電力中央研究所 – Wikipedia

一般財団法人電力中央研究所(いっぱんざいだんほうじんでんりょくちゅうおうけんきゅうじょ)は、電気事業に関連する科学技術・経済・政策の研究開発を行う研究機関である。電中研電研などの略称が用いられることもある。英語名はCentral Research Institute of Electric Power IndustryCRIEPI(クリエピ)と略される。50年以上にわたる研究活動をもとに、電気事業に関して先駆的な提言を行っている[3]

基本情報[編集]

東京都千代田区大手町本部のほか、東京都狛江市、千葉県我孫子市、神奈川県横須賀市に研究拠点を置く。経済・土木・建築・電気・原子力・機械・化学・物理・生物・環境・情報など、あらゆる分野の研究者を揃えており、大学の客員教授が多く在籍する。総勢は約750名、その内の約660名が研究員であり、研究員の比率が高い[1]。電力会社の合同出資により運営されているため、電力会社のニーズに沿った研究開発を推進する一方で、前述の松永安左エ門の設立の意図から、公益法人として完全中立を堅持する体制や、科学研究費補助金の交付対象である学術研究団体としての側面も併せ持っている。東京電力などの電気料金の0.2%が運営資金である[4]

設立の経緯[編集]

1949年(昭和24年)、吉田茂内閣総理大臣がGHQの命令により、松永安左エ門を委員長とする電気事業再編成審議会を設置したことが、電力中央研究所の発足の切っ掛けである。戦前は、九州・関西・中部・関東の電力会社を傘下におさめる「電力王」と呼ばれた松永であったが、戦時中は反戦と自由主義を貫き、近衛文麿内閣総理大臣からの大政翼賛会への加入や大蔵大臣への就任の要請を断った。更に、戦時下で昭和天皇の勅命を頂いているとされていた官僚を「軍部に追随する人間のクズ」と公言し、新聞各紙に謝罪広告を掲載する事態に追い込まれた後も、公然と電力の国家管理政策に反対した。このため、軍部のブラックリストに載り、政財界から離れることになった。吉田茂が、年齢的にも健康不安が危惧された73歳の松永を起用したのは、戦時中の言動から、戦争犯罪と無縁なことや、GHQと思想信条が近いと考えたためである。

松永は、国家管理政策による半官半民の日本発送電の分割民営化を提案したものの、当時の通商産業大臣兼大蔵大臣であった池田勇人を除いて、電気事業再編成審議会の全委員、政財界、官僚、学識経験者、国民、マスコミからの反対にあい、日本中が日本発送電の存続を疑わなかった。更に、松永の「電気事業という重大国策を(電気事業再編成審議会の)多数決で決するとは何ごとか」との暴言を切っ掛けに、松永は孤立無援の状態となった。しかし松永はGHQを直接説得し、国会決議より効力が強いGHQポツダム政令として、9電力体制(当時、電源開発や沖縄電力はまだ存在していなかった)への分割民営化を成し遂げた。続いて、これを実行する機関として公益事業委員会を設置したものの、当時の日本は急激に電力需要が増加し、電力不足のため電気料金の大幅な引き上げが続く状況にあった。電気料金の引き上げは国民の反発を招き、松永は「電力の鬼」と呼ばれるようになる。

松永は、電気事業の持続には「電力経済ならびに電力技術の調査、研究を盛んにするため、必要なる機関を新設または拡充し、さらなる専門家の養成も行い、電気事業の健全なる進歩発展が必要不可欠」であると考え、戦時中に国が電気事業に介入した苦い経験を元に、電力経済ならびに電力技術の研究開発を一切の外圧に影響されることなく効率的に実施するための、公益法人のシンクタンク兼研究機関の設立を構想した。

そして、75歳となった松永を中心とする、9電力会社と電気事業再編成審議会は、解体した日本発送電の研究部門を元に、1951年(昭和26年)11月7日に、日本最大の研究機能を有する、戦後日本初の本格的な民間シンクタンクとして、電力中央研究所を設立した(なお、発足時の名称は電力技術研究所であったが、現在の社会経済研究所の元となるシンクタンク部門を翌年設置し、現在の名称に改称した)。

社会に対する、これまでの主な提言[編集]

