高橋岩太郎 – Wikipedia

高橋 岩太郎(たかはし いわたろう、1912年1月25日 – 2002年)は日本のヤクザ、右翼活動家。日本国粋会落合一家六代目総長。東京都中野区本町出身。

終戦まで[編集]

明治45年(1912年)1月25日、東京府東多摩郡中野町(現:東京都中野区本町)で生まれた。実家は、農業と酒造業を営む旧家だった。

大正12年(1923年)、高橋岩太郎は、中野の桃園尋常小学校を卒業後、東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高校)に進学した。

同年9月1日昼、高橋岩太郎は、自宅の裏の鶏小屋で卵を取っていた。同日午前11時58分44秒、関東地震が発生し、関東大震災に発展した。東京府立第六中学校は半年間休校となった。高橋岩太郎は、休校の間に、酒、煙草、博打を覚え、喧嘩に明け暮れるようになった。

大正14年(1925年)、高橋岩太郎は、喧嘩で相手を刺傷した。高橋岩太郎は、東京府立第六中学校から放校処分を受けた。高橋岩太郎は、実家を飛び出し、愚連隊に身を投じた。その後、高橋岩太郎は、警察から追われるようになり、新宿を離れて、不良仲間だった高円寺の藤井の家に転がり込んだ。幸平一家の中野・新井の貸元・大草宇一の若衆が藤井の家に出入りしていた。高橋岩太郎は、その大草宇一の若衆の紹介で、大草宇一と知り合った。

昭和4年(1929年)、高橋岩太郎は、背中に「野ざらし」(長襦袢の袖口から両手を出した足のない幽霊と「南無阿弥陀仏」の文字が入った絵)の図柄の刺青を入れ始めた。

昭和5年(1930年)5月、大草宇一は、大草の妾の住む沼袋の家に、何日も顔を見せなくなった。高橋岩太郎は、大草宇一の妾から、大草宇一の捜索を依頼された。高橋岩太郎は、東京市牛込区細工町にある鉄火場・牛込三助部屋を訪ねたが、大草宇一は見つからなかった。牛込三助部屋で、高橋岩太郎は、「大草宇一が、賭場で、幸平一家の東京府豊多摩郡戸塚町(現:新宿区早稲田)の貸元・高山寅吉(後の幸平一家七代目)の代貸・石川三郎と金銭の貸し借りで揉め、石川三郎にビール瓶で殴られて、怪我を負った」ことを聞かされた。同月、高橋岩太郎は、千住で床屋を営む大草宇一の実姉の家で、大草宇一を発見した。高橋岩太郎は、大草宇一の頭に巻かれた包帯を見て、石川三郎を殺害することを決意した。同月、高橋岩太郎は、あいくちを懐中に隠して、豊多摩郡戸塚町の石川三郎の賭場の前に張り込み、石川三郎の姿を待った。高橋岩太郎は、石川三郎の顔を知らなかったため、表に「石川三郎様」と書いた偽封筒を用意していた。同日午前2時ごろ、石川三郎の賭場があがった。高橋岩太郎は、客が賭場から出て行った後、5、6人の集団が歩いて来るのを確認した。高橋岩太郎は、その集団の前に進み、浅草の若い衆だと偽り、偽封筒を取り出して、「この封筒を石川三郎に直に渡して欲しいと頼まれた」と云った。集団の真ん中にいた男が、「自分が石川三郎だ」と名乗った。高橋岩太郎は、偽封筒を渡すふりをしながら、あいくちで石川三郎を刺した。石川三郎が倒れると、高橋岩太郎は逃走した。高橋岩太郎は、橋から小川に飛び込み、橋の下に身を隠した。高橋岩太郎は、橋の下で追っ手をやり過ごした。それから、高橋岩太郎は、大きな屋敷の庭に忍び込み、庭の植え込みの陰に隠れて、夜明けを待った。高橋岩太郎は、夜明けとともに、屋敷を出て、省線・高田馬場駅にたどり着いた。高橋岩太郎は、線路伝いに、新宿2丁目に向かい、関東国粋会城西支部の事務所を訪ねた。高橋岩太郎は、関東国粋会城西支部の小金井一家新宿二代目・平松兼三郎に面会した。高橋岩太郎は、平松兼三郎に、「石川三郎襲撃は自分の一存で行ったことで、大草宇一に迷惑がかからないように取り計らって欲しい」と訴えた。平松兼三郎は、関係者に電話をかけた。二時間ほど後、平松兼三郎は、高橋岩太郎に、石川三郎が生きていることを伝えた。すぐに、石川三郎の若衆たちが、関東国粋会城西支部の事務所に押しかけてきて、高橋岩太郎を渡すように要求した。平松兼三郎は、石川三郎の若衆の要求を拒否した。平松兼三郎は、東京・洲崎の武部申策(生井一家五代目・井上吉五郎の舎弟)の若衆・沼田寅松に仲裁人を依頼した。翌日、沼田寅松は、東京・椎名町の幸平一家六代目・足立勘助総長の自宅を訪ねて、足立勘助から一任を取り付けた。その後、高橋岩太郎は左手の小指を詰めた。

