アルヒープ・クインジ – Wikipedia

アルヒープ・イヴァノヴィチ・クインジАрхип Иванович Куинджи, 1842年(?)1月27日(ユリウス暦1月15日) – 1910年7月24日(ユリウス暦7月11日))は19世紀後半のロシアを代表する、ウクライナ出身の風景画家である。

来歴・人物[編集]

ギリシャ系の靴職人イヴァン・フリストフォロヴィチ・クインジ(姓についてはエメンジ説あり)を父親にマリウポリに生まれるが、6歳で両親に先立たれたため、幼くして自活を余儀なくされた。タガンログに出て、建築現場や穀物小売商に勤め、牧童として働くなどした。

1860年から1865年までの5年間に、タガンログのイサコヴィチ撮影所に写真の修正係として勤め、その後は自分の写真店を開こうとするが果たせなかった。それからタガンログを離れてサンクトペテルブルクに上京する。

もっぱら我流で絵を学ぶが、イワン・アイワゾフスキーにつき、また、1868年からペテルブルク美術アカデミーにも学んでいる。1870年に結成された「移動派」こと巡廻美術展協会の組合員となる。1872年にアカデミーを退学し、フリーの画家として働き始める。最初の作品は、パヴェル・トレチャコフが自分の画廊に展示するため買い入れた「ワラーム列島にて (На острове Валаам)」であった。

初期のクインジはイワン・アイワゾフスキーの影響を受け、海に関連する題材を選んでいたが、やがてそこから離れ、1870年代の半ばに、自然界をモチーフとした数々の風景画を生み出すようになった(その一例が、1874年の「忘れられた村」である)。1873年に「雪」を発表し、翌1874年にロンドン国際美術展で銅メダルを受賞した。

成熟期のクインジは、最も奥深い情感を、自然界のありさまの輝きに置き換えようと熱望した。(高い地平線など)複合的な知覚を応用して、パノラマ的な全景を作り出し、濃淡をつけるのに光の効果や濃密な色を用いて、錯覚の光を描いている(たとえば「ウクライナの夜」[1876年]、「白樺林」と「雷雨の後」[1879年]、「ドニェプル川にかかる月明かり」[1880年]など)。後年の画風は、色彩の層を用いた装飾効果が顕著である。

1892年にペテルブルク美術アカデミーの教授に就任し、1893年には正会員に迎えられ、1894年には風景画のワークショップの講師も兼務した。だが1897年に、学生の抗議を支持した廉で、解任されている。門人には、アルカーディ・ルィコフやニコライ・レーリヒ、コンスタンチン・ボガイェフスキーらがいる。

1909年にA.I.クインジ美術協会を発足させた。

参考文献・外部リンク[編集]