久能靖 – Wikipedia

久能 靖(くのう やすし、1936年2月13日 – )は、日本のジャーナリスト、アナウンサー。 元日本テレビアナウンサー、同局専属ニュースキャスター。千葉県出身[1][2][3]。妻は元宝塚歌劇団の女優の久美かおる。 少年時代を長野県北信地域で過ごす。神奈川県立小田原高等学校を経て、東京大学文学部卒業後[1][2][3]、1960年、アナウンサーとして日本テレビへ入社[1]、ニュース、スポーツ、舞台中継などを担当[2]。同期に久保晴生がいる。 1972年、連合赤軍あさま山荘事件では長時間にわたって実況報道を担当した[3]。事件報道を機に報道部へ異動を志願し、記者に転じる[1][2]。 1988年9月19日、「昭和天皇重体」の一報を聞きつけ、報道局に詰めて取材にあたる。以後、崩御に至るまで皇室や宮内庁の足取りを追い、報道特別番組のキャスターを務めたことが、皇室ジャーナリストに転じるきっかけとなる。 1990年9月、55歳の定年を待たずに日本テレビを退社し、フリージャーナリストとなる[1]。併せて日本テレビとの専属契約を交わしたため、キャスターとして出演した番組はそのまま継続した。1992年にはフリーの立場で「皇室グラフィティ(現在の皇室日記)」の立ち上げに参画する。自身が持つニュースコーナーでは報道局制作の原稿を使わず、自ら原稿代わりのメモを作成し、わかりやすく伝えることに徹した[3]。また、時折ダジャレを織り交ぜる独自のユーモアセンスで既存のキャスターイメージを刷新したパイオニアでもあった。 2004年5月、「日テレにはここまで育てて頂き感謝している。可能なら報道局の後輩にバトンタッチしたい」と語り、長年務めてきたニュースコーナー「情報特急便(おもいッきりテレビ)」、「NEWS撮って出し(ザ・ワイド)」のキャスターを降板した。希望通り、報道部の後輩である真山勇一に引き継ぎ、日本テレビとの専属契約を円満終了した。 その後は長野県に移住し、皇室ジャーナリストとして活動している。また、日本テレビ系列局であるテレビ信州の報道番組『TSB NEWS 報道ゲンバ』に、月曜日のコメンテーターとして2009年3月まで出演していた。 出演番組[編集] 以前[編集] ※ 特記番組以外は全て日本テレビ。この他、記者リポートや報道特別番組(特に皇室関連のニュース)のキャスターを務めた。 『浅間山荘事件の真実』河出書房新社、2000年、のち河出文庫、2002年、増補版『連合赤軍 浅間山荘事件の真実』河出文庫、2021年

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久場島 (沖縄県石垣市) – Wikipedia

久場島(くばしま)は、尖閣諸島の無人島のひとつ。日本国が領有・実効支配し、中華人民共和国と中華民国が領有権を主張している。日本の行政区分では沖縄県石垣市に属する。先島諸島の島民によってクバシマと呼ばれる。別名は黄尾嶼(こうびしょ)[2]。 日本名の「久場島」について日本政府は地元で呼ばれている名称を地方公共団体が調査し使用しているとしている[3]。「クバ」は沖縄方言で蒲葵を指し、八重山列島では「チールージマ(黄色い島)」とも呼ばれた。琉球王国の文書には黄尾嶼の記載がある[4]。日本政府は「黄尾嶼」という名称についても「我が国において従来から使用されてきているもの」としている[3]。中国名では「黄尾嶼」という名称を使用している。 石垣島北方約182キロメートル[2]の北緯25°56′、東経123°41′に位置する無人島。主島の魚釣島から東北方約22キロメートルの尖閣諸島の北端に位置する[2]。面積0.874049平方キロメートル(石垣市土地台帳の数値)[2]。最高峰は標高117メートルの千歳山[5][2]、ほかに信天山(105メートル)などがある。 火山島で島の中央に数個の火口があり、海岸に向かってなだらかな地形だが、島の周囲は壁岩になっている[2]。島の形成時期は第四紀とされる[6]。 日本が領有し実効支配しているが、中華人民共和国及び中華民国も領有権を主張している。日本の行政区分では沖縄県石垣市登野城尖閣2393番地にあたる[2][7]。島の所有者は民間人であり、2012年9月11日まで同じく尖閣諸島の魚釣島、北小島、南小島も民間人が保有していたが、尖閣諸島国有化によりこれら3島の所有権が国に移ったあとも、久場島のみ引き続き民間人が保有している[8]。 島の南西部にはかつて鰹節工場や、海鳥の羽の加工場があったが、事業中止に伴って無人島となった。また、かつては尖閣諸島で最大のアホウドリの営巣地があり、現在もアホウドリの繁殖の可能性が指摘されている[9]。 同じく尖閣諸島に属する大正島とともに在日米軍の射爆撃場に設定されているが、1978年6月以降使用されていない状況にある[10]。 なお、久場島の北西から北東にかけては、日本の排他的経済水域(EEZ)の基点となる3つの小島があるが、これらの島は2012年3月2日に北西小島、北小島、北東小島と命名されている[11]。 1895年(明治28年)1月14日 – 日本領に編入される。 1896年(明治29年) – 古賀辰四郎が政府から魚釣島、久場島、北小島、南小島の30年間無償貸与を受ける(なお、無償貸与期間終了後も、有償で貸与が続けられた)。 1932年(昭和7年)5月20日 – 魚釣島、久場島が古賀善次(辰四郎の子)に有償で払い下げられる(同年、北小島、南小島も有償で払い下げられている)。 1946年(昭和21年)2月2日 – 北緯30度以南がアメリカ軍の軍政下に置かれる。

