崔益鉉 – Wikipedia
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崔益鉉 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 최익현 |
漢字: | 崔益鉉 |
発音: | チェ・イッキョン |
日本語読み: | さい えきげん |
ローマ字: | Choe Ik-hyeon |
崔 益鉉(チェ・イッキョン、さい えきげん、ハングル: 최익현、1834年1月14日(時憲暦道光13年12月5日) – 1907年1月1日(時憲暦光武11年11月17日))は、李氏朝鮮末期の儒学者・政治家。保守的な国粋主義者で衛正斥邪運動・抗日義兵闘争を指揮したために日本によって捕えられた。字は賛謙、号は勉庵。京畿道抱川出身。本貫は慶州崔氏。
14歳で李恒老のもとで朱子学を学んだ後、1855年に文科に合格して官途につく。1873年に国王高宗の父の興宣大院君の財政政策と鎖国攘夷政策を非難する上疏を提出、大院君失脚の政変(癸酉政変)のきっかけを作ったが、崔益鉉は2年間済州島で流刑生活を送った。だが、彼の大院君批判は方法論の問題であり、鎖国攘夷の路線についてはむしろ強硬論の立場に立ち、1876年の日朝修好条規締結に際しては斧の担いで宮廷前に現れてこれを激しく非難した。だが、その過激行動を理由に今度は黒山島に流される。3年後に許されるものの、現状に失望して故郷に戻り、甲午改革反対論、断髪令拒否を唱えた。1896年と1898年に再出仕を求められるが、日本や独立協会を非難する意見書を出してすぐに辞任した。
第二次日韓協約締結直前、高宗の要請に抗し難く、再出仕に応じるものの、反日運動家として日本側によって捕えられて漢城から追放されてしまう。
1906年6月、全羅北道泰仁(現在の井邑市泰仁面)で門人とともに義兵を挙げるが、日本陸軍によって捕えられて日本の対馬に連行されてしまう。だが、日本に連行されてもなお抗議の断食を続けて間もなく没した。
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