ニコライ・リョーリフ – Wikipedia

ニコライ・コンスタンティノヴィチ・リョーリフ(露: Николай Константинович Рёрихミコラ・コスチャンティノヴィチ・リョーリフウクライナ語: Микола Костянтинович Реріх、1874年10月9日 – 1947年12月13日)は、ドイツ系ロシア人の画家。美術界と法曹界で訓練を積んでおり、文学や哲学、考古学に関心を寄せた知識人でもあった。一般的には、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の着想・構想・舞台デザインに関わった美術家として名高く、しばしば音楽史においてドイツ語名のニコライ・レーリヒ(Nicholas Roerich)で言及されている。

サンクトペテルブルクで裕福な公証人の家庭に生まれ、世界各地で流浪の生涯を送った後、インドのパンジャブで最期を迎えたコスモポリタンである。渡米後は英語風にニコラス(Nicholas)と名乗った。妻であるエレナ夫人英語版ともども神智学の導師として活動し、共同でアグニ・ヨーガ協会を設立した。息子のユーリー・ニコラエーヴィチ英語版ロシア語版はジョージ・ディ・レリック(George de Roerich)の英語名でチベット学の研究者となり、孫のスヴャトスラフ・ニコラエーヴィチ英語版は画家・建築家となった。

海を越えて来た客 (1899年)

前半生[編集]

父親コンスタンチン・リョーリフロシア語版はスウェーデン系とラトビア系の血も引くバルト・ドイツ人、母親マリア・リョーリフロシア語版はテュルク系タタール・ロシア人。

風景画家アルヒープ・クインジの門人。青年時代にウクライナやウクライナ文化英語版と密接なつながりを持ったことから、タラス・シェフチェンコやゴーゴリ、ニコライ・コストマロフ英語版らといった同時代のウクライナの芸術家や知識人の影響を受けており、愛読書がシェフチェンコの詩、『コブザール英語版』(コサックの吟遊詩人)であったことをリョーリフは認めている。初めて学んだ絵画教室は、シェフチェンコが入ったのと同じ教室であった。「Покрова」のスケッチは1903年から1906年の間にかけてキエフで制作され、1910年には名高いペチャルシク・ラヴラ地区のトロイツキー大聖堂のためにモザイクも制作している。

リョーリフは、ストラヴィンスキーの《春の祭典》のための舞台デザインも手がけている。古代の異教時代のルーシをモチーフにしたこの作品は、デザインがあまりに革新的であったことで多くの反響を呼んだ。1913年のパリ初演では、賛否の分かれる大騒動をひき起こし音楽史上の画期的な事件となったが、上演が成功するにせよスキャンダルに終わるにせよ、ストラヴィンスキーの音楽やヴァーツラフ・ニジンスキーの振付けと共々相俟って、リョーリフのデザインが重要な要素となったのである。

ニコライ・リョーリフは彼の73年間の人生のうち、彼はサンクトペテルブルクに42年間住み、この素晴らしい街との精神的なつながりを永遠に重んじた。このニコライ・リョーリフの人生の時期についてより詳しくはモスクワにあるリョーリフ博物館のペテルブルクホールで描かれている。

米国[編集]

1920年に最初のニューヨーク入りを果たす。夫妻ともども米国中を廻った後、ニューヨーク市に居を構え、美術学校を設立する。さまざまな神智学協会に加入するうち、(美術活動よりも)宗教活動がレーリヒ家の生活を支配するようになる。

アジア探検[編集]

レーリヒ家(インド、クール(Kullu)の谷)

ニューヨークを後にしたレーリヒ家は、長男ジョージとその友人6人と共に、5年計画での「レーリヒ家のアジア探検」に赴いた。

レーリヒ自身の言葉を借りると「シッキムから始まり、パンジャーブ、ラダック、カラコルム山脈、ホータン、カシュガル、Qara Shar、ウルムチ、エルティシ川、アルタイ山脈、オイロート、中央ゴビ、甘粛省、ツァイダム盆地、そしてチベットへ」の探検旅行であり、途中、1926年にシベリアからモスクワへ寄り道する予定であった。

探検出発後、1927年夏ごろから1928年6月までの約一年間レーリヒ家との連絡が途絶え、一家は一時行方不明となった。レーリヒはチベットで襲われ「我々は銃をもっていたので流血の惨事は免れたが、チベットのパスポートがあったにも関わらずチベット当局は強制的に探検をストップさせた」と語った。レーリヒ家はチベット政府により5か月間拘束され、その間わずかな配給食糧と氷点下でのテント暮らしを強いられ、一行のうち5名が死亡した。1928年春、チベット退去を許可されたレーリヒ家は南を目指して歩き、インドで研究施設「ヒマラヤ研究所 (Himalayan Research Institute)」の職員に保護された。

