金載圭 – Wikipedia

金 載圭(キム・ジェギュ、1926年3月6日 – 1980年5月24日)は、大韓民国の軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。大韓民国中央情報部(KCIA)第8代部長。日本名は金本 元一(かねもと もとかず)。1979年10月26日、朴正煕大統領ら2名を射殺した朴正煕暗殺事件を起こし、翌年に絞首刑に処された。号は德山。本貫は金寧金氏

慶尚北道善山(現・亀尾市)出身。八人兄弟の長男として生まれた。第二次世界大戦中は日本名:金本元一を名乗り、特別幹部候補生第1期(航空整備)出身の整備兵として日本陸軍に従軍。陸軍航空部隊の第1錬成飛行隊にて四式戦闘機「疾風」のハ45の教育を受けていた。

朴正煕とは同郷で、国防警備隊士官学校では同期生であるが、9歳年下。1950年3月、少領(少佐)に昇進して第3師団第22連隊第2大隊長[2]。朝鮮戦争では浦項の戦いなどに参加している。第5師団参謀長、第36連隊長を経て、第3師団副師団長となる[2]。1957年8月、第1軍司令官宋堯讃中将に部隊状況を報告した際に、宋堯讃から「第1軍傘下にこのような無能将校がいるのか。24時間以内に包みを包んで軍を去れ」と侮辱的な叱責を受けて退役しようとするが、この報を聞いた李鍾賛に引き留められ陸軍大学学生監督官となる[3]。後に准将昇進と同時に陸軍大学副総長。この時の総長金桂元とは後々まで親しく付き合い、朴正煕暗殺の瞬間までともに居合わせることとなった。

1961年に5・16軍事クーデターが起きた時には国防部総務課長だったが、クーデターに加担しなかったために革命軍に連行され調査を受けた[2]。否定事実が無かったため釈放され、湖南肥料社長に任命される[2]。1963年9月、原隊復帰して第6師団長に任命[2]。1965年1月、少将に進級、第6管区司令官を経て、1968年に保安司令官に任命される[2]。1971年9月、第3軍団長。1973年、予備役編入。

朴正煕に縁故人事で引き立てられて立身出世し、1973年に中央情報部次長、1974年9月18日に建設部長官、1976年12月4日には中央情報部長となって大統領の腹心の一人となった。

1979年10月26日夜、酒席の場で朴と車智澈警護室長を射殺した。殺害の動機は詳しくは明らかになっていないが、当時釜山と馬山で起こっていた釜馬民主抗争への対応において、朴のもう一人の腹心であった車の強硬策が採用され、金の立場が脅威に晒されていたためとされる。

事件翌日に逮捕され、軍法会議にて内乱目的殺人および内乱未遂罪により翌1980年1月28日に死刑判決を受け、同年5月24日にソウル拘置所で絞首刑に処された。54歳没。

2016年になって朴槿恵大統領と崔順実の関係露呈(俗に言う崔順実ゲート事件)によって、金載圭の弁護人が控訴審で動機の1つとして「崔太敏(崔順実の父親で新興宗教総裁)へのその時、崔太敏と令嬢・朴槿恵が部屋に入れば、一日中出てこないで如何わし事をしているという疑惑について朴正熙大統領に進言したが、聞き入れなかった[要校閲]
」と述べていたことが発覚した[4][出典無効]。実際に、崔太敏と朴槿恵が部屋に入れば、一日中出てこないという噂があり、中央情報部長だった金が情報報告を朴正煕大統領にしたため朴大統領が二人を呼んで直接訊いた。朴槿恵は崔を心酔して積極的に擁護し、崔は『私たちは霊的な家族や夫婦のようなものであって、肉体に関する浅ましい話はしてくれるな』と言った。この話を朴正煕大統領が聞いて納得し、金に対して『情報を上げるならしっかりしろ』と言っていた[5]

10.26クーデター(朴正煕暗殺事件)の真相や動機については謎が残るが、韓国では、一時的な精神錯乱の暗殺者という評価と、18年の長きにわたった軍事独裁政権に終止符を打った民主化運動の愛国者という全く正反対の評価がある。

2004年、民主化補償審議委員会によって金による朴暗殺が民主化に寄与したか否かが議題として上ったが、全斗煥によるクーデター、並びに後の独裁を招いたとの指摘もあり、最終的な結論に至っていない。

外部リンク[編集]