昭和6年(1931年)、高橋岩太郎は、賭場で同門の幸平一家の者を斬り、幸平一家から追放された。高橋岩太郎は、再び高円寺の不良仲間・藤井の家に転がり込み、愚連隊に身を投じた。

同年、警視総監・丸山鶴吉は、初めて、大規模な暴力団摘発を実施した。高橋岩太郎は、杉並警察署に逮捕され、市ヶ谷拘置所に移送された。高橋岩太郎は、大陸浪人を自称する黒田と同房になった。黒田は、高橋岩太郎に、12、13人分の汚物が入った桶を表に出させたりした。高橋岩太郎は、29日間の拘留の末、黒田より早い釈放となった。それから、高橋岩太郎は、高円寺で通行人に絡んでいた黒田と出会った。高橋岩太郎は、飛び出しナイフで、黒田の左頬と右頬を切り裂き、腹部を刺した。高橋岩太郎は、杉並警察署に自首した。黒田は、落合一家の大竹仙太郎(落合一家渋谷大和田の貸元・山田重吉の養子で、山田重吉の娘婿。後の落合一家五代目総長)に説得されて、告訴しなかった[1]。高橋岩太郎は、送検されず、20日間の拘留の末、釈放された。

その後、高橋岩太郎は、新宿で、大竹仙太郎と会った。大竹仙太郎は、高橋岩太郎が愚連隊にいることを知ると、高橋に落合一家に遊びに来るように誘った。高橋岩太郎は、これを契機に、大竹仙太郎のもとで、博打打ちの修業に励むことになった。当時、落合一家は、四代目・菅沼清兵衛(通称:喧嘩清兵衛)の時代だった[2]

このころ、高橋岩太郎は、目黒・駒場で開帳された常盆で、立ち番(警察の手入れを防ぐための見張り、及び、警察に踏み込まれたとき、賭場の客を逃がすための食い止め役)を務めた。この日の常盆が、警察隊の手入れを受けた。賭場の客は逃げられたが、大竹仙太郎一門の代貸以下多くが捕まった。高橋岩太郎は、右手の小指を詰めて、大竹仙太郎に詫びを入れた。

それから、高橋岩太郎は、目黒での賭場に、警察の手入れが入った際に捕まり、懲役6ヶ月の判決を受けて、服役した。出所後、高橋岩太郎は、青山のノルウェイ公使館での賭博開帳図利罪で逮捕された。高橋岩太郎は、巣鴨拘置所に拘留されて裁判を受け、懲役1年の判決を受けて、府中刑務所に服役した。

昭和11年(1936年)、高橋岩太郎は、3年間の部屋住み修業を終えた。高橋岩太郎は、大竹仙太郎から盃をおろしてもらって、大竹の若衆となった。同時に、高橋岩太郎は、賭場の一部を責任者として任された。

