桂米太郎 – Wikipedia
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桂 米太郎(かつら よねたろう)は上方落語の名跡。現在は空き名跡となっている。
2019年現在江戸落語に同名の桂米多朗がいるために今後襲名がなされるか不明。
結三柏は、桂米朝一門の定紋である。
初代 桂 米太郎(1896年 – 1965年ころ)本名未詳。
桂米若?の門下で文弥を名乗り新桂派に出ていたが、大正の末に大八会に移り桂米太郎と改名。
落語では「お玉牛」を得意としたが「百面相」という珍芸で売った。また田植えから米の炊き上がるまでの「米洗い」の下座の曲にのせて見せる珍芸は逸品だった。昭和期には寄席に出ず漫才などの色物・諸芸一座に加わった。
最晩年の昭和30年代に「米洗い」をテレビで披露している。没年不詳。昭和40年ころに没。桂朝丸(現在の2代目桂ざこば)も若いころに「米洗い」を挑戦したがしんどさに断念した。
2代目 桂 米太郎(1949年10月11日 – 1982年8月10日)は、本名池田 賢次。
1970年4月に3代目桂米朝に入門。噺家になる前はコックをやっており、内弟子時代は料理などを振舞って師匠米朝に重宝された。広島県出身で訛りがあったため、あまり活動はしておらず、「岩田寄席」の世話役を引き受けるなど若手の指導に力を入れた。1982年に32歳で急死。
大変面倒見がよかったため若手の中でも人望が高く、亡くなってからは大阪サンケイホールで一門総出演の追善落語会が行われた。
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X
- ご存知古今東西噺家紳士録
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