レーリヒは、チベットにあるとされるシャンバラについての思想を展開し、後にソ連とアメリカの和解と心霊的な世界連邦樹立を目指して活動した[1]

文化活動[編集]

ブルージュでのリョーリフ条約のために開催された2番目の国際会議の代表達。1932年8月

1929年にレーリヒは、パリ大学によってノーベル平和賞候補に推薦された(1935年には2度目の推薦を受けている)。平和についての高い関心に基づき芸術と文化の「国際赤十字」となることを目標に掲げた『パックス・クルトゥーラ』を創設。この文化保全活動を通じて、1935年4月15日にホワイトハウスにおいて全米州連盟(現・米州機構)に加盟するアメリカ合衆国と20ヶ国の加盟国を文化財保全を目的とした初期の国際条約であるレーリヒ条約(国際文化財保護条約)調印に導いた。

平和の旗(文化の旗)、中央

当時の合衆国副大統領ヘンリー・A・ウォレスはレーリヒの元の追随者であったが、1935年から敵対するようになった、1940年の大統領選挙の際には問題として取り上げられた。1934年5月には息子ジョージと共に日本を訪れ講演会などを行った。

この国際条約のオフィシャルシンボルは「平和の旗(文化の旗)」であり、この旗は人類最古の象徴を表している。円の内側にある三つの赤い丸はそれぞれ、過現未(過去、現在、未来)を示しており、これら三つが文化の円で一つに囲まれている。また、この三つの赤い丸は、芸術、科学、宗教を示しているという解釈もできる。

ニコライ・リョーリフはこの活動を第一次世界大戦中に初めて考え始め、後にモリヤ大教師の協力のもと、この活動を続けた。この活動にはニコライの妻エレーナや息子達ユリーやスヴャトスラフ・リョーリフからも多大な協力を得ていた。この活動はモスクワにあるリョーリフ博物館の平和の旗のホールの記事に、リョーリフ条約のオリジナルテクストの翻訳を含めて描かれている。リョーリフ族は自分の文化活動をホワイトブラザーフッドの為に人類へと貢献として認めていた。

東洋にある哲学との関係[編集]

若い頃からニコライ・リョーリフは東洋の哲学に憧れ、ヴィヴェーカーナンダやラーマクリシュナのアイデアに深く拘り、ヘレナ・P・ブラヴァツキーが世界にもたらした神智学のアイデアを受け入れた。そして生涯に東と西、ヨーロッパとアジアを繋ぐ架け橋が出来るように芸術の活動を続けた。

そしてついにニコライ・リョーリフは世界中の主な哲学や宗教がすべて東洋から世界にもたらされたと結論付け、世界宗教の創設者である思想家や、利他主義者等の偉人に捧げた「東洋の大旗」という絵画のシリーズを描いた。

このシリーズの作品はつまり19絵、この間に:

勝者 仏陀[編集]

「勝者 仏陀」 1925年

仏教の創始者であり、シッダールタ・ゴータマ・釈迦牟尼のため「勝者 仏陀」という作品を描き、仏陀の個性やその教えが、リョーリフ族で崇拝されていたということは、エレーナ・リョーリフによって記された『仏教の基礎』とういう書物や、チベット仏教の歴史と文化に関するユリー・リョーリフの数多くの作品、そしてニコライやスヴャトスラフ・リョーリフの仏教のテーマに関連する絵画、およびリョーリフ族によって収集された仏教の並外れたタンカのコレクションなどによって証明されている。

ヒラ山のムハンマド[編集]

ヒラ山のムハンマド 1925年

絵画「ヒラ山のムハンマド」は、ムハンマド(モハメッド;アラブ語で「賞賛された」の意 570-632年頃)はアラブの預言者であり、イスラム教やイスラム教徒の協同体を最初に設立した人物に捧げられた作品であり、ニコライ・リョーリフの絵画では、旧約聖書や新約聖書、そしてイスラム教の教義が大天使ガブリエルのイメージを通して組み合わされ、ここでの大天使の出現は、キリスト教とイスラム教の深い共通性を示すものとなっている。

イエスキリストの大杯[編集]

