国民和解のための大会議 – Wikipedia

国民和解のための大会議(英:Grand Conference on National Reconciliation)は、ソマリランドの治安回復のため、1993年1月24日から同年5月の間に、ソマリランドの各氏族の長老がソマリランドのボラマ(ボロマ)で開催した会議。一般には開催地を取ってボラマ会議、ボロマ会議とも呼ばれる。 開催までの経緯[編集] 1991年にソマリア内戦が勃発すると、5月に旧イギリス領ソマリランド地域でソマリ国民運動(SNM)が北部人大会議をブラオで開催し、1960年の南北ソマリア合併条約を放棄し、ソマリランド共和国の独立を宣言した。暫定大統領にはSNM議長のアブドゥラフマン・アリ・トゥールが就任したものの、国際的な国家承認が無いため、ソマリランドは経済的に非常に困窮していた。 同年末からは主要都市で北部の有力氏族イサックの主流派支族とそれ以外の支族との間で軍事衝突が起こるなどして、SNM政府は機能不全に陥った。 会議開催[編集] 政府に代わって治安回復に取り組んだのは氏族の長老から成る会議 (Guurti) [1]であった。長老会議は1991年から1993年までの間に9回行われてきていたが、1993年1月24日から同年5月の間にボラマで開催された会議は「国民和解のための大会議」と呼ばれ、全氏族の長老150名が出席し、ソマリランド全体の長老会議という形態をとった。 会議では、武装民兵の武器を民兵ごと政府の管轄に置き、国軍に1万人、警察に5千人、刑務所看守に5千人配分し、残る3万人は武器を軍に渡して民間に戻るという計画を中心とした治安維持計画・「安全と平和憲章」や、2年間の暫定憲法に相当する「国民憲章」を採択した。 国民憲章の概要は次のとおり[2]。 政府(執行評議会)と、非公選の長老院と選挙により選出される下院からなる二院制の議会を設置(10条)。ここでは、西洋の制度とソマリアの「伝統」的な氏族代表の制度を融合したビール(beel)体制という全会一致方式を採用した形をとることになった。 平和維持に当たる長老院は、大統領、副大統領、下院議員の任命権を有し、国家諸機関が機能不全に陥った場合には問題解決のための会議の開催権を有する。 裁判所、会計検査院、中央銀行等の設置。 国民憲章にのっとり、1993年6月にイブラヒム・エガル(Muhammad Haji Ibrahim

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放射能汚染 – Wikipedia

放射能標識 (三つ葉模様). 放射能汚染(ほうしゃのうおせん、英: radioactive contamination, radiological contamination)とは、放射性物質によって望まれない場所や物質(表面、固体、液体、気体、および、人体を含む)が汚染されること、または、その放射性物質の存在を指す[1][2]。量、つまり、表面上(単位表面積)の放射能を指す言葉として用いることは、あまり、正式には行われていない。 放射能汚染の語は、意図せず、望まれない放射能が存在すること示してはいるが、関係する危険性の大きさについて具体的な指標を与えるものではない。 最安定同位体の半減期によって色づけされた元素の周期表。半減期が短いほど同質量だけ存在したときに放射能が強くなる。   安定元素;   長寿命同位体の放射性元素。半減期400万年以上では、無視できるとまではいかないが、とても小さい放射能を与える。;   低度の健康被害を起こすかもしれない放射性元素。最安定同位体の半減期は、800年から34000年の間にある。そのため、通常、いくつかの商業的応用がある。;   安全性に関するリスクを引き起こすことで知られている放射性元素。最安定同位体は一日から103年の間に半減期を持つ。これらの放射能は商業用途の可能性はほとんどない。;   高度の放射性元素。最安定同位体は一日から数分の間に半減期を持つ。それらは厳しい健康リスクを引き起こす。基礎研究外での使用はわずか。;   極度の放射性元素。極端な不安定性と放射能によって、これらの元素に関してはほとんど知られていない。 放射能汚染は、通常、過剰なエネルギーを持った不安定な核種である放射性核種(放射性同位体)を生産したり、使用している間に、漏洩や事故によって生じる。通常のことではないが、放射性降下物は核爆発によって放射能汚染が分布している。事故によって放出された放射性物質の量は、ソースターム(source term)と呼ばれる。 汚染は、放射性の気体、液体または粒子から見出される可能性がある。例えば、核医学に使われている放射性核種が事故で漏れれば、その物質は人が歩き回ることによって拡散する可能性がある。 放射能汚染は、核の再処理中における放射性キセノンの放出のような、避けられない過程の不可避の結果である可能性もある。放射性物質を封じ込めることができない場合でも、安全な濃度にまで希釈できる可能性はある。アルファ放射体による環境汚染の議論に関しては、環境中のアクチノイド(actinides in