同年、大竹仙太郎の若衆・宮本が、目黒・駒場の大竹仙太郎の賭場に、酔っ払ってやって来た。大竹仙太郎は、宮本に賭場から帰るように云った。宮本は懐からあいくちを取り出した。賭場の梯子番が、宮本からあいくちを取り上げた。大竹仙太郎の若衆2人が、宮本を賭場の外に連れ出した。翌日の夜明け、高橋岩太郎は、大竹仙太郎の若衆・水岡辰也(高橋岩太郎の愚連隊時代の舎弟)と大竹仙太郎の若衆・堀川義生(高橋岩太郎の舎弟格)とともに、5人の見届け役を引き連れて、目黒・駒場の宮本の自宅を襲撃した。水岡辰也が、日本刀で、2階に寝ていた宮本を切りつけた。宮本は、水岡辰也の攻撃をかわして、布団を被ったまま雨戸を破って外に出て、2階のひさしを伝って地面に飛び降りた。高橋岩太郎、水岡辰也、堀川義生は、宮本を追った。宮本は、目黒・松見坂の橋の上で、力尽き倒れこんだ。高橋岩太郎、水岡辰也は、宮本に追いつき、日本刀で宮本を斬った。3日後、宮本は、破傷風を併発して死亡した。水岡辰也と堀川義生が、高橋岩太郎を庇って、目黒警察署に自首した。水岡辰也は懲役3年の判決を受けた。堀川義生は懲役2年に、執行猶予5年の判決を受けた。

昭和12年(1937年)、高橋岩太郎は、大竹仙太郎から、自分の事務所を持つことを許された。

同年、大竹仙太郎は約1ヶ月の予定で、満州国に遊びに出かけた。大竹仙太郎は、留守を高橋岩太郎に任せた。賭場に出入りしていた替え銭屋(賭場で貸元の許可を得て、両替や金貸しの商売をする者)の婆さんが、大竹仙太郎の賭場の上客を引っ張って、内会(土地の貸元に内緒で打つ博打)の博打を開帳した。高橋岩太郎は、替え銭屋の婆さんが、渋谷・円山町の待合で開帳していることを突き止めて、円山町の待合の前に張り込んだ。博打が終わって客が出て行った後、高橋岩太郎は、脇差しを抜いて、替え銭屋の婆さんを襲った。替え銭屋の婆さんは、待合の玄関に逃げ込んだ。高橋岩太郎は、待合の玄関で、脇差しで替え銭屋の婆さんの背中を斬った。高橋岩太郎は、2度と内会をしないように、替え銭屋の婆さんを脅した。高橋岩太郎は、脇差しを持って、渋谷警察署に自首した。

高橋岩太郎は、渋谷警察署の留置場で吐血した。高橋岩太郎は、刑の執行が停止され、渋谷・道玄坂の大友病院に入院した。高橋岩太郎は、肺結核だった。高橋岩太郎は、大友病院に長期入院した。

その後、高橋岩太郎は、湯河原の博打専門旅館「曙」で、磧上義光(後の住吉一家四代目総長。港会会長)と知り合った。高橋岩太郎と磧上義光は、湯河原や熱海、箱根の賭場で、博徒らに対する恐喝を繰り返し、博徒らから金銭を奪った。高橋岩太郎と磧上義光は、銀座の篠原縫殿之助に頼んで、旅館代を支払ってもらった。

昭和13年(1938年)、高橋岩太郎と磧上義光の恐喝が、湯河原に遊びに来ていた上萬一家貸元・磧上義朝(磧上義光の兄。通称:傷義)に伝えられた。磧上義光は、高橋岩太郎と磧上義光に、東京に帰るように命令した。

同年、高橋岩太郎は、落合一家恵比寿の貸元・富岡倉吉[3]の養子となり、富岡倉吉の末娘と結婚した。

同年ごろから、愚連隊やヤクザと思しき人物は、警察に逮捕され、29日間の拘留を受けるようになってきた。高橋岩太郎は、賭場の客・沢田に頼み込んで、空き瓶の回収業を始めた。