イエスキリストの大杯 1925年

「イエスキリストの大杯」という作品は人類の大教師、イエス・キリストに捧げられたものである。「イエスキリストの大杯」の絵画の筋立ては「大杯についての祈り」と言う新約聖書(福音)のエピソードと繋がりを持っていた。
それはキリスト様がユダの非難で拘留される前夜、ゲッセマネの園でのキリスト様の祈りである。自身の茨の道を予感しつつ、キリスト様は神に呼ばれ、「お父さん!出来れば、この杯をどこか違うところへと持ち去って下さい。しかし、貴方の意思には従います。」

正義の孔子[編集]

正義の孔子 1925年

「正義の孔子」という作品は古代中国の偉大な利他主義者、思想家、哲学者であり孔子(紀元前551年~479年)捧げられ、「アルタイ・ヒマラヤ」という旅行記でニコライ・リョーリフは、孔子の教えの基礎である協同体のアイデアを強調し、多くの諺を書き留めた。その中には、「人は天と地の協力者にならなければならない。」というものや、「続きが達成できないことは何もない。毎日、土篭を持参し続ければ、最終的に山を盛り上がらせることが出来る。」などの諺である。

先導者 モーセ[編集]

先導者 モーセ 1925年

「先導者 モーセ」という絵画は紀元前13世紀に誕生した「モーセ」はヘブライ語で「水から救われた」を意味する名前の偉人に捧げた作品である。モーセは、エジプトで奴隷とされていたイスラエル人をエジプトから連れ出したという聖書の中の預言者である。聖書によると、モーセはエジプトでユダヤ人の家庭に生まれ、ファラオの娘の養子となり、宮廷で育てられた。
ある日、モーセは仲間の部族のためにエジプト人と争った後、彼は砂漠に逃げ込むことを余儀なくされた。そこでモーセの目の前にあった燃える茂みに神が現れ、神はユダヤ人をエジプトからパレスチナへ導くという彼の使命を明かした。

建設者 セルギイ[編集]

建設者 セルギイ 1925年

絵画『建設者 セルギイ』は、カシミールにてニコライ・リョーリフによって制作された。ラドネジのセルギイ(1314?–1392)は、ニコライ・リョーリフの芸術の中でも最も重要な人物の一人である。

ラドネジのセルギイの姿の最大の特徴は、彼が肉体的にも精神的にも日々絶え間なく働いていることである。歴史家ヴァシリー・クリュチェフスキーは、古代ロシアの文章を引用しセルギイが新参者に宛てた言葉を残している。:

「貴方方はこの場所の労働、飢えと渇きに耐えることができますか?ここで貴方に何が待ち構えているかを知り、悲しみや貧困、苦悩、切なさ等のあらゆる種類の辛さや不足に耐える覚悟をし、休息のためではなく、労働のために… そして精神的に戦う覚悟をしなさい。」

絵画『建設者 セルギイ』の中で、ニコライ・リョーリフは肉体労働と精神労働の一体性を投影し、ロシアにおける精神文化の建設の象徴として至聖三者聖セルギイ大修道院を建築する禁欲主義者を描いた。つまり、昔からの人類の意識を創造する英雄達は、ニコライ・リョーリフの理論にとって全員東洋と関わり、東洋から全世界へと貢献になったものである。

結論[編集]

世界の母「東洋の大旗」シリーズ 1924年

 

そしてこのシッキム州にて制作された「東洋の大旗」シリーズの中心的な作品は 「世界の母」という絵画である。このイメージは国家も時代も問わず、世界の普遍的な考えに基づいていおり、最古の神、母なる女神、生と死を司る存在、そして神聖な知恵を持つ存在についての考えであり、全員男の英雄を鼓舞させる女性の偉大な力である。「『世界の母』のイメージは東西全域に生きており、非常に重要なその想いは、この高尚な姿に全て捧げられています。大抵の場合、偉大なお顔は隠されていますが、完璧を象徴する「四角」の柄で輝いているこのベールの下に、万物の母の唯一無二のお顔が想像出来ませんでしょうか。」と、ニコライ・リョーリフは書き残した。そしてニコライ・リョーリフの世界観で他の世界に普通に争う宗教や哲学のアイデアが平和に「全員の善」の為に、精神目覚めのために一緒に働いていた。

アグニヨーガ[編集]

ニコライ・リョーリフとその妻エレナ・リョーリフ英語版は、アグニヨーガシリーズの本を出版した。マスターモリヤに触発されたと主張する彼らのコンテンツは、ホワイトブラザーフッドとスピリチュアルヒエラルキーと協力し、生きる倫理の道について説明した作品である。そして本のシリーズの他の名前は生きる倫理であり、
リョーリフ博物館:生きる倫理のホールの記事でもっと詳しく描いている。

