岩倉宮 – Wikipedia

岩倉宮(いわくらのみや)は鎌倉時代初期に存在した宮家の一つ。

順徳天皇皇子・忠成王は、順徳天皇流刑先の佐渡島で流刑先へ供奉した女房・従三位藤原清季卿女を母として誕生した。その後経緯不詳ながら上洛し、宝治元年(1247年)2月に平経高の計らいにより密かに元服したとされる[1]。この後「岩倉宮」また「広御所宮」を名乗ったという[2]

忠成王は弘安2年に没したが、一子尊忠は後に梶井門跡の権僧正となり、「入江宮」「広御所宮」「岩倉宮」を名乗ったという[3]。また、「石蔵三郎宮」と称される人物が永仁年間に忠成王の異母弟である四辻宮善統親王との間で同親王が継承した七条院領の所有権を巡って争いを起こしており、岩倉宮側は持明院統の、四辻宮側は大覚寺統の支援を受けて鎌倉幕府をも巻き込む訴訟となったという。この人物は後に臣籍に下った源彦仁(彦仁王)と推定される[4]

宮内庁の資料『皇室制度資料』では岩倉宮を宮家の一つとすることに対して慎重な見解を取っている。

「岩倉」「広御所」とも宮号の由来は居所か領地に縁があると推測されるのみで、詳細は未詳である。

  1. ^ 『葉黄記』
  2. ^ 『本朝皇胤紹運録』
  3. ^ 『梶井円融房在位親王伝』
  4. ^ 布谷(白根)陽子「七条院領の伝領と四辻親王家-中世王家領伝領の一形態-」(初出:『日本史研究』第461号(2001年)/所収:白根陽子『女院領の中世的展開』(同成社、2018年) ISBN 978-4-88621-800-1)

参考文献[編集]