松平忠直 – Wikipedia

松平 忠直(まつだいら ただなお)は、江戸時代前期の大名。越前国北ノ庄(福井)藩主。官位は従三位・参議、左近衛権中将、越前守。徳川家康の孫、徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。

文禄4年(1595年)、摂津国東成郡生魂にて、結城秀康の長男として誕生。母は側室の中川氏。

慶長8年(1603年)、江戸参勤のおりに叔父で江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初御目見する。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。慶長12年(1607年)、父・秀康の死に伴って越前75万石を相続し、慶長16年(1611年)には秀忠の娘・勝姫を正室に迎える。元服の際には秀忠より偏諱を受け、忠直と名乗る。

慶長17年(1612年)冬、重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。祖父徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村盛次(掃部)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。翌慶長18年(1613年)6月、家中騒動で再び直訴のことがあり、遂に富正が越前の国政を執ることとされ、加えて富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは騒動が重なるのは忠直が、まだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである(越前騒動)[注釈 1]

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁とされる首級を確保し、大坂城に攻め入る[注釈 2]などの戦功を挙げた。しかし、戦後の論功行賞に不満を抱き、次第に幕府への不満を募らせていった。元和7年(1621年)、病のために江戸への参勤ができず、その後回復したために出立したが途中で引き返している[注釈 3]。幕府の秀忠から病状を尋ねる使者として、元家臣の近藤用可が派遣されている。翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企てたとされ、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。

元和9年(1623年)、将軍秀忠は忠直に隠居を命じた。隠居に応じない場合は軍勢を以て成敗すると脅し、秋田の佐竹義宣や加賀の前田利常には出陣の用意を要請している。忠直は生母の説得もあって隠居に応じ、隠居後は出家して一伯と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後国府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。府内藩では領内の5,000石を与えられ、初め海沿いの萩原に住まい、3年後に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原では海路での逃走の恐れがあったためとも言われる[3][4][5]。竹中重義が別件で誅罰されると、代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。

慶安3年(1650年)に卒去、享年56。

官職位階の履歴[編集]

※日付=旧暦

  • 1605年(慶長10年)9月10日、従四位下に叙位。侍従に任官し、三河守を兼任。
  • 1606年(慶長11年)3月3日、右近衛権少将に転任。三河守如元。
  • 1607年(慶長12年)閏4月27日、家督相続し、藩主となる。
  • 1611年(慶長16年)3月20日、左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。
  • 1615年(元和元年)閏6月19日、従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
  • 月日不詳、参議辞職。左近衛権中将・越前守如元。
  • 正室:勝姫(天崇院) – 徳川秀忠三女
  • 側室:おつる
  • 側室:蕙林院 – 平賀治郎右衛門娘
  • 側室:小糸(自性院)

偏諱を受けた人物[編集]

忠直時代

登場作品[編集]

墓所・遺品[編集]

墓所[編集]

遺品[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「越前の国に騒動の事起こりて以ての外に騒動す……」
  2. ^ この時、忠直自身も首を一つ取ったという。この時の越前藩兵の勇戦ぶりを「かかれかかれ越前衆、たんだかかれの越前衆 命知らずの嬬黒の旗」と詠んだ歌もある。
  3. ^ 仮病や気鬱だと言われるが、ただし郷土資料である『片聾記』に元和6年(1620年)に忠直が発病したという記録があるため、元和7年の参勤を行わなかったことは恩賞に対する不満などではない可能性もある。
  4. ^ 系図纂要などの系図には記載されていない。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 中村孝也 『徳川家康の族葉』 講談社、1965年。 
  • 新井白石 『新編 藩翰譜』 第一巻 人物往来社、1967年。 

関連小説[編集]

外部リンク[編集]