Month: March 2022

平山信 – Wikipedia

平山 信(ひらやま しん[1]、慶応3年9月9日(1867年10月6日) – 昭和20年(1945年)6月2日)は、日本の男性天文学者。名前の「信」は「まこと」と読まれることもある。同姓の天文学者・平山清次(天体力学、古暦の研究及び小惑星の族の発見で有名)とともに、月の裏側にあるクレーター「ヒラヤマ」の名前の由来となっている[注 1]。 幕臣平山詮の子として江戸(現・東京都)に生まれた[2]。兄に海軍教授、海軍大学校教官の平山順[2]。寺尾寿に師事した[3]。1888年7月に東京帝国大学理科大学星学科(現・東京大学理学部天文学科)を卒業、蘆野敬三郎と共に[4]同学科の第1回卒業生となった[1]。1890年、グリニッジへ留学、その数か月後にはポツダムへと移り、ヘルマン・カール・フォーゲルの下で当時勃興しつつあった天体物理学を学んだ[1]。1894年に帰国すると東京帝国大学理科大学星学科講師、翌1895年には教授となり、実地天文学、天文観測、天体物理学、恒星天文学、軌道論、測地学などを教えた[1]。1899年に理学博士[1]、1909年に帝国学士院会員となる[1][5]。1920年、寺尾寿の後任として東京天文台第2代台長に就任、1928年3月に退官するまでその任にあった[1]。台長を務めた間の1924年には、東京天文台を東京麻布から三鷹村(現・三鷹市)への移転を行った[1]。また1925年から理科年表の刊行を始めている。 1900年3月に2つの小惑星候補を発見する[1]も軌道を確定できず、発見者とは見なされなかった[6][7][8]。この2つの小惑星のうち一方は平山に命名権が譲られトキオ ((498) Tokio) と命名された[8]。もう一方もまた命名について平山に意見が求められ、平山はNipponを提案、これを女性名詞化したニッポニア ((727) Nipponia) と命名された[8]。 日食観測にもたびたび参加し、太陽関係の理論的な研究も行っている[1]。後には恒星天文学を主に研究した[1]。 日本天文学会の創立にも携わり、初代の副会長[9]、第2代、5代、9代の会長を務めた[10]。 位階 勲章等 家族関係[編集] 明治32年(1899年)11月:長男・坦誕生[2]。

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清宮四郎 – Wikipedia

清宮 四郎(きよみや しろう、1898年(明治31年)5月23日 – 1989年(平成元年)10月22日)は、日本の法学者(憲法)。東北大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。美濃部達吉門下。宮沢俊義とともに戦後の憲法学界をリードした。日本学士院会員。法学博士(東北大学)。 『憲法改正作用』有斐閣 1938 『外地法序説』有斐閣 1944 『新憲法と財政』国立書院 1948 新憲法大系 『権力分立制の研究』(有斐閣、1950年) 『憲法要論』法文社 1952 『憲法改正の理論と実際』通信教育振興会 1954 『憲法の理論』(有斐閣、1968年) 『国家作用の理論』(有斐閣、1969年) 『憲法』1-2 宮沢俊義共著(有斐閣法律学全集、1957-59年) 『憲法』編 青林書院 1959 新法律学演習講座 『憲法演習』正続 佐藤功共編 有斐閣 1959-67  『憲法事典』編 青林書院 1959 『憲法講座』全4巻 佐藤功共編 有斐閣 1963-64 『憲法・行政法小事典』柳瀬良幹共編著 有信堂 1964 法律小事典シリーズ 

