ジル・ド・フェラン – Wikipedia
ジル・ド・フェラン(Gil de Ferran, 1967年11月11日 – )は、ブラジル出身の元レーシングドライバー、モータースポーツディレクター。
CARTシリーズの2年連続チャンピオン、インディ500優勝1回など北米のレースで活躍した。引退後は「BARホンダ」「ホンダF1」の管理職を経た後、一時期現役に復帰。また、2018年から2021年にかけてマクラーレンF1の要職に就いていた。
カートデビューからイギリス進出まで[編集]
1983年にカートレーシングデビュー。翌1984年にはサンパウロカート選手権で優勝し、ブラジルカート選手権に進出する。1985年からはブラジルのフォーミュラ・フォードに参戦、2年後の1987年にはシーズン5勝を収めて総合チャンピオンとなった。
イギリス進出[編集]
1988年からイギリスへ進出し、フォーミュラ・フォードに参戦。同年、イギリスF3にもスポット参戦を果たしポールポジションを獲得、2位フィニッシュの好成績を収めた。1991年からイギリスF3にレギュラー参戦。1992年にはイギリスF3の他にマールボロマスターズF3、マカオF3にも参戦し、それぞれ総合3位、総合6位に入賞。翌1993年には当時F1直下のカテゴリであった国際F3000に参戦。1993年に総合4位、1994年は総合3位の成績を収めた。
CART, IRL参戦[編集]
1995年から彼のキャリア中、最も長く参戦したCARTに進出。同年ルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いたほか、2000年と2001年には史上5人目となる2年連続ドライバーズチャンピオンを獲得した。また2001年にはIRLへのスポット参戦(2戦)を果たし、翌2002年からはCARTを離れIRLへレギュラー参戦を開始、シリーズ3位を獲得した。翌2003年にはインディ500優勝の他、引退レースとなったシーズン最終戦でも優勝し、総合2位に入賞。同シーズンを最後にドライバーを引退した。
ドライバー引退後[編集]
2005年、20年以上のレースキャリアを買われ、F1チームであるB・A・Rホンダのスポーティングディレクターに就任した。ドライバー出身のチームマネージャーらしく、ドライバーからの信望を集めたが特に大きな功績を残す事も無く、人員整理の一環で2007年シーズン中の7月にホンダF1チームから契約を解除された。
元々就任当初から、他チームからは何のために彼と契約をしたのか意図が分からないといった意見も聞かれた。これは当時のB・A・Rのチーム体制的にスポーティングディレクターという役職自体があいまいな役割であったことも一因と思われる。
現役復帰[編集]
2008年に入り、アメリカン・ル・マン・シリーズに自らのチームを立ち上げ、チーム代表兼ドライバーとして参戦することを発表。5年ぶりに現役に復帰した。クラスはLMP2クラスで車両はホンダのアキュラ・ARX-01b、チームメイトはフランス人ドライバーのサイモン・パジェノである。復帰初戦となった第4戦ソルトレイクシティでいきなり3位でフィニッシュし、フォーミュラカーでかつて見せた速さが未だに健在であることを示した。
2009年、LMP1規格車両であるアキュラ・ARX-02aを投入したアキュラと共に最上位のLMP1クラスに参戦。シーズン最多となる5勝を挙げたものの、セブリング12時間レースでのリタイアが響いてタイトルはハイクロフト・レーシングのデビッド・ブラバムとスコット・シャープの手に渡った。
マクラーレンのスタッフに就任[編集]
2018年5月、F1チーム「マクラーレン」の非公式コンサルタントとして契約した後、同年7月よりスポーティングディレクターに就任[1]。一方で2019年には「オフロード版フォーミュラE」とも称される電気自動車(EV)のレースシリーズ「エクストリームE」を創設し、運営団体の会長に就任した。
2020年、マクラーレンの米国インディカープロジェクトで発足した共同チーム「アロー・マクラーレン・レーシングSP」の要職に就いた[2]。フル参戦初年度となった2020年シーズンはパトリシオ・オワードがランキング4位に入る活躍を見せたが、2021年1月にマクラーレンとの契約が終了すると、ド・フェランはチームを離れた[3]。
レース戦績[編集]
マカオグランプリ[編集]
イギリス・フォーミュラ3選手権[編集]
国際F3000選手権[編集]
アメリカン・オープンホイール[編集]
CART[編集]
インディカー・シリーズ[編集]
インディ500[編集]
アメリカン・ル・マン・シリーズ[編集]
外部リンク[編集]
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