昭和15年(1940年)、高橋岩太郎は、大竹仙太郎お供で、浅草の料理屋に入った。高橋岩太郎は、大竹仙太郎の紹介で、芸妓のお松と知り合った。それから、高橋岩太郎は、お松を目当てに、浅草に通った。同年、高橋岩太郎は、恵比寿で、舎弟に制裁を加えて、傷害事件を起こし、渋谷警察署から指名手配を受けた。高橋岩太郎は、お松の家(お松の姉が経営する置屋)に身を隠した。傷害事件は示談になったが、高橋岩太郎はお松の家に住むようになった。

昭和19年(1944年)、高橋岩太郎は、召集令状を受け、教育召集として、東京・赤羽の工兵隊に入営した。同年、高橋岩太郎は、便所で、同じ班の上等兵を丸太で殴り倒したため、3日間営倉入りとなった。高橋岩太郎は、入営して3ヶ月後、教育召集が終わり、除隊となった。その後、赤羽の工兵隊の班長が、浅草のお松の家を訪ねてきた。高橋岩太郎は、班長に、かねてから班長のために用意していた軍刀を贈った。

昭和20年(1945年)、関東国粋会は、「武蔵挺身隊」を設立し、東部軍に協力した。高橋岩太郎も、武蔵挺身隊に所属し、防空壕掘りなどに従事した。同年8月15日、高橋岩太郎は、玉音放送で「終戦詔書」の音読放送を聴いた。

終戦後から落合一家継承まで[編集]

このころ、高橋岩太郎は、渋谷代官山に居を構え、恵比寿駅前に事務所を設置していた。事務所には、常時20、30人の若衆が詰めていた。高橋岩太郎は、渋谷・恵比寿の3ヶ所で毎日常盆を開帳した。高橋岩太郎は、恵比寿にあった7ヶ所の闇市のうち、6ヶ所を守りした。高橋岩太郎は、渋谷駅近くの闇市のマーケットに、自分の店を2店出店した。

同年11月3日、GHQは、朝鮮人および台湾省民を「できる限り解放国民として処遇する」と声明した。

このころ、渋谷宇田川町の闇市の一画に、華僑総本部が作られた。華僑総本部は、闇市に何軒かの飲食店を持った。その後、渋谷警察署署長・土田精(後の警視庁予備隊初代隊長)は、渋谷警察署署員に命じて、華僑総本部が闇市で販売している禁・統制品物資を没収し、不法建築家屋を取り壊した。すぐに、華僑総本部は、新たな闇物資が売買し始め、再び不法建築家屋を建てた。華僑総本部の多数の者が、集団で渋谷警察署に押しかけ、華僑に対する取締りを止めるように、激しく抗議した。それから、闇市を通った警察官に対する華僑総本部の者の集団暴行が、繰り返された。これを切っ掛けに渋谷事件が勃発した。

昭和22年(1947年)、高橋岩太郎は、恵比寿駅前の事務所で、渋谷警察署の刑事に、「高橋岩太郎の身柄は拘束しない」と云う条件で、渋谷事件で使用した14年式拳銃の任意提出を求められた。高橋岩太郎は、渋谷警察署の刑事の要求を拒否した。渋谷警察署の刑事は、毎日高橋岩太郎を説得に訪れた。2週間後、高橋岩太郎は、高橋の身柄を拘束しないと云う条件で、14年式拳銃の任意提出に応じた。3日後、高橋岩太郎は、渋谷駅前交番の巡査から、渋谷警察署に出頭するように、通知された。高橋岩太郎は、渋谷警察署に出頭し、司法主任の取調べを受けた。高橋岩太郎は、銃砲刀剣類等不法所持で起訴され、5日間拘留された後、釈放された。1ヵ月後、高橋岩太郎は検察庁に呼び出され、罰金刑を言い渡された。