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松浦党 – Wikipedia

松浦党(まつらとう)は、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された松浦氏の武士団の連合。一族は48つに分かれており、松浦四十八党とも呼ばれた。水軍として有名。 江戸時代、平戸松浦氏によって編纂された『松浦家世伝』によると、嵯峨源氏の流れをくむ松浦氏を惣領とし、渡辺綱にはじまる渡辺氏を棟梁とする摂津の水軍として瀬戸内を統括した渡辺党の分派とされる。祖の松浦久(渡辺久、源久)は、渡辺綱(源綱)の子の奈古屋授(渡辺授、源授)の孫とされ、延久元年(1069年)松浦郡宇野御厨の荘官(検校)となり、松浦郡に所領を持ち松浦の苗字を名乗る。 ところが、松浦久が肥前に下向されたとされる延久元年より前に、嵯峨源氏の系統と思われる一字の諱を名乗る者が、この地方に関係ある者として存在していたことを示す史料が存在している。嵯峨天皇の皇子源定の孫に、肥前守源浮がおり、藤原実資の日記『小右記』の長和5年(1016年)の条の記述からは、源聞という人物が肥前守に任じられ、実資の所に御礼言上のため訪れていたことがわかる。彼らは遥任国司であったと思われるが、この地にその子孫が定着したことは考えられる。また寛仁元年(1019年)の刀伊の入寇の防戦に当たった指揮者に、前肥前介源知という人物が存在し、多くの刀伊の賊徒を射殺し、一人を生け捕りにした。このように延久元年以前においても、松浦一族の先祖と思われる者が、国司や在庁官人として活動していたとされる[1]。 一族は、それぞれの拠点地の地名を苗字とし、一族の結合体を松浦党という。党的結合体であるから中心となる氏の強い統制によるものではなく、同盟的なものであったといえる。その中から指導力と勢力のある氏が、松浦党の惣領となった。 これら松浦一族は、その居住した地域が多島海沿岸であったことと、朝鮮半島、中国大陸に海を隔てて近接していたことから、船を利用して日宋貿易に従事する機会も多かったと思われる。また、船に頼る生活から、水軍として、さらには海賊常習者のイメージが中央貴族をはじめ一般にも定着し、松浦党の呼称が与えられることになった。 松浦氏と安倍氏[編集] 松浦党には、嵯峨源氏渡辺氏流とされる松浦氏系のものが大半だが、一部に奥州安倍氏の生き残りで、源義家に敗れ宗像の筑前大島に流された安倍宗任の子孫の安倍宗任系のものがある。松浦党の系図は30種ほどもあり、その系譜については異同が多く、不明な点も少なくない。 東国御家人との確執[編集] 本流とされる摂津の渡辺氏は摂津源氏の源頼政一族の配下にあったが、肥前の松浦党は平家の家人であり、源平合戦においては当初、平家方の水軍であった。しかし、壇ノ浦の戦いでは源家方につき、源家方の勝利に大きく貢献したことから、その功により、鎌倉幕府の西国御家人となり、また九州北部の地頭職に任じられる。しかしながら同じ環境にあった秋月氏や蒲池氏、菊池氏などと同じく、元平家家人の九州御家人を信頼していない源頼朝が送り込んだ少弐氏・島津氏・大友氏などの「下り衆」の下に置かれる。 特に13世紀の元寇の時には佐志氏や山代氏をはじめ活躍したことで知られ、肥前国松浦郡で蒙古軍と戦った佐志房と三人の息子の直・留・勇は揃って戦死し、松浦党数百人が討たれ、あるいは生け捕りにされ、松浦は壱岐や対馬同様に蒙古軍に蹂躙されたという。 南北朝時代の松浦党[編集] 優勢な側に味方[編集] 後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力が各地で蜂起し、九州でも博多の鎮西探題北条英時が、守護であった大友氏・島津氏・少弐氏などの軍勢に攻められて滅亡した。中央での倒幕勢力が大きくなると、松浦党諸家は、それぞれの家長の判断によって、ある者は後醍醐天皇の軍勢催促の綸旨に応じ、ある者は北条英時の元に馳せ参じた。 建武3年(1336年)3月、京都での権力争いに敗れた足利尊氏は再起を期して九州に逃れてきたが、この時松浦党の一部の家々は、これを迎え撃った菊池武敏側の軍にあった。しかし、多々良浜の戦いで尊氏の勝利が動かない状勢になると、松浦党はたちまち尊氏側に寝返った。そして、松浦党は足利氏と同じ源氏の末裔と称して、それを積極的に主張するようになった。それに伴って、松浦一族でない松浦地方の他氏族も婚姻関係を頼って松浦一族を主張するようになった。 松浦一揆[編集] 多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏は、九州経営のため、一色範氏を九州探題として留置した。一方南朝方も、九州における菊池氏を中心とする南朝勢力結集のため、興国3年(1342年)、後醍醐天皇の皇子懐良親王が征西将軍宮として薩摩国に上陸した。さらに観応の擾乱による足利氏内部の対立抗争により、尊氏の庶子足利直冬が下向したため、九州は三つの勢力に分かれて争われることになった。それぞれの勢力は、在地勢力を味方につけることによって、優位を占めようとし、諸勢力の軍事催促を受けた松浦党は、それぞれが独立する家長の利害得失の状況判断によって、行動の態度が決定された。 松浦党をひとつの固定した勢力として味方につけようとする試みが各勢力によってなされたが、特に熱心だったのは、応安4年(1371年)、九州探題に任命されて下向してきた今川了俊であった。彼は松浦党に対して地縁的関係による一揆契約を結ばせる政策を推進した。松浦党の一揆契諾状は応安6年(1373年)から明徳3年(1392年)までの約20年間に4回結ばれている。[2] 戦国大名から平戸藩主へ[編集] 松浦党は、居住する地域によって上松浦党と下松浦党とに大別された。上松浦党は、松浦久以来の松浦地方の岸岳城を中心に大きな勢力を誇ったが、その最大勢力である波多氏は、戦国時代をへて滅亡した。下松浦党の傍系である平戸松浦氏は、戦国大名として成長し、関ヶ原の戦い以降、旧領を安堵されて平戸藩6万3千石の外様大名として存続した。 対外関係[編集]