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磯部駅 (群馬県) – Wikipedia

磯部駅(いそべえき)は、群馬県安中市磯部にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)信越本線の駅である[1]。 相対式ホーム2面2線を有する[1]地上駅。互いのホームは跨線橋で連絡している。 安中駅管理の業務委託駅(終日集札、JR東日本ステーションサービス委託)。みどりの窓口・自動券売機・簡易Suica改札機が設置されている。かつては売店があった。 のりば[編集] 番線 路線 方向 行先 1 ■信越本線 上り 高崎方面 2 下り 横川方面 (出典:JR東日本:駅構内図) リニューアル前の駅舎(2012年6月) 改札口(2021年10月) ホーム(2021年10月) 利用状況[編集]

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摂津職 – Wikipedia

摂津職(せっつしき / つのつかさ / つのしき)は、日本の律令制下で、飛鳥時代から奈良時代にかけて津国(摂津国)に設置された行政機関。一般国司と同様に同国の司法、行政、警察を担当したほか、難波津・難波京(難波宮)の管理も兼ねた。 摂津国は古くより倭国(日本)の軍事・外交の要衝であり、ヤマト王権やその後の律令国家にとってその管掌は重要な課題とされた。そのため、国司に替えて京職に準じた職が置かれ、国司の職務も兼ねて行っていた。加えて、難波津の管理、西国と京の間を行き来する公使のチェックなどを任務としていた。 「摂津職」の初出は、『日本書紀』巻第二十九の、天武天皇6年(677年)の、 冬十月(かむなづき)の庚寅(かのえとら)の朔癸卯(みづのとうのひ)に、内小錦上(うちのせうきむじゃう)河辺臣百枝(かはへ の おみ ももえ)を民部卿(かきべのかみ)とす。内大錦下(うちのだいきむじゃうげ)丹比公麻呂(たぢひ の きみ まろ)を摂津職大夫(つのつかさ の かみ)とす[1] とある箇所である。白村江の戦の武将、河辺百枝の民部卿就任と同時に、宣化天皇の後裔である多治比氏が任命されているところからも、摂津職の重要性が読み取れる。 『書紀』の同巻によると、その後、天武天皇12年(683年)12月には、 「凡(おほよ)そ都城(みやこ)・宮室(おほみや)、一処(ひとつところ)に非(あら)ず。必ず両参(ふたつところ みところ)造らむ。故(かれ)、先づ難波に都つくらむと欲(おも)ふ。是(ここ)を以て、百寮(つかさつかさ)の者(ひとども)、各(おのおの)往(まか)りて家地(いへどころ)を請(たま)はれ」[2]