同年、高橋岩太郎は、大竹仙太郎の伴で、銀座の賭場に行った。銀座の賭場で、大竹仙太郎と高橋岩太郎は、生井一家・篠原縫殿之輔(通称:銀座の殿様)に会った。1時間後、高橋岩太郎は、木挽町の待合で、大竹仙太郎と篠原縫殿之輔から、生井一家・森田政治(後の日本国粋会初代会長。通称:独眼竜の政)を紹介された。それから、高橋岩太郎と森田政治は兄弟分となった。

昭和25年(1950年)11月10日、大竹仙太郎が、新宿区の東京医科大学病院で、扁平上皮癌のため、死亡した。享年51。大竹仙太郎は、東京医科大学病院に入院中、生井一家・篠原縫殿之輔と小金井一家・渡辺国人を招き、落合一家の跡目を高橋岩太郎にするように、遺言していた。大竹仙太郎の葬儀は、渋谷代官山の高梁岩太郎の自宅で行われた。高橋岩太郎が施主を務めた(親の葬儀の施主を務める者が、跡目である)。森田政治も葬儀に参列した。

昭和26年(1951年)、高橋岩太郎は、落合一家六代目襲名の書状を、全国の関係者に送付した。

落合一家継承後 [編集]

昭和26年(1951年)秋、辻宣夫、小島玄之、松下喜太郎、柏木勇、三田村武夫らは、近代的な反共運動を起こすため、有馬頼寧、丸山鶴吉、吉田茂、太田耐造、後藤隆之助、安倍源基、鹿内信隆を世話人に迎えて、「日本青少年善道協会」を設立した。その後、法務総裁・木村篤太郎が、「日本青少年善道協会による青少年に対する反共啓蒙運動では、手遅れだ」と主張した。それにより、全国の博徒、テキヤ、愚連隊を結集した20万人の「反共抜刀隊」計画が持ち上がった。博徒側の取りまとめ役として、元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛が要請されたが、梅津勘兵衛は断った。

昭和27年(1952年)、高橋岩太郎は、新宿三越裏の喫茶店「白十字」で、万年東一から、安藤組・安藤昇組長を紹介された。安藤昇の兄貴分が、小林光也(通称:小光)で、小林光也の兄貴分が万年東一だった。高橋岩太郎は、安藤昇に、博打のテラの取り方などを教えた。

同年7月、木村篤太郎が、東京都文京区の梅津勘兵衛宅を訪れ、梅津勘兵衛に大日本国粋会の再建を要請した。梅津勘兵衛は「刑法を改正し、賭博事犯は非現行なら検挙させないようにする」という条件で、木村篤太郎の要請を了承した。梅津勘兵衛は、生井一家・篠原縫殿之輔、住吉一家・倉持直吉、田甫一家・金井米吉、生井一家・鈴木米太郎、生井一家・百瀬梅太郎らに協力を依頼し、了解を得た。篠原縫殿之輔の代理人が、森田政治だった。森田政治は、高橋岩太郎にも協力を依頼した。高橋岩太郎は快諾した。

同年12月16日、東京・上野の「精養軒」で、第1回の大日本国粋会再建委員会が開かれ、「共産党が武装蜂起した場合には、博徒部隊はテキヤ部隊と協力して、武力で鎮圧する」との誓約がなされた。この会合の経費の殆どを、森田政治が負担した。その後、吉田茂首相が、「反共抜刀隊構想」に反対し、「反共抜刀隊構想」は頓挫した。また、梅津勘兵衛の死去にともない、大日本国粋会再建計画も中断した。森田政治は、高橋岩太郎を連れて、大野伴睦、小西寅松らに会った。森田政治は、小西寅松に国粋会会長就任を、大野伴睦に国粋会参与就任を依頼した。小西寅松は国粋会会長就任を承諾したが、大野伴睦は返事を保留した。

昭和28年(1953年)、安藤組は、高橋岩太郎の舎弟・武田一郎率いるテキヤの武田組と小競り合いを繰り返していた。白昼に路上で、両組の若衆同士が乱闘を起こし、互いに相手方の事務所に殴り込みをかけた。武田組は、安藤組の地下事務所にガソリンをまき、火を付けようとした。同年、安藤昇は、東興業の事務所を、渋谷区上通り4丁目のビル3階に移した。事務所は10坪。社長室は8坪で、緑色の絨緞を敷き詰めていた。社長室の窓際には、丸い鳥かごが置かれ、紅いカナリヤが飼われていた。このころから、安藤昇は賭博を開帳し始めた。毎週金曜日にはポーカー賭博を行った。