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ゼノサーガ エピソードI[力への意志] – Wikipedia

『ゼノサーガ エピソードI[力への意志]』(ゼノサーガ エピソード ワン ちからへのいし)は、モノリスソフトが制作、 ナムコ(後のバンダイナムコゲームス)が2002年2月28日に発売したPlayStation 2用ロールプレイングゲーム。ゼノサーガシリーズの第1作目となる。PlayStation 2用ソフトで最初に片面二層DVDを採択した。そのため、初期型PS2では起動失敗されることがある。 また海外版を元に再構成した『ゼノサーガ エピソードI リローディッド[力への意志]』(CEROレーティング15歳以上対象)が2003年11月20日に発売されている。 1998年にスクウェア(現:スクウェア・エニックス)から発売された『ゼノギアス』の流れを汲むSFRPG。ゼノサーガ三部作の第一弾となる。監督・脚本は『ゼノギアス』同様に高橋哲哉が手掛け、一部スタッフも共通しているが、あくまで『ゼノギアス』の初期構想をベースに発展・拡張したものであり、直接の関連性は無い。『ゼノギアス』本編をエピソードVとする初期構成で言えば、その中で最も古いエピソードIの星間戦争時代に相当する。詳細はゼノギアス、及びゼノサーガシリーズの記事も参照。 主人公である女性技術者シオン・ウヅキと、彼女が開発したアンドロイドKOS-MOSを中心とした物語だが、群像劇の構造を持ち、様々なキャラクターの視点で語られる。後半からは仲間キャラの一人であるJr.を巡る因縁が主軸となり、彼が実質的な主人公となる。ストーリーは合計7時間にも及ぶムービーを見てストーリーを追いながら、宇宙船やスペースコロニーを探索したりダンジョンを攻略して進めていく一本道のRPGの方式を取る。 戦闘はコマンド入力による必殺技や搭乗型ロボットを駆使して戦うもので、『ゼノギアス』を一部踏襲したシステムとなっているが、コマンドは物理とエーテルに分類されたり、ロボット「A.G.W.S」は使用が必須ではないなど相違点も多い。 本作はモノリスソフトの処女作となるが、当時は組織作りと並行して開発を行っていた事もあり、人材が足りず予算も時間も目減りしていく中での製作だった。スクウェアの旧CG室(現・ビジュアルワークス)の出身のスタッフがいたため、ムービーはいくらでも作ることができたが、マスターアップの約半年前にプログラマーが入社するまで描画エンジンが無く、2年の開発期間のうち1年半はムービーだけを作り込むしかなかったという。ゲーム部分はほぼそこから一気に開発が進められた[2]。 登場組織[編集] 星団連邦政府 50万もの惑星で成り立っている連邦国家。各惑星には高度な自治権が与えられている。主星はフィフス・エルサレム。 接触小委員会 人類に敵対的行動を示す謎の存在であるグノーシスを研究する為に作られた組織。

