紀貫之 – Wikipedia

紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。官位は従五位上・木工権頭、贈従二位。『古今和歌集』の選者の一人で[1]、三十六歌仙の一人。

幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという[注釈 1]。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。

延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。

日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集[2]しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。

散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。

貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」と称されたという。その遺址は現在の京都御所富小路広場に当たる。

逸話・説話[編集]

『大鏡』によると、その和歌の腕前は非常に尊重されていたらしく、天慶6年(943年)正月に大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。

『袋草紙』などでは、貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっている。

『三十六人歌仙伝』などによる(明治5年12月2日までは旧暦)。

  • 父:紀望行
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:紀時文
    • 女子:紀内侍
    • 女子:不詳 – 土佐にて夭折
  • 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん(古今2)
  • 霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける(古今9)
  • さくら花ちりぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける(古今89)
  • 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(百人一首35)
  • 吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし(古今471)

墓所[編集]

裳立山の紀貫之の墓

滋賀県大津市、比叡山中腹の裳立山にある。比叡山鉄道坂本ケーブルのもたて山駅から徒歩10分ほどあり、道標も完備されている。

神社[編集]

紀貫之を主祭神として祀る神社が各地に存在する。

参考文献[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 荒俣宏は、くそは不浄であり、悪鬼の類ですらこれを嫌うものであるため、鬼魔の害を避ける方法として幼児に「マル」(不浄をいれる容器)や「クソ」(不浄そのもの)の名をつける親が現れたと論じている。荒俣(1994)

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]