昭和32年(1957年)、武田組組員と安藤組組員が揉めた。武田組・武田一郎組長の親分は、関東尾津組・尾津喜之助組長だった。翌日午前6時ごろ、安藤昇は、2丁の拳銃を所持し、安藤組専務・志賀日出也とともに、新宿の尾津喜之助の自宅に赴いた。安藤昇は、武田組との抗争の件で、直接尾津喜之助のもとに掛け合いに来たことを告げた。尾津喜之助は、安藤昇の武田組に対する要求を認めた。同日、高橋岩太郎と小林光也は安藤昇の行動に立腹した。翌日、高橋岩太郎と小林光也は、尾津喜之助宅を訪れて、尾津喜之助に安藤昇の行動を謝罪した。尾津喜之助は、安藤昇の要求を認めていた。高橋岩太郎は、尾津喜之助に、安藤組と武田組に手打ちをさせることを提案した。尾津喜之助は、高橋岩太郎の提案に賛成した。その後、安藤組と武田組は、池袋の料理屋で、高橋岩太郎を仲裁人、尾津喜之助の兄弟分・極東関口初代の関口愛治を見届人として、手打ちを行った。

昭和33年(1958年)6月11日午後7時10分、横井英樹襲撃事件が勃発した。事件発生直前まで、高橋岩太郎は、安藤組赤坂支部で、安藤組赤坂支部長・志賀日出也や安藤組赤坂支部・千葉一弘(後の住吉会住吉一家石井会相談役)らとマージャンを行っていた。

同年7月3日、「日本国粋会」が結成された。同日、品川プリンスホテルで、生井一家、幸平一家、田甫一家、小金井一家、佃政一家、落合一家、信州斉藤一家、金町一家、伊勢紙谷一家、義人党や佐郷屋嘉昭、松本良勝、辻宣夫、防衛庁政務次官ら400余名が出席し、「日本国粋会創立記念式典」が行われた。

同年12月24日、静岡県三島市で、鶴政会(後の稲川会)の若衆とテキヤ極東愛桜連合会(後の極東会及び極東桜井総家連合会)系の若衆が揉めた。互いに殴り込みの応酬があり、鶴政会も極東愛桜連合会も死者と重傷者が出た。森田政治は、高橋岩太郎と前川一家・荻島峯五郎総長に相談して、仲裁に動いた。極東愛桜連合会・関口愛治会長は森田政治に話を任せたが、鶴政会・稲川角二(後の稲川聖城)会長は納得しなかった。高橋岩太郎と荻島峯五郎も、森田政治を助けて、稲川角二を説得した。

昭和35年(1960年)同年6月10日、ハガチー・アメリカ大統領新聞係秘書は、羽田空港出口で、デモ隊に取り囲まれた。ハガチーは、アメリカ海兵隊のヘリコプターで、羽田空港を出た。

同月、岸信介首相は、警察の警備不足を補うため、自民党幹事長・川島正次郎を通して、児玉誉士夫に、右翼団体・暴力団・宗教団体の取りまとめを依頼した。

児玉誉士夫は、警視庁と打ち合わせた結果、稲川組(後の稲川会)5000人、松葉会2500人、飯島連合会3000人、国粋会1500人、義人党300人、神農愛国同志会10000人を、「警官補助警備力」として、東京・芝の御成門周辺に配置することを決めた。

昭和36年(1961年)2月17日、東京築地明石町の料亭「治作」で、関口愛治と稲川角二の手打ち式が行われた。仲裁人には森田政治がなり、介添人には高橋岩太郎と荻島峯五郎がなった。

