マリー=ジョゼフ・ド・サクス – Wikipedia

マリー=ジョゼフ・カロリーヌ・エレオノール・フランソワーズ・グザヴィエール・ド・サクス(仏: Marie-Josèphe Caroline Éléonore Françoise Xavière de Saxe, 1731年11月4日 – 1767年3月13日)は、フランスの王太子(ドーファン)ルイ・フェルディナンの2番目の妃で、ルイ16世ら兄弟の母である。

ポーランド王およびザクセン選帝侯アウグスト3世(フリードリヒ・アウグスト2世)の娘で、ドイツ語名はマリア・ヨーゼファ・カロリーナ・エレオノール・フランツィスカ・クサヴェリア・フォン・ポーレン・ウント・ザクセン(Maria Josepha Karolina Eleonore Franziska Xaveria von Polen und Sachsen)となる。

1746年、フランス王ルイ15世の長男で王太子のルイ・フェルディナンは、スペイン・ブルボン家出身の先妻マリー=テレーズ=ラファエル・ド・ブルボンと結婚後1年余りで死別した。1女マリー・テレーズ(1746年 – 1748年)が遺されたが、次の世継ぎとなる男子がなかったため、王太子は急いで再婚する必要があった。しかしルイ・フェルディナンは亡き妻を悼み、再婚に消極的であった。

スペイン王フェルナンド6世は、ラファエル妃の代わりに別の妹のマリーア・アントニア王女をルイ15世に勧めたが、これは断られた。ルイ15世の政治に強い影響力を持っていた王の寵姫ポンパドゥール夫人が、オーストリア継承戦争でザクセンとの同盟を強くしたいと考えて、ザクセン選帝侯家の娘であるマリア・ヨーゼファとの再婚をまとめようとしたからである。

マリア・ヨーゼファの祖父アウグスト2世と父アウグスト3世は共に、ルイ・フェルディナンの母方の祖父スタニスワフ1世レシチニスキとポーランド王位を争ったという因縁のある間柄であった。一方で、マリア・ヨーゼファの姉マリア・アマリアはナポリ=シチリア王カルロ(スペイン王子でもあり、後にスペイン王カルロス3世となる)の妃であった。外交的には好ましいこの縁組は、ルイ・フェルディナンの母である王妃マリー・レクザンスカの強い反対にもかかわらず進められ、1747年2月9日、マリア・ヨーゼファとルイ・フェルディナンは結婚した。フランス式に名前を改めたマリー=ジョゼフは新郎に、「前妻のことを無理に忘れる必要はない」と声をかけた。

このような事情から、嫁と姑の関係はしばらくぎくしゃくしたが、2人にはカトリックの信仰が深いという共通点があり、国王の放蕩に馴染めないという点でも似たところがあった。マリー王妃の父の追悼式の際には、スタニスワフ元国王のメダルを首にかけて出席し、姑との関係を改善した。王太子夫妻は、ヴェルサイユを離れて別邸で生活することが多くなった。

マリー=ジョゼフは夫との間に5男3女をもうけ、長男ブルゴーニュ公ルイとアキテーヌ公グザヴィエが夭逝したため、三男ベリー公ルイ・オーギュストが代わって王太子に立てられ、1774年にルイ16世として即位することになる。しかしルイ・フェルディナン自身は1765年12月20日に父王に先立って死去した。マリー=ジョゼフも2年後の1767年3月3日にヴェルサイユで死去したので、息子の結婚や即位を見ることはなかった。後にフランス革命を経て、四男プロヴァンス伯ルイ・スタニスラス(ルイ18世)、五男アルトワ伯シャルル・フィリップ(シャルル10世)も王位に就くことになる。

ルイ・フェルディナンとの間に5男3女をもうけた。