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八月のクリスマス – Wikipedia

この項目では、1998年の韓国映画について説明しています。この映画をリメイクした2005年の日本映画については「8月のクリスマス」をご覧ください。 『八月のクリスマス』(はちがつのクリスマス、原題:8월의 크리스마스)は、1998年に製作および公開された韓国映画。 ホ・ジノの初監督作品。ある静かな町で写真館を営む青年のユ・ジョンウォン(ハン・ソッキュ)と、駐車違反取締員のキム・タリム(シム・ウナ)の静かな愛の物語であり、「死」という重いテーマの中に優しく儚い「恋」を描いた悲恋物語。 2005年、日本で『8月のクリスマス』としてリメイクされている。 ストーリー[編集] 不治の病で余命いくばくもなく、自分の死期が分かっていながら淡々と残りの人生を過ごしている男・ジョンウォン。彼の営む小さな写真館に、違法駐車取り締まり員の女性タリムが急ぎの現像を頼みに来店する。こうして出会った2人はおしゃべりを楽しむようになり、次第に心惹かれあっていくが…。 キャスト[編集] スタッフ[編集] 監督:ホ・ジノ 製作:チャ・スンジェ 脚本:ホ・ジノ、オ・スンウク、シン・ドンファン 撮影:ユ・ヨンギル 美術:キム・ジンハン 音楽:チョ・ソンウ 編集:ハム・ソンウォン 録音:キム・ボムス 外部リンク[編集]

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韓国のバス – Wikipedia

ソウル市内の一般路線バスの例 韓国のバス(かんこくのバス)は、大韓民国のバス事情について述べる。 路線バスの運行形態[編集] 韓国の路線バスは大別して、高速バス、市外バス、市内バスの3種類に分けられており、それぞれ認可する官署が異なっている(高速バスは国、市外バスは道、市内バスは市(広域市・特別市を含む)、郡内バス・農漁村バスは郡である)。車両については高速バス・市外バスは基本的にリクライニングの座席が並ぶタイプであり、市内バスは通勤型と座席型の両方がある。冷暖房は基本的に備わっているが、地方の市内バスでは一部非冷房車もまだ存在する。 国土が狭い土地柄、市同士を結ぶ高速バス、市外バスはほぼ全ての市に向かう便があるため、網の目状に結ばれているが、市と郡を結ぶ市外バスはソウル特別市と、かつてはその道に属していた広域市と、道の中心都市を結ぶ便しかない。 なお、ソウル特別市とその外郭地域では、2004年7月に大規模な運行システムの変更が行われた。その後、2006年12月には光州広域市でも似たような新しいシステムが導入されている(後述)。 2011年下半期から路線バスを運転する際には第一種大型免許だけではなく、バス運転資格が必要になる。[1] 高速バス[編集] 高速バスの例(錦湖高速 現代エアロスペースLS) 高速バス (고속버스)は運行区間の60%が高速道路であるバスとされる。ソウルと京畿道以遠の地方都市とを結ぶ路線や中・長距離の都市間を結ぶ路線などで運行される。なお、広義の「市外バス」は、後に述べる(狭義の)市外バスのみならず、この高速バスをも含む。 韓国の高速バスは基本的に法律により、途中停車は許容されていないが、例外として起点又は終点と同じ行政区域や乗り換え指定SA等に限って停車が許容されている。 かつては、行先表示器を装備している車両はほとんど見受けられず、フロントガラスの内側に行き先表示板を掲げている場合が多かった。近年では、LED式の行先表示機を設置している車両が増えている。高速バスの場合、アルファベット、漢字でも行き先を併記していることが多い。 乗車前に乗車券を購入する必要がある。座席は乗車券入手時に全て指定される[2]。長距離の路線では途中休憩所で10~15分ほど休憩することが出来る。車内には基本的に化粧室は無い。座席や運行時間によって以下のような区分がある。 一般高速バス (일반고속버스/イルパンコソクポス) 横4列(2列+2列)の通常タイプの座席。一台の座席数は45席前後。 優等高速バス (우등고속버스/ウドゥンコソクポス) 座席は2列+1列の横3列。シートの幅がゆったりとしており、前後の座席の間隔も一般高速バスよりやや広い。一台の座席数は27席前後。