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あのねのね – Wikipedia

あのねのねは、日本のフォークデュオ。 主に1970年代中期から1980年代初頭にかけて活動した。 京都産業大学の学生だった清水国明と原田伸郎を中心に結成された。結成当初は4~6人編成で、うち2人は笑福亭鶴瓶とその後鶴瓶の妻になる女性であった。デビューまでに清水と原田とのコンビとなった。 原田によれば、元々は原田と大学の同期生で落語研究会仲間でもあった鶴瓶から旅館のバイトを紹介され(鶴瓶が辞めた後釜)、そこで働いていた先輩の清水と意気投合したのが結成のきっかけだという[1]。 フォークソングムーブメント末期の1973年、『赤とんぼの唄』でメジャーデビューした。 「赤とんぼの唄」「魚屋のオッサンの唄」などのコミックソングの印象が強く、ライブではコミカルなトークも人気を博し、ラジオ番組のパーソナリティやテレビ番組の司会などでも活動した。一方で「雪が降っています」などのスローナンバーも残している。 「つくばねの唄」は、落語『欣弥め』を下地にしているが、サビの歌詞がかなり卑猥であるため“放送禁止用語の歌”といわれた。その英語バージョンの“THE SAMURAI”もある。 「そのねのね」という変名でシングル「愛の調べ」とアルバム「そのねのね ファースト・ラスト・アルバム」をリリースしたこともある。こちらはすぎやまこういちらによるシリアス路線だった。 1975年には学業に専念するためライブメインの活動を休止し、同時に『あのねのねのオールナイトニッポン』のパーソナリティも一時降板している。直前に東京・蔵前国技館で千秋楽コンサートを行った。ライブ活動は休止したものの、河島英五作の「青春旅情」を同年リリースし、「ヤンヤン歌うスタジオ」や「ものまね王座決定戦」などのバラエティ番組へ進出した。 その後、音楽活動の再開後は、「ネコ・ニャンニャンニャン」「みかんの心ぼし」がヒットする。 1980年代後半以降は個々での活動が中心で、コンビとしての活動はとくに行っていないが、2人がテレビやラジオで共演する機会は多く、1998年に「オールナイトニッポンDX」の企画で日本武道館内の会議室でライブを実施した (実際は武道館内で行う予定だったが、リスナーからの募金で使用料を集めたため、予算内に借りられる会議室でのライブとなった)。 2001年に新作シングル「この場所で光を」「愛メール」、オリジナルアルバム「II」、セルフカバーアルバム「せるふかばあ-ANONENONE BEST-」をリリースし、2003年には「結成30周年記念ライブ」を行っている。また、2011年には「TBC夏まつり」でライブを再開した。 清水の弟子 原田の弟子 その他 主な出演作品[編集]

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ヴァンパイア十字界 – Wikipedia

『ヴァンパイア十字界』(ヴァンパイアじゅうじかい)は、『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)で連載されていた漫画作品。原作:城平京・作画:木村有里。 英語による副題は “THE RECORD OF FALLEN VAMPIRE” (堕ちた吸血鬼の記録)。2007年2月10日発売の『少年ガンガン』3月号にて最終話を迎え、全9巻が発刊された。 ミステリー作家の城平らしく、物語の根幹をなす「真相」が二転三転する展開(一度「真相」として示された出来事が別の人物の証言や行動によって否定され、別の「真相」が浮上するが、その「真相」もまた別の出来事によって否定され、時に以前に否定された「真相」が再び「真相」として絶対性を持つように機能する手法がとられる)が特徴的。 あらすじ[編集] 遠い昔、夜の国の至高のヴァンパイア王は、あまりの強さから人間だけでなく同族からも恐れられた。そしてついには愛する女王を人質にとられ、王は処刑されることとなる。しかし、それに狂乱した女王は自分でも知りえなかった秘めた魔力を暴走させ世界を崩壊の危機へと追い込んでしまう。人々はかろうじて女王を世界のどこかに封印するが、王はそれに怒り、自ら夜の国を滅ぼしてしまう。 女王を助け出すために、王は封印をめぐって同族や人間たちと果てのない戦いを続けていく。最後のヴァンパイア王「ローズレッド・ストラウス」は、守るべき国も民も捨てて封印を探す放浪を、千年以上も続けている…。ただ、愛する女王「アーデルハイト」を取り戻すために。 登場人物[編集] ヴァンパイア[編集] ローズレッド・ストラウス 年齢:1300歳近く(実年齢)、20代後半(外見) 1000年前に滅んだ夜の国最後の王であり、約1000歳で王になるというヴァンパイアの通例のなか、約200歳の若さで王となった。見掛けこそ優男風であるが、圧倒的な力を持つことから度々魔人などと称される。名前の関係上、「赤バラ」と呼ばれることが多い。頭脳明晰かつ博学で、一を聞いて十を知り、常に必勝の策を練っているなどと称される天才型。あらゆる面においてその実力は規格外で、天敵である「黒き白鳥(ブラックスワン)」以外の敵に対しては強大な魔力だけで打ち倒し続ける。相手になるものは基本的に存在せず、作中最高の剣の腕を持つにもかかわらず、「技」なしの力押しで事足りるほどである。 物語の序盤では、魔力暴走の果てに封じられた后アーデルハイトを取り戻すために、封印の十字架(ダミーが数千存在する)をブラックスワン達の追撃をかわしながら壊して回っていると(彼を知る者から)見られていた。しかし中盤になると、封印を壊し続ける真の目的はアーデルハイトを取り戻すことではなく、唯一愛した人間の女性ステラを愛ゆえの嫉妬から殺害したアーデルハイトを、自らの手で八つ裂きにする復讐であることが、ブリジットによって語られる。 しかしそれも真実ではなく、アーデルハイトの復活をきっかけに、ストラウスの復讐はダムピールと人類を欺くブラフであったことが明かされる。夜の国崩壊に伴う大陸の混乱による人間勢力とヴァンパイア血族の全面衝突を恐れたために自ら両者の共通の敵となったというのが真相であった。ストラウス自身はステラ殺害の真犯人を含め全てを知っており、実際には「人類とダムピールの双方の敵意を自分に向けさせ、両者の争いを回避する」という目的のためだけに動いていた。ヴァンパイアとして弱点を持たず、唯一人で大国を揺るがす力を持つがゆえに辛うじて保たれていた均衡が崩れたこと、結果、拭いがたき恐怖を生み夜の国を存立不可能な状況に置いたことを悔いたことによる。そして、真実を誰に語ることもなく1,000年の間、孤独な戦いを続けた。事の真相が白日の下に晒された後は、ブリジットとも和解。アーデルハイトと共にビッグモーラを破壊した後、決意を固めた花雪と戦い敗れ、薄れ行く意識のなか、ステラに叱られ褒められるという記憶により長きに渡る生涯に幕を閉じた。 アーデルハイト