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上富良野駅 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “上富良野駅” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年5月) 上富良野駅(かみふらのえき)は、北海道空知郡上富良野町中町1丁目1にある北海道旅客鉄道(JR北海道)富良野線の駅。駅番号はF39。かつては急行列車の停車駅でもあった。 ラベンダーの里の玄関口として知られ、駅の敷地内にもラベンダーの花が植えられ、ラベンダーの季節にはその花を見ることが出来る[4]。 2面2線の相対式ホームを持つ地上駅。便所は改札外に男女別の水洗式便所がある。ホーム間の移動は跨線橋を使う。 北海道ジェイ・アール・サービスネットが駅業務を受託する業務委託駅であり[2]、みどりの窓口(営業時間7時20分~15時00分、日・祝休み)が設置されている[3]。また夏季のみ売店が設置され、お土産やソフトクリームなどを販売する。 待合室(2017年8月) ホーム(2017年8月) 跨線橋内部(2017年8月) 駅名標(2017年8月) 利用状況[編集] JR北海道によると、乗車人員(特定の平日の調査日)平均は以下のとおりである。 調査対象の5年間

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カミロ・シエンフェゴス – Wikipedia

カミロ・シエンフエゴス・ゴリアラン(Camilo Cienfuegos Gorriarán, 1932年2月6日 – 1959年10月28日)は、キューバの革命家。 ハバナで生まれる。 両親はスペイン内戦において共和国派に属しキューバへ亡命する。カミロ・シエンフェゴスは独裁者フルヘンシオ・バティスタに対する地下活動を行い、キューバ革命に重要な役割を果たした。カミーロはフィデル・カストロ、ラウル・カストロおよびチェ・ゲバラと共にキューバ革命を主導した一人で、富裕層であったカストロ、ゲバラに比してカミロは庶民階層出身の人物として知られる。 はじめは画家を志していたが、1953年のモンカダ兵営襲撃に参加し、革命の間チェ・ゲバラと一緒に反乱軍を率いた。革命の勝利後にシエンフェゴスは軍隊の最高指揮官に就任し、反革命的な暴動と戦い農地改革の実施に大規模に関与した。 シエンフェゴスは共産主義者ではなく、無政府主義者だった。また革命の間彼が率いた軍隊も共産主義ではなかった。 しかし特にチェ・ゲバラから敬愛され、ゲバラは自分の息子(長男)に「カミロ」の名をつけている。 カミロ・シエンフェゴスが1959年10月28日にセスナ事故で死んだのは、悪天候が原因とされる。しかしアメリカのキューバ反政府コミュニティーの中では、「カストロがシエンフェゴスの飛行機を空軍のミグ戦闘機に撃ち落とすように命じた」と主張される。また、当日の夜の天候は晴れだったとされる。 キューバ空軍大尉、ロベルト・カルデナスによると、シエンフェゴスはキューバのソビエト化に反対した指揮官フーバー・メトスの処刑を拒絶したので撃墜されたという。 フィデル・カストロはこれらの主張を否定している。 関連項目[編集]

