駒沢利斎 – Wikipedia
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駒沢利斎(こまざわ りさい)は千家十職の一つ。三千家御用達の棚や香合、炉縁などを製作する指物師が代々継承する名跡である。
当代は14代が1977年(昭和52年)に逝去後、長く空席が続いており、14代の甥の息子である吉田博三が後を嗣ぐべく修行中である。
初代・宗源が延宝年間に指物業を始めたのが最初とされる。
千家に関わったのは2代・宗慶からで、千宗旦の注文により指物を製作したと言われる。しかし、積極的に千家に関わるのは4代・利斎からである。彼は表千家六世・覚々斎の知遇を得て千家出入りの茶方指物師として指名され、「利斎」の名を与えられた。これ以後、代々の駒沢家当主は「利斎」を名乗るようになる。
江戸時代後期に活躍した7代・利斎は指物だけではなく塗師としても一流の腕を持ち、8代黒田正玄や11代飛来一閑らと合作を作るなど意欲的に製作を行い、長寿にも恵まれ「駒沢家中興の祖」といわれる。
その後は大成する前に早世する当主が相次ぐ。13代・利斎は70歳まで生きたものの、晩年に儲けた息子に先立たれると言う不幸にあう。13代の死後、妻であった浪江は娘・千代子を後継者とするべく家業の継承を決意、14代・利斎となるが、その千代子も1961年(昭和36年)に早世、14代も昭和52年に死去、以後現在に至るまで名跡は空席となっている。
歴代の順序は、説によって順序に異動がある。ここでは「駒沢利斎」の後見人となっている吉田一三(14代の甥、博三の父)の説に従う。
- 初代 宗源(生没年未詳)
- 字「理右衛門」
- 字「理右衛門」
- 字「理右衛門」「利兵衛」
- 三代の婿養子。初めて「利斎」を名乗る。歴代の墓地を妙顕寺に移し日蓮宗に改宗。駒沢家初代とする説もある。
- 隠居後「春斎」を名乗る
- 十次郎 六代の長男、別名「竹次郎」。1798年(寛政10年)に32歳で早世。
- 字「茂兵衛」諱「信邦」。表千家9世・了々斎より「曲尺亭」の号を、1840年(天保11年)隠居の際に表千家10代・吸江斎より「少斎」の号を授かる。
- 六代の息子・十次郎の長男。天保11年に襲名するも、わずか6年後に死去。
- 幼名「十次郎」「寿次郎」、字「理右衛門」。七代・利斎の息子。
- 字「重次郎」八代・利斎の長男。26歳で早世。以後先代の弟子の1人である岡本喜助が、亡くなる1868年(明治元年)8月まで後見を務める。
- 後見・岡本喜助の息子、十代・利斎の婿養子。歴代の中で最も茶の湯に精通した人物といわれる。富岡鉄斎と親交があった。
- 十二代 利斎(1876年(明治9年) – 1896年(明治29年))
- 名「利三郎」、十一代の長男。父に先立ち早世。
- 十三代 利斎(1883年(明治16年) – 1952年(昭和27年)8月)
- 名「重次郎」、十一代の次男、十二代の弟。
- 十四代 尼利斎(1908年(明治41年) – 1977年(昭和52年)6月)
- 名「浪江」、十三代の妻。
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
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