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千葉県道30号飯岡一宮線 – Wikipedia

千葉県道30号飯岡一宮線旭市井戸野(2015年5月)旧式の路線名標識には、「飯岡・一ノ宮線」の記載が見られる。 千葉県道30号飯岡一宮線匝瑳市今泉(2015年2月) 千葉県道30号飯岡一宮線(ちばけんどう30ごう いいおかいちのみやせん)は、千葉県旭市から長生郡一宮町に至る県道(主要地方道)である。九十九里ビーチラインの愛称を持つ[1][2]。 千葉県旭市下永井の飯岡バイパス東の国道126号との分岐を起点とし、長生郡一宮町東浪見の国道128号との交点を終点とする全長約60kmの長距離路線で、九十九里浜沿いの最も海岸線よりにある県道である。1988年度に制定された千葉県道路愛称名では九十九里ビーチラインの愛称が千葉県により制定された。 路線データ[編集] 路線状況[編集] この節の加筆が望まれています。 愛称[編集] 九十九里ビーチライン 道路施設[編集] 新川大橋(新川、匝瑳市長谷) 匝瑳市長谷を流れる新川を渡河する橋長63.4m、幅員11.5m(2車線+片側歩道)の5径間PC連続箱桁構造の橋梁。旧橋は1962年(昭和37年)に架設されて以来、経年劣化による耐震及び耐荷力の低下により架け替え工事が行われ、2015年(平成27年)に現橋が開通した[3]。 屋形橋(栗山川、横芝光町木戸 – 同町屋形) 旭橋(南白亀川、白子町剃金 – 同町古所) 新一宮橋(一宮川、一宮町新地)

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佐田玲子 – Wikipedia

佐田 玲子(さだ れいこ、1957年5月7日 – )は、日本の女性歌手、シンガーソングライター、ラジオパーソナリティ。 芸能プロモーター・佐田繁理と歌手・さだまさしの妹である。長崎県長崎市出身。「白鳥座」の頃はさだれい子、ソロデビュー前の一時期はREIKOとしていた。 来歴・人物[編集] 1981年、長兄のまさしがプロデュースしたユニット「白鳥座」のメンバーとしてデビュー。1984年には『銀河漂流バイファム』に「ムーヴ」として白鳥座がサントラ盤に参加した後、1989年に「くらやみ乙女」でソロデビューし現在に至っている。 2005年より沢田聖子とユニット「THE 4/9」(ザ・フォーク)を結成し精力的に活動中。兄同様喋りにも長けており、TBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』[1]のアシスタントや自身がパーソナリティを務める番組など、ラジオにも出演している。東海ラジオ『宮地佑紀生の聞いてみや〜ち』でもたびたびゲスト出演していた。 長兄のヒット曲「雨やどり」「秋桜」「親父の一番長い日」は、玲子を念頭に置いて作られたという。結婚を主題にしているが玲子本人は未婚である。 前述の『大沢悠里のゆうゆうワイド』の初出演は2001年7月17日[1]。 ディスコグラフィー[編集] シングル[編集] デュエットシングル[編集] その他の楽曲[編集] 発表年 タイトル 概要 1988年

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