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山代氏 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “山代氏” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年3月) 山代氏(やましろし)は、「山代」を氏の名とする氏族。山城、山背とも表記する。 山代国造の国造氏族で、山城国に起こった。 『国造本紀』に「天一目命を以て山代国造と為す。すなわち、山代直の祖」とあり、『新撰姓氏録』の摂津国神別にも「天御影命十一世孫山代根子之後」を山代直としており、「山背忌寸」系図[1]や「鷹羽」系図[2]では歴代に直を付けて表記するなど、当初は直を姓としていた。 天武天皇十三年に山背連を賜姓され、翌年には山背忌寸を賜った。一族の山代直大山はそれより遅れて天平二十年七月十日に山背忌寸を賜姓されている。子孫は山代宿禰になった[1]。 支族は摂津国廣田神社の祝として奉仕し、子孫は鷹羽を名乗った[2]。その他、河内国などにも一族が居住した。 松浦党の支族の一つで、肥前国松浦郡山代に起こった。 松浦久の次男で松浦嫡流の御厨庄を相続した従五位、兵衛尉松浦直(安)の六男の山代囲(源六囲、山代源六囲)にはじまり、肥前国神埼郡を本拠地とする。同地の鳥羽院領神埼荘に荘官として下向した嵯峨源氏の源満末の武力的背景となる。 囲の子の源圓(源三圓、山代源三固)は、満末の孫の久直(蒲池久直)にはじまる筑後の蒲池氏の遺領を継ぎ(『筑後国史』)、山代氏は囲の子の廣(広)(山代源三廣)が継ぐ。廣の子の山代階(弥三階)は、元寇の時に松浦党として惣領の佐志房と共に戦い討ち死にしている。 鎌倉幕府が滅び南北朝時代になると、山代弘は同族の松浦勝・志佐有・有田持・波多武などと共に北朝方に属し、1359年(延文4年)の筑後川の戦い(大保原の戦い)では北朝の少弐頼尚の下に戦った。 戦国時代においては、主君の少弐氏が中国地方の大内氏に圧迫され、大内氏の意を受けて謀反を起こした龍造寺氏に滅ぼされた。その後大内氏と対抗する豊後の大友義鎮が有馬氏と共に少弐氏の再興を図り、山代清は波多鎮、松浦親、伊万里直などとこれに加わり龍造寺氏に対抗したが、波多氏、鶴田氏などが龍造寺方に寝返ったことからこの企ては失敗し、また肥前は龍造寺氏の制圧下に入った。 豊臣秀吉の九州平定の時、山代貞(孫七貞)は、本領を安堵され、山代氏はその後、佐賀藩の鍋島氏に仕えた。

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六番目の小夜子 – Wikipedia

この記事の正確性に疑問が呈されています。問題箇所に信頼できる情報源を示して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2013年1月)疑問点:あらすじおよび登場人物において小説版とドラマ版の区別がなされていません この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “六番目の小夜子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年2月) 『六番目の小夜子』(ろくばんめのさよこ)は、恩田陸の小説作品及び、それを原作として製作されたテレビドラマ(NHKドラマ愛の詩)。 新潮社の第3回日本ファンタジーノベル大賞で最終選考まで残った。この作品は恩田陸の初作品である。ドラマ版ではオリジナルキャラを登場させたり、舞台を高等学校から中学校に変更するなど小説とは一味違った展開が成されているが、「小夜子」・「鍵」・「文化祭」等、物語の基本部分は共通したものとして展開されている。本項ではドラマを主に記述されているようである。 シリーズ作品[編集] 1992年、新潮文庫より出版。1998年・2001年、大幅加筆・単行本化されたものが新潮社より出版。 『六番目の小夜子』新潮社《新潮文庫》(ファンタジーノベル・シリーズ)、1992年7月 全312ページ、ISBN 4-10-123411-6 『六番目の小夜子 — Number