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折り本 – Wikipedia

この項目では、製本方法の一種(帖装本)について説明しています。製本工程の折り丁については「製本」をご覧ください。 折り本(おりほん)とは、横に長くつなぎ合わせた紙を一定間隔で折り畳んで作った蛇腹状の本。折本(おりほん)と表記することもある[1]。装丁法は折本装本といい、この装丁法を折本ということもある[2]。 紙の本の体裁のうち最も古いものは巻子装本(巻子本)である[3]。この巻子本を一定間隔で折ると折り本となることから、巻子本の変形したものと言える[1]。巻子装は閲覧・検索に不便であることから、巻子装本から軸を取り外し本文料紙を一定の行数で折りたたんだ形態の折本装本(折本)が生まれた[2]。 糸で綴じる製本方法に比べると簡易な製本方法で、主に本のおまけや、習字の手本、版経などに多い[1]。 式辞の用紙も折り本式になっていることが多い。かつては預金通帳にもこの形式が使われた。 折本の起源は定かでないが、この形態が本格的に普及したのは11世紀初頭の中国・北宋時代とされている[2]。983年に完成した勅版の一切経は巻子装であったが、1080年頃に成立した福州東禅等覚院版(東禅寺版)は折本で出版され、以降の一切経は折本で出版されることが一般的になった[2]。このような装丁の変更は披見の便を考慮したものと考えられている[4]。 日本では鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて巻子の形式の古写本(主に奈良・平安時代の古写経)の折本への改装が全国的に行われた[4]。これには転読(経典の全部を読経する真読に対して経典の題名だけを読み上げる略式の読経をいう)の流行が背景にあるといわれている[4]。 外国の折り本[編集] 折り本と同様の製本スタイルは外国にも存在する。西洋では、蛇腹楽器の形状になぞらえて「コンサーティーナ・ブック」 (concertina book) もしくは「アコーディオン・ブック」 (accordion book) と呼ばれる。 ^ a b c 春名好重

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スターコントロール – Wikipedia

スターコントロールシリーズは、熱狂的ファンを持つアメリカのコンピューターゲーム三部作。 1対1の対戦型シューティング要素をベースとし、作品によってストラテジー要素かアドベンチャー要素を含む。 スターコントロール[編集] スターコントロール(Star Control: Famous Battles of the Ur-Quan Conflict)は、スターコントロールシリーズの第一作。略称はSC1。 自由星同盟とア・クアン ヒエラルキーという2つの陣営が戦う、という設定。 対戦型シューティング要素とストラテジー要素を持つが、(簡単な背景情報は除くとして)具体的なストーリーなどはほとんど語られなかった。 開発元はToys for Bob社、発売元はAccolade社。 1990年にMS-DOSとAmiga用ソフトとして登場し、1991年にはGenesis版もリリースされ、その他の機種版も登場した。 スターコントロールII[編集] スターコントロールII(Star

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日本電信電話 – Wikipedia

「NTT」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「NTT (曖昧さ回避)」をご覧ください。 この項目では、現在の日本電信電話株式会社 (NTT) について説明しています。前身の公共企業体(電電公社)については「日本電信電話公社」を、グローバル持株会社・NTT株式会社については「NTT (持株会社)」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “日本電信電話” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年3月) 日本電信電話株式会社(にっぽんでんしんでんわ、英: NIPPON TELEGRAPH AND TELEPHONE