昭和37年(1962年)夏ごろから、右翼の児玉誉士夫は、「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という「東亜同友会」の構想を掲げ、錦政会(後の稲川会)・稲川角二(後の稲川聖城)会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らに根回しを始め、同意を取り付けた。

昭和38年(1963年)2月11日、京都市の都ホテルに、稲川角二、岡村吾一、町井久之、三代目山口組・田岡一雄組長らが集まり、児玉誉士夫の構想が披露された。関東の組長を稲川角二が、関西・中国・四国の組長を田岡一雄が、九州の組長を児玉誉士夫がまとめて、意思統一を図った。

同年3月、グランドパレス事件が勃発した。結果的に、児玉誉士夫が推し進めていた東亜同友会構想は頓挫した。

同年3月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。

同年8月、安藤組幹部・西原健吾(花形敬の舎弟)の若衆・田中が、渋谷区宇田川町で、岡村文化部(会長は岡村吾一)組員と揉めた。これを切っ掛けに、花形敬刺殺事件が発生した。

同年12月21日[4]、日本国粋会は、錦政会、住吉会、松葉会、義人党、東声会、北星会とともに、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。

同日、関東会の結成披露が、熱海の「つるやホテル」で行われた。松葉会・藤田卯一郎会長が、関東会初代理事長に就任した。児玉誉士夫、児玉誉士夫らが昭和36年(1961年)に結成した青年思想研究会(略称は青思会)常任諮問委員・平井義一元衆議院議員、青思会諮問委員・白井為雄、青思会常任実行委員・中村武彦、青思会常任実行委員・奥戸足百、松葉会顧問・関根賢、三代目波木一家・波木量次郎総長が関東会結成披露に出席した[5]

同年12月下旬、関東会は、関東会加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党衆議院議員・池田正之輔は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。これは、暴力団が連帯して政治に介入してきた、初めての事件だった。河野一郎派を除く衆議院議員と参議院議員は「関東会からの警告文は、児玉誉士夫と親しい河野一郎を擁護するものだ」と判断し、検察と警察当局に関東会壊滅を指示した[6]

昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。

同年2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。

昭和40年(1965年)5月、田岡一雄が東京で倒れ、渋谷区セントラル病院に入院した。高橋岩太郎は、森田政治の妻とともに、田岡一雄を見舞った。

同年12月、日本国粋会が解散した。

昭和55年(1980年)1月、高橋岩太郎は、賭博開帳図利罪で懲役1年6ヶ月の刑を受け、府中刑務所に服役した。高橋岩太郎は狭心症で病舎に移った。高橋岩太郎は、収監中に陽明学を知り、陽明学に没頭した。

昭和56年(1981年)1月、高橋岩太郎は府中刑務所を出所した。住吉連合(後の住吉会)常任相談役・日野一家・川口喨史ら1000人近い人が出迎えた。刑務所側は、出迎えの者を府中競馬場の近くに移動させ、刑務官が高橋岩太郎を背負って、府中競馬場まで運んだ。

昭和62年(1987年)、森田政治が死去した。享年74。同年9月3日、東京・泉明寺で、森田政治の本葬が執り行われた。高橋岩太郎が、葬儀委員長を務めた。

平成14年(2002年)、高橋岩太郎が死去した。

  1. ^ 当時、傷害罪は親告罪だった
  2. ^ 落合一家は、初代が落合円次郎(通称:広尾の円次)、二代目が安藤兵太郎(落合円次郎の舎弟分)、三代目が松原富蔵(安藤兵太郎の子分)だった
  3. ^ 落合一家三軒茶屋初代・富岡辰五郎の実子。富岡辰五郎は、落合一家初代・落合円次郎の腹違いの弟だった
  4. ^ 「第046回国会 法務委員会 第30号」「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」では、結成披露日を12月21日と記載されているが、山平重樹『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9 と山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-X では11月21日と記述されている
  5. ^ 出典は、大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』大和書房、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4 のP.273~P.274
  6. ^ 出典は、大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』大和書房、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4 のP.274~P.275

高橋岩太郎関連の書籍[編集]

参考文献 [編集]