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ラジャ・クニン – Wikipedia

ラジャ・クニン(Raja Kuning, タイ語:ราฌา กูนิง, ? – 1651年)は、パタニ王国の女王(在位:1635年 – 1651年)。 ラジャ・クニン(黄色の女王)の治世の初め、日本から悪い知らせが届いた。1635年江戸幕府はすべての日本人の出国と帰国を禁止したのである。朱印船貿易は完全に停止され、日本は本格的な鎖国の時代に入った。パタニにも在留日本人がいたが、帰国できないまま、異国の地に取り残されている。ただ、オランダ人や日本人が来航しなくなっても、パタニにはマレー人、イスラム教徒、少なくなったとはいえ中国人の商船は依然として来航しており、女王はパタニ河の河口を浚渫するなどして、パタニの交易港としての地位を保持しようとした。 ラジャ・クニンは園芸と交易が趣味としていた。王家の庭園で美しい花や野菜を栽培して販売し、それで王家の日々の入用を賄っていた。またパタニはこれまで交易の場を提供するだけで、自ら交易に従事することはなかったが、ラジャ・クニンはパタニ王家としては初めて交易船を所有し、海外諸国との交易も行った。 アユタヤ王朝と対立した前女王と違って、ラジャ・クニンは1641年アユタヤを訪問してプラーサートトーン王と会見した。パタニの史料ではプラーサートトーン王は今後パタニに介入しないことを約束したとされるが、この訪問はアユタヤの力の増大、パタニの相対的な衰退を示すものかもしれない。 夫のトレンガヌ王は女王の配偶者としてパタニに住み、女王を補佐していた。交易港をもつパタニの方がトレンガヌよりもはるかに重要だったからである。しかし、カン・ディ・ベルタン・ムーダ・ジョホールはある時女王の家臣である美しい女性と不倫の恋に落ちたので、パタニに居られなくなり、実家のジョホールへ帰った。 1651年パタニの南隣にあるクランタンのラジャ・サクティがパタニでクーデターを起こし、女王を追放した。ラジャ・クニンはジョホールへ逃れる途中海岸で死亡した。ラジャ・クニンに子はなく、女王が崩御するとパタニ王家は断絶した。王家の血を引くラジャ・バカールが一時パタニ王国王となるが、ラジャ・バカールも間もなく亡くなり、パタニではクランタンの王子をパタニ王に擁立し、ラジャ・マス・クランタンとした。

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国鉄キハ31形気動車 – Wikipedia

キハ31形気動車(キハ31がたきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)[1]および九州旅客鉄道(JR九州)に所属していた一般形気動車である[2]。 本項では、くま川鉄道に譲渡されたKT31形についても述べる。 1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に先立ち、経営基盤の整備を図る目的で制作された[1]。台車・変速機・ブレーキ装置などの部品には廃車発生品を多用し、またドアや冷房装置・暖房装置等にはバス用汎用品を採用して軽量化・コストダウンを進めている。さらにワンマン運転にも対応し、ワンマン運転用機器が容易に取り付けられるような構造としている[1]。同時期には北海道・四国地区向けにキハ54形・キハ32形も登場しており、2形式とは設計や車体形状に共通項が数多くみられる。 1986年(昭和61年)末から1987年初頭にかけて、20両(1 – 20)が新潟鐵工所および富士重工業で製造された。 全車がJR九州に承継された後、1988年(昭和63年)3月に3両(21 – 23)が追加製造された。 車体[編集] 九州に多数存在する急勾配区間での使用を考慮して軽量化を図り[1]、重量あたりの出力を高くとるという目的から、有限要素法による構造解析を行って設計された、軽量ステンレス車体を採用している。あわせて車体長さを従来車標準の20mから17mに短縮している[1]。 側面窓は1段上昇式である[1]。客用扉は幅900mmの2枚折戸で、ドアエンジンはバス用のものを改良して使用しており、自動・半自動の切り替えが可能である[1]。半自動ドアはボタンで操作する方式である[1]。先述のようにワンマン運転を考慮していることから、客用扉は車端部に配置している。 運転室は客室面積や前面展望の確保、ワンマン運転対応を考慮して長さ1440mm・幅980mmの半室構造とされたため、乗務員用扉は運転室側側面のみに設けている[1]。また、運転台機器にもコストダウンのため流用品を多用している。側面の行先表示は行先標(サボ)によるもので、中央部窓下にサボ受けが設置されている。 前面はキハ54形とほぼ同じ様式で、中央に貫通扉を配した3枚窓である。貫通扉上に前照灯を設け、運転室窓上に種別・行先表示器を設置している。種別・行先表示器はバス用の手動式である。 車体は無塗装だが、九州地区の一般形車両標準色に準じた青24号の帯を配している[1]。 晩年はくま川鉄道に売却、譲渡された20以外は全車にスカートが設置され、更に2016年3月からは熊本車両センター所属車の運賃表がLEDから、キハ200系や817系0番台で順次交換されている、レシップ社のOBCビジョンに更新されていた。 車内設備[編集] 車内   運転台周り

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