ニコライ・リョーリフは自分の絵の作品を「生きる倫理」に対する「芸術的解説」と呼んでいた。そして、著名画家というマスターの称号を持つ、ニコライ・リョーリフの美しい作品では、宇宙の進化の問題を比喩的な表現で描写している。

「生きる倫理」は、宇宙は精神的なエネルギーで溢れかえっており、偉大なエネルギーシステムの役割を果たしているというのが、この「生きる倫理」の考え方でる。そして、この哲学では極めて重要な宇宙の基本法則を明らかにし、宇宙や地球で起こっている進化の過程を明らかにし、未来に向けて人類を精神的な進化や改善へと向かわせる。

この本のシリーズは20世紀の20~30年代に、エレーナやニコライ・リョーリフが世界に「宇宙現実の哲学」をもたらした。それは「生きる倫理」と呼ばれ、インドの哲学者や教師らへ伝わり、そこから人類へと広がった。彼の哲学書には、「召呼」、「悟り」、「心」、「炎の世界」と言う様な、やや普通ではないタイトルの著作が含まれていた。パリとリガで出版されたロシア語での初版は、このホールにて発表された。

エレーナやニコライ・リョーリフはこの哲学の由来をシャンバラと繋がりを持つ自分の弟子に伝え、ニコライ・リョーリフはこのテーマに関係しており数々の作品や、絵画の作品も描いていた。

日本との関わり[編集]

1934年5月には息子ジョージと共に日本を訪れ講演会などを行った。

日本と繋がった一番有名なニコライ・リョーリフの作品は『役行者、旅人の友 』という作品である。この昨日も「東洋の大旗」シリーズの部分であり、これはニコライ・リョーリフは役小角を(ちなみに、役小角はニコライ・リョーリフの意見通りに聖徳太子と同じ人物である)世界中に一番偉い英雄の一人であり認めたという意味するものである。

作品の描きはこちらへ
『役行者、旅人の友 』

レーリヒの芸術作品は主にニューヨークにあるニコライ・リョーリフ美術館に収められている。また、レーリヒの唱えた神智学の教えを広めようとする団体も多数存在する。絵画作品は、モスクワにある国立東洋芸術美術館リョーリフ館とリョーリフ国際センター (Международный центр Рерихов)、サンクトペテルブルクの国立ロシア美術館、トレチャコフ美術館、ニジニ・ノヴゴロド美術館とノヴォシビルスク美術館、インド・クールバレーにあるレーリヒ・ホール・エステートの他、大型作品はラトビア国立美術館にも所蔵されている。

ニコライと妻ヘレナの魂の遍歴については、近年刊行された「Nicholas & Helena Roerich, The Spiritual Journey of Two Great Artists & Peacemakers」(Ruth Drayer著)という書籍がある。またJacqueline Decterによる伝記「Messenger of Beauty」、Kenneth Archer 著 「Nicholas Roerich: East and West」、John McCannon による学術論文や雑誌「Russia Life」への寄稿 「Searching for Shambhala」などがある。

ある後の研究によってレーリヒはチベット、モンゴル、中国、ロシアの一部からなる新しい国家を創設しようとしていたことが分かった。妻エレーナ(ヘレーナ)はそうした国がいかにしてニコライ・レーリヒによって統治されるべきかを詳細につづった本「The Leader」を著し、後に Gleb Drobychev と Gurt Wilson によってロシア語から英語に翻訳されている。この意見については疑わしく、リョーリフ国際センター (Международный центр Рерихов)と繋がりのある研究者はそれについて断固否定している。

ギャラリー[編集]

翻訳された展覧会の描き[編集]

  • 世界になくてはならない博物館:モスクワにあるニコライ・リョーリフ博物館に関する記事のシリーズ。

「全部シリーズのロシア語からの翻訳者: オレクサンドル・チスチャコフ、翻訳補助: 加藤 はる花   2021-22年」

モスクワにあるニコライ・リョーリフ博物館のバーチャルツアーへ入れ口や一般情報

翻訳された著書[編集]

  • アジアの心 ニコラス・レーリッヒ (著), 日本アグニヨガ協会 (翻訳・出版) 1981
  • シャンバラの道 ニコライ・レーリヒ (著), 沢西康史 (翻訳) 中央アート出版 1996

主な著書[編集]