戦後、高度成長期には、電源の火主水従化、火力発電用燃料の油主炭従化、火力発電における原油生焚き、原子力発電の商業化、佐久間周波数変換所の設置など、電気事業の根幹にかかわる重要事項について、独自の研究成果に基づきシンクタンクとして提言した。オイルショックから現在に至る間には、電源のベストミックスの概念、火力発電用燃料の海外炭の導入による石炭回帰、エコキュートの開発を基にしたオール電化による二酸化炭素排出削減などを提言している。
東北電力女川原発の建設の際、東北電力に、津波を考慮して海抜15mの高台への設置を主張し、2011年の東日本大震災では女川原発の壊滅は免れた[5]

また、松永が別途組織した私設シンクタンク「産業計画会議」においても、電力中央研究所は松永のブレーンとして参画した。

松永安左エ門、電力中央研究所設立の辞[編集]

 電力中央研究所に付き、僭越を顧みず、一筆す。

 予が二十余年前、東邦産業研究所の所長となりし時、産業研究は、知徳の錬磨であり、もって社会に貢献するべきであることを悟った。但し科学の進歩は累積と推理に由り、無限の発展を遂げる性質のものであり、十八・九世紀に入り、はるかに人類は其面に躍動して蒸気利用の発明、電気の発明、化学の発明、又は是等の応用に革新的進歩を成した。近くは原子力、水素の融合反応等、或いは人工衛星に至るまで、科学的進歩は無限に続くのである。

 しかし利己的な人間性は、社会的には、なお四千年前の哲人と比し、何らの進境を示していない。

 是は人間の悲劇である。

 諸氏能く之れを知り内面的な人間性の錬磨を科学の研究と共に続けられん事を祈るものである。
— 一九五七年一〇月二二日 喜多見に於いて

組織構造[編集]

専門分野別に、以下の8つの「専門研究所」から編成されている。

社会や電気事業が抱える緊急で重要な課題に対して総合的に取り組むため、研究所をまたぐ横断的組織として「総括プロジェクト」が存在する。

  • 軽水炉高経年化研究
  • 赤城実験センター 
    • 赤城山の南麓、赤城南面千本桜の西隣、標高約500mに位置し、大型研究設備を用いる全所共通の試験ヤードとして、年間30件程度の研究テーマに関連した試験が行われている。
    • 職員は5人だが試験作業は他地区から研究員が出張して実施する。
    • 毎年1回実験センターを公開している。

原子力によるあらゆる事故を想定した対策を講じる研究を行う組織。

  • 原子力リスク研究センター(Nuclear Risk Research Center:NRRC) – 2014年10月1日発足。人員約110名、センター長MITジョージ・アポストラキス(George Apostolakis)名誉教授[6][7]

歴代理事長[編集]

  1. 大西英一 – 1951年11月〜1953年 3月(元日本発送電総裁)
  2. 松永安左エ門 – 1953年 4月〜1971年 6月(私設シンクタンク産業計画会議議長、アジア経済開発協議会名誉会長、勲一等瑞宝章、外務省顧問、衆議院議員、東邦電力社長、電気事業再編成審議会委員長、公益事業委員会委員長代理、西部合同ガス(現・西部ガス)初代社長、博多商業会議所会頭、中部共同火力社長、日本電気協会会長、慶應義塾大学名誉博士、北里大学医学部建設後援会長、電力研究国際協力機構(IERE)創設者)
  3. 横山通夫 – 1971年6月〜1980年6月(元中部電力会長)
  4. 成田浩 – 1980年6月〜1991年6月(元東京電力副社長)
  5. 依田直 – 1991年6月〜1999年6月(元東京電力副社長)
  6. 佐藤太英 – 1999年6月〜2005年6月(元中部電力副社長)
  7. 白圡良一 – 2005年6月〜2009年6月(元東京電力副社長)
  8. 各務正博 – 2009年6月〜2018年6月(元中部電力副社長)
  9. 松浦昌則 – 2018年6月〜現在(元中部電力副社長)

著名な研究員等[編集]

現職者[編集]

顧問・名誉職[編集]

出身者[編集]

国際協力機関[編集]

包括協定[編集]

共同研究[編集]

(包括協定との重複を除く)

参加国際機関[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]