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北海幹線用水路 – Wikipedia

北海幹線用水路(ほっかいかんせんようすいろ)は、北海道の空知平野を潤す農業専用の用水路である。2004年に北海道遺産第二回選定分に選定された。 北海道赤平市住吉地点にある北海頭首工で石狩川水系の空知川から分水し、しばらく空知川と並行し石狩川と合流したあたりから、北海道道227号赤平滝川線に沿って流下する。いくつかの河川を水路橋やサイフォンで越え、自然流下のため蛇行しながら南へ流れる。三笠市岡山付近で桂沢ダムを水源にする市来知幹線(用水路)を合わせ、最終的には南幌町まで達する。水路の全長は約80kmあり、空知管内の約1万6500haの水田に水を供給している。 流域の自治体[編集] 北海道 赤平市、砂川市、空知郡奈井江町、美唄市、三笠市、岩見沢市、空知郡南幌町 河川施設[編集] 北海頭首工(赤平市) – 石狩川水系空知川から取水する頭首工。 焼山水路橋(砂川市) – 歌志内の北光一の沢をまたぐ水路橋。長さ62.5メートル。 ペンケ水路橋(砂川市) – ペンケウタシナイ(ペンケ歌志内)川をまたぐコンクリート製の水路橋。長さ約130メートル。 光珠内調整池(美唄市) – 北海幹線用水路のほぼ中央に位置する調整池。貯水量約150万トン、貯水面積約36万立方メートル。 市来知幹線(三笠市) –