  1. Art and archaeology // Art and art industry. SPb., 1898. No. 3; 1899. No. 4-5.
  2. Some ancient Shelonsky fifths and Bezhetsky end. SPb., 31 pages, drawings of the author, 1899.
  3. Excursion of the Archaeological Institute in 1899 in connection with the question of the Finnish burials of St. Petersburg province. SPb., 14 p., 1900.
  4. Some ancient stains Derevsky and Bezhetsk. SPb., 30 p., 1903.
  5. In the old days, St. Petersburg., 1904,18 p., drawings of the author.
  6. Stone age on lake piros., SPb., ed. “Russian archaeological society”, 1905.
  7. Collected works. kN. 1. M.: publishing house of I. D. Sytin, p. 335, 1914.
  8. Tales and parables. Pg.: Free art, 1916.
  9. Violators of Art. London, 1919.
  10. The Flowers Of Moria. . Berlin: Word, 128 p., Collection of poems. 1921.
  11. Adamant. New York: Corona Mundi, 1922
  12. Ways Of Blessing. New York, Paris, Riga, Harbin: Alatas, 1924
  13. Altai – Himalayas. (Thoughts on a horse and in a tent) 1923–1926. Ulan Bator Khoto, 1927.
  14. heart of Asia. Southbury (St. Connecticut): Alatas, 1929.
  15. Flame in Chalice. Series X, Book 1. Songs and Sagas Series. New York: Roerich Museum Press, 1930.
  16. Shambhala. New York: F. A. Stokes Co., 1930
  17. Realm of Light. Series IX, Book II. Sayings of Eternity Series. New York: Roerich Museum Press, 1931.
  18. The Power Of Light. Southbury: Alatas, New York, 1931.
  19. Women. Address on the occasion of the opening of the Association of women, Riga, ed. About Roerich, 1931, 15 p., 1 reproduction.
  20. The Fiery Stronghold. Paris: World League Of Culture, 1932.
  21. banner of peace. Harbin, Alatyr, 1934.
  22. Holy Watch. Harbin, Alatyr, 1934.
  23. A gateway to the Future. Riga: Uguns, 1936.
  24. Indestructible. Riga: Uguns, 1936.
  25. Roerich Essays: One hundred essays. В 2 т. India, 1937.
  26. Beautiful Unity. Bombey, 1946.
  27. Himavat: Diary Leaveves. Allahabad: Kitabistan, 1946.
  28. Himalayas — Adobe of Light. Bombey: Nalanda Publ, 1947.
  29. Diary sheets. Vol. 1 (1934-1935). M: ICR, 1995.
  30. Diary sheets. Vol. 2 (1936-1941). M: ICR, 1995.
  31. Diary sheets. Vol. 3 (1942-1947). M: ICR, 1996.

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • 加藤九祚『ヒマラヤに魅せられたひと ニコライ・レーリヒの生涯』人文書院、1982年
  • モロジャコフ・ワシーリー「ニコライ・レーリヒと日本—美術と地政学」新日本学20、拓殖大学日本文化研究所、2011年3月。ISBN 978-4-88656-356-9

関連項目[編集]

翻訳されたリョーリフ族の活動に関する外部リンク[編集]

哲学、展覧会、作品の描きへの入り口です。

モスクワにあるニコライ・•リョーリフ博物館のバーチャルツアーへ入れ口や一般情報です

生きる倫理のホールは、この博物館の中心であり心である。

このホールでは、東洋でマハートマー「Mahātmā、マハートマー(महात्मा)」(サンスクリット語で”偉大な魂”)と呼ばれる大師らを紹介している。

ユリー・リョーリフのホールは、西洋と東洋の最も偉大な百科事典ほどの知識を持ち合わせる一人であった、ニコライとエレーナの長男のために存在する。

クルー渓谷のホールは、私達をインドの神聖なヒマラヤ渓谷に連れて行く。  リョーリフ一族は、1928年の暮れにクルー渓谷に到着した。

中央アジア遠征は、ニコライ•リョーリフの人生の主要な出来事となった。1924年にインドから始まり、そのルートは中国、シベリア、モンゴル、チベットを通過し、1928年の終わりにイン1928年の終わりにインドへ戻った。

このホールの主な展示品は「平和の旗(文化の旗)」であり、この旗は人類最古の象徴を表している。

このホールは、エレーナとニコライの末息子、スヴャトスラフ・リョーリフのために存在する。

このセクションの絵の例文として使ったものはモスクワの展覧会の心であり『Fiat Rex!王様 万歳!』という三連祭壇画である。

外部リンク[編集]