを用い、不当な手続きにより貴族や商人の富裕層らに罪を着せ、罰金を課して財政を豊かにしかつ統制を図った。大司教ジョン・モートンが協力者として知られている(モートンの熊手)。

外交[編集]

ヘンリー7世の外交政策は平和の維持による繁栄であった。前任の王たちが失ったフランス内の領土を奪回しようとはせず、フランスと条約を結び、イングランド王への僭称者を支持しないよう図った。海軍の重要性を理解し、世界初の乾ドックを建設して、貿易を振興した。

カスティーリャ王国とアラゴン王国が連合したスペインの重要さを認識し、メジナデルカンポ条約を結んで王太子のアーサー・テューダーをスペインの王女キャサリン・オブ・アラゴンと婚約させた。またスコットランド王国と平和条約を結んで娘のマーガレットを国王ジェームズ4世と婚約させた。後にこれは、ジェームズ1世によるイングランドとスコットランドの同君連合につながることになる。

さらに、ヘンリー7世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と同盟し、ローマ教皇インノケンティウス8世を説得して王位僭称者たちを破門させることに成功した。

司法[編集]

ヘンリー7世の肖像画の16世紀後半の模写

薔薇戦争の後で、王室の権威を回復することがヘンリー7世の課題であった。当時は封建制度のもとで、封建貴族が俸給を払って家臣団を率い、家臣が法廷に引き出された時には、貴族が法を曲げることがしばしばであった。ヘンリー7世は貴族が家臣団を率いないことを宣誓させた。星室裁判所(Star Chamber、星法庁、星室庁とも訳される)を用いて、貴族の専横を裁き、コモン・ローでは扱えないあらゆる事件を迅速に処理した。全国のあらゆる地域で無給1年任期の治安判事を任命して、法の順守を徹底させた。

晩年と崩御[編集]

崩御の床のヘンリー7世

粟粒熱によって王太子アーサーを1502年に亡くし[8]、次男のヨーク公ヘンリー王子が世継ぎとなった。スペインとの同盟を維持するため、アーサーの未亡人となったスペイン王女キャサリン・オブ・アラゴンとヘンリー王子との結婚のための特別免除をローマ教皇ユリウス2世から得た。兄弟の妻をめとることは、聖書の教えに抵触する恐れがあったためである。エリザベス王妃が薨去し、ヘンリー7世自身がキャサリンと結婚することも考慮されたが実現には至らなかった。キャサリンの持参金の支払いが遅れ、かつスペインのイサベル1世が崩御して娘のキャサリンの立場が弱まったため、王はヘンリー王子の婚姻を外交交渉のカードとして用いた。ヘンリー7世の存命中は王子との婚儀は行われなかった。

結核により、1509年4月21日、ヘンリー7世はリッチモンド宮殿において52歳で崩御し、ヘンリー8世が後を継いだ。

ヘンリー7世は王妃エリザベス・オブ・ヨークとの間に4男4女をもうけたが成長したのは4人である。

ヨーク朝

テューダー朝

ヘンリー7世を扱ったフィクション[編集]

  1. ^ Henry VII king of England Encyclopædia Britannica
  2. ^ Caroline Rogers and Roger Turvey, Henry VII, London: Hodder Murray, 2005
  3. ^ Chrimes, S.B. Henry VII. p. 3.
  4. ^ Davies, Norman. The Isles – A History. pp. 337–379
  5. ^ Williams, Neville. The Life and Times of Henry VII. p. 25.
  6. ^ ヘンリーの軍の規模には様々な推定がある。Williams, Neville. The Life and Times of Henry VII. p. 31., では6000の兵だったとされている。
  7. ^ Williams, Neville. The Life and Times of Henry VII. p. 62
  8. ^ Thomas Penn. Winter King – Henry VII and The Dawn of Tudor England. p. 70. Simon & Schuster, 2011

関連項目[編集]