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石斧 – Wikipedia

石斧(いしおの、せきふ)は石器の一種で木の柄に取り付けた石製の斧。後期旧石器・縄文・弥生時代において主に樹木の伐採や土掘り、農耕用として使われた。 縦斧と横斧[編集] 斧は縦斧と横斧の二つに大きく分けることができる。縦斧は刃が柄と平行、または柄と刃部が一直線に、横斧は刃と柄が直交するように付けられている[1]。一般には縦斧(平行刃斧)を斧(オノ)、横斧(直交刃斧)を手斧(チョウナ)と呼んでいる。しかし、両者をオノと呼ぶことが多い。鉞(マサカリ)は大型の縦斧(平行刃斧)である[2]。 製作方法とその変遷(日本における例)[編集] 石斧の作り方に打製と磨製がある。礫の自然面をほとんど残し、打製か磨製、あるいはその両方によって刃を付けた程度のものは、「礫器」、「礫斧」(れきふ)と呼ばれる。礫斧のうち刃を磨いたものを「局部磨製石斧」あるいは「刃部磨製石器」または「刃部磨製礫器」という[3]。 旧石器時代[編集] 後期旧石器時代では打製石斧もしくは局部磨製石斧がつくられた。先土器文化における石斧は「斧形石器」「楕円形石器」と呼ばれているが、扁平な円礫あるいは大きな礫を打ち割った剥片の周辺を打撃して形を整えたものである。局部磨製石斧とは、刃の部分だけを磨いて実用に供したものである。片刃がやや多いが両刃も少なくない。先土器時代の末期から縄文時代の草創期にかけては断面三角形またはカマボコ形を呈する片刃の御子柴型石斧が盛行する。これはロシア沿海州やシベリア地方との関連の深い遺物と考えられている。 縄文時代[編集] 縄文時代に入ってこれらに加え磨製石斧が作られた。旧石器時代からの刃部のみの研磨された局部磨製石斧はだんだん姿を消していく。全面研磨されたものは草創期に出現する。縄文時代早期から前期にかけての北日本では、砥石状工具を用いた擦切技法(すりきりぎほう)が発展する。しかし、この技法は縄文時代中期末にほぼ消滅する。擦切技法の石斧とともに定角式磨製石斧も現れるが、この石斧が定型的な形を持ち、広い分布と出土量の多さを示してくるのは縄文中期末頃である。縄文後期になると、長さ2~2.5cmの磨製石斧のミニチュアがみられるようになる。小さいながらきわめて精巧にできているものが多く、研磨も行き届いて美麗なものが増える。なかには穴を空けたものもあり、とても実用品とは思われない。縄文後期・晩期になると呪術的な遺物が著しく発達することからも、磨製石斧も儀器や装飾品としての意味合いを濃くしたものと考えられる。 いっぽう打製石斧は、縄文時代早期末に、三味線の撥(バチ)に似た形状で、鋭い剥離面を刃部とした片刃の石斧が北日本にみられ、それは「直刃斧」あるいは「トランシェ様石器」といわれ、後世の「手斧」のような使用が考えられる。縄文中期中葉以降、関東地方や中部地方では打製石斧の数量が爆発的に増加するが、形状は短冊形、撥形、分銅形のものが多く、これらは垂直に打ち下ろす「斧」には向いていない。乳棒状磨製石斧や定角式磨製石斧など伐採具に適した道具が他にあることからも土掘りの道具と考えられている。 縄文時代中期の打製石斧の製作所跡としては熊本県合志市二子山が知られている。粗割りの後、次の作業工程に都合良くしたり、さらに打撃を加えて整形したりする工程が四つほどに分けられる。そして、その場で完成品を製作するのではなく、未完成のまま各集落に運ばれる[3]。 弥生時代[編集] 磨製石斧は、原石を粗割りして打撃で整えた後、磨くことが多い。例えば、太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)は、大まかに粗割りした後、打撃を加えて形を整え、こつこつと敲いて全面を平らにした後、磨く。つまり、粗割り・敲打・琢磨の段階を経て完成される。基部近くは粗く磨き(grind)、刃部はていねいに磨く(polish)。完成品の身の一部には敲打(こうだ)の痕跡をとどめることも多い。例としては、北九州では福岡市西区今宿の今山・今津の太型蛤刃石斧製作跡がある。ここでは、製品としてしあげられ、広い範囲にもたらされている。畿内では大集落の多くで未製品が見られるから未製品のままで各地に運ばれたと見られる[3]。 用途とその広がり[編集] 旧石器時代の局部磨製石斧は、大型獣の狩猟や解体、木の伐採や切断、土掘りなど多目的に用いたもので、局部を磨いたのは土や木から斧を抜き取る際、いくらかでもスムーズに抜けるよう工夫したものであろう。 縄文時代に入って定住生活が一般化すると、用途に応じた打製石斧・磨製石斧、大小や形状さまざまの石斧がつくられるようになった。打製石斧は、中期以降土掘り具としての利用が主流をなすとみられる。このことからかつて「縄文農耕」が唱えられたこともあったが、少なくとも根茎類採集が生活において重要な位置を占めるに至ったことを示すものであることは確かとみられる。いっぽう、磨きの技術も徐々に発展し、精緻な磨製石斧も現れる。伐採や木材加工用の実用品のほか、祭祀につかわれたものも増える。 弥生時代中期後半の畿内で、太型蛤刃石斧の使用が頂点に達し、大多数が使い古した状況で見つかる。長い元のままの場合は例外的である。短くなっており、刃がすり減ったり、割れたりしているものが多い。この石斧の材料が輝石・閃緑岩など、重い深成岩からできているためである。扁平片刃石斧は、まだ使える状況のまま残っている。これは、石斧の役割が鉄斧に遷っていったことを意味する。東海・南関東においても弥生中期後半には鉄斧が普及しており、さらに、この時期に戦争が始まっていたと考えられている。統合への道を歩み始めていたと考えられる。 秋田県東成瀬村の上掵遺跡からは、長さ60.2cm、重さ4.4kgの世界最大級の磨製石斧(緑色凝灰岩製)が出土している。縄文時代前期の遺物とみられるが、使用痕跡もなく、祭祀のための遺物と考えられる。 北海道伊達市の北黄金貝塚からは、軽石製の磨製石斧が出土している。これも実用されたのではない。縄文時代後期の作と考えられる。 『ギャートルズ』など一部の漫画で、木の柄に紐で石斧をくくり付けた道具が、動物の捕殺や闘争などに使われる場面が描かれているが、柄に紐で固定しただけでは強度・耐久性が不充分で使用に耐えない。このような道具が実際に用いられた事はない。

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