遠山景行 – Wikipedia

遠山 景行(とおやま かげゆき)は戦国時代の武将。明知遠山氏当主。美濃国恵那郡明知城主。父は遠山景成(一説に明智光継)。妻は三宅高貞の娘。別名:与助。

永正6年(1509年)に明知遠山氏当主の景成の子として生まれ、天文12年(1543年)までには、家督を継いでいたようである[1]。天文21年(1552年)御嵩城主の小栗重則は、領地拡大を試みて土岐郡の高山城を攻撃した。しかし遠山景行に迎撃され、武田信玄の命を受けた平井光行・平井頼母の親子や、小里城主の小里光忠らが高山城を救援し、逆に御嵩城を攻められ、小栗重則は自刃した。この時代、東美濃においては、明智氏が勢力を持ち始めていたとされるが[2]、天文21年(1552年)6月には、明智定明が美濃守護の土岐頼芸と守護代の斎藤道三の間の内紛に巻き込まれて、それに乗じた弟の明智定衡によって殺害される事変が起こり、その混乱に乗じて御嵩城主の小栗教久(信濃守)が、明智氏の居城である長山城を攻略した。その際、景行は甲斐国の武田氏の支援を受けて小里光忠らとともに、御嵩城を攻め落とした[要出典]。以降、景行は、小里光忠 とともに武田信玄に属した。

後に明知遠山氏を含めた遠山氏は、美濃で勢力を拡張する織田信長に接近する事になる。(後述の異説によると、景行は織田信長の正室の伯父となり、織田家と結びつく必然性がある。その縁もあったためか、織田氏と武田氏が対立してからは、織田氏につくことになった。)弘治元年(1555年)9月には、順調かに見えた今川氏の三河経略も遠山景行と岩村遠山氏の支援を受けた足助鈴木(鱸)氏が蜂起、これに三河加茂郡広瀬の三宅高貞が同調した他、大給松平氏の松平親乗も今川氏に叛旗を翻した。これに対して今川義元は同月中に遠江衆を動員して親乗討伐に向かわせるが退けられ失敗した。

元亀元年(1570年)足利義昭に忠義を誓い、本願寺と結んだ武田信玄は、信長打倒のために西上を開始する(西上作戦)。東美濃においては、その11月武田の将秋山虎繁が徳川氏の本拠地である三河国へ攻め込もうとして美濃国恵那郡の遠山領の上村に侵入した。同年12月28日、景行を総大将に飯羽間城の遠山友勝、千旦林城の吉村源蔵、串原城の遠山右馬助・五郎経景、小里城の小里光次、高山城の平井宮内少輔光行、阿木城の遠山某、そして徳川氏は山家三方衆・三河衆を派遣して合せて5000人で備えた。景行はそれぞれの進路にある飯田洞の阿寺砦、上村の前田砦、漆原の漆原城に兵を入れ自身は岩井戸砦で指揮を執ることにした。武田(秋山)軍は部隊を3つに分け本隊は根羽村から大桑峠を越えて小笹原を通って前田砦を、残りの二隊は平谷村から阿寺砦を、小田子から漆原城を、それぞれ目指した。12月28日隘峡の地で、串原遠山氏1000人が武田(秋山)軍の望月勢を攻撃して戦闘が開始した。初戦で望月勢が引き下がる様子を見せたので、串原勢は機に乗じて攻め立てたが、望月勢は足場の良い場所で踏みとどまり左右両翼に兵を広げて、原・芝山勢の兵は串原勢の両翼を攻撃し、更に望月勢が正面から攻め立てたから、串原勢は敗北した。遠山氏の二番手が串原勢に代わって戦おうとしたが、敵勢の攻撃が激しくて悉く崩れたのを見て、総大将の景行は、備えを進めて戦おうとしたが、先駆の秋山勢の500人が景行の背後に出て奇襲を行い、前後から挟撃した。景行は奮戦したものの遠山氏は一族・郎党が悉く敗れ去ったので、5~6名の兵とともに血路を開いて落ち、漆原の山中にて自刃した。その場所は遠山塚として現存している。

享年64、墓は恵那市明智町杉野の安住寺にあり[1]、永禄4年(1561年)に亡くなった妻の墓もある。また、子の利景が建立した龍護寺にも墓がある。法名は、乾樹院殿文岳宗叔大居士。跡は景玄の子一行が継いだ。

明治期に阿部直輔によって謄写校正された『恵那叢書』(鷹見弥之右衛門著)によると、美濃出身で織田信長の重臣となった明智光秀の叔父である明智光安は景行の事であるとしている。その説に従うと景行は明智光継の三男として生まれ、明知遠山氏を継いだ事となる。また永井寛が『明智光秀』でその説を補強している。

景行は入道して宗叔と号しているが、明智光安は宗宿(または宗寂)と号していて類似しており、また景行より前と以降で明知遠山氏の墓所が異なることも根拠となるという。

  1. ^ a b 『寛政重修諸家譜 利仁流遠山2』
  2. ^ 『美濃国諸旧記』

参考文献[編集]

関連項目[編集]