Month: March 2022

宇河弘樹 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “宇河弘樹” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年10月) 宇河 弘樹(うがわ ひろき、? – )は、日本の漫画家、イラストレーター。男性[1]。広島県出身。 1994年(平成6年)、『月刊コミックドラゴン』(富士見書房)に掲載の『黒エルフの不仕合わせな事情』でデビュー。その後『ヤングキングアワーズ』(少年画報社)を中心に寄稿。2000年(平成12年)から2007年(平成19年)まで同誌にて代表作『朝霧の巫女』を連載した。その後、同誌にて『ポストキッズ』の連載を2021年(令和3年)12月号から開始。 この作品はアニメ化もされたが、のちに製作サイドの度重なる不誠実な対応に業を煮やし、アニメ版のDVD全巻購入特典を本人自らが製作、発送した。 1994年(平成6年) – 「黒エルフの不仕合わせな事情」によりデビュー。 2000年(平成12年)

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モチェ文化 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2009年9月) モチェ遺跡の全景。奥に見えるのがワカ・デル・ソル(太陽のワカ) ワカ・デラ・ルナ(月のワカ)の復元想像図 ラルコ・オイレによる鐙型注口土器の五区分編年。 モチェ文化(モチェぶんか;Moche)は、ペルー北海岸にそそぐモチェ川から名称をとられた紀元前後からA.D.700頃まで繁栄したインカに先行するプレ・インカと呼ばれる高度な文化のひとつである。「モチーカ」と呼ばれることも多いが研究者の間では、スペイン人到着時に北海岸の住民が話していた言葉(ムチック語)の名称ということで避ける傾向が強い。モチェは、美しく彩色され、写実的に人面、動物、作物などを象った鐙型注口土器と黄金やトゥンバガ(金、銀、銅、砒素の低カラット合金)細工などのすばらしい副葬品で知られる。モチェ文化が繁栄したのは、モチェ川のほか、その北方を流れるラ・レチェ川流域から南は中部海岸のワルメイ川流域までの500kmの範囲に及んで、一つか二つの谷にまたがるいくつかの国家[1][2]の形態をなしていたと考えられている。 モチェの人々は、灌漑農業を行っていて数キロメートルにわたる運河が建設されることも珍しくなく、ラ・クンブレの運河と呼ばれるものは、110km以上にも達した。また数百立方メートルにも及ぶ貯水槽なども造られた。栽培された植物は、とうもろこし、豆、ピーナッツ、ジャガイモおよびチューニョ(乾燥ジャガイモ)、唐辛子、タピオカの甘い種類、ヒョウタン、キュウリなどであり、多くは、土器にもかたどられている。また、とうもろこしからつくられるチチャ酒も造られていた。漁業、狩猟、採集、交易も行われ、狩猟の様子は土器にも描かれた。家畜のモルモットやアヒルが食糧だったこと、葦舟で漁を行ったことなどが知られている。 モチェの編年は、I期からV期にわけられ、ラファエル・ラルコ・オイレによる鐙型注口土器の形態によって知られてきた。その絶対年代については、定説はない。しかし、島田泉は、I期は、紀元前後からA.D.200頃、II期は、A.D.200~A.D.300頃、III期は、A.D.300~A.D.450頃、IV期は、A.D.450~A.D.550頃、V期は、A.D.550~A.D.700頃においている。 支配体制の変遷及び滅亡[編集] モチェの支配体制については、旧来は、モチェ川の政体が南北に勢力を徐々に伸ばして統一的に広がって行くと考えられていたが、最近は、ランバイェケ川流域のシパン(Sipan)、ヘケテペケ川流域のラ=ミナ(LaMina)などの発掘調査が進んで、I期~III期の遺跡が調査されることによってモチェ像が変わってきた。 最近は、島田泉による説とマイケル=モーズリー (Moseley) による説が有力である。島田説は、I期からモチェ川の政体は、「太陽のワカ」「月のワカ」と呼ばれる神殿ピラミッドの建設がアドベ(日干しレンガ)で建設され始めた。一方で北側に位置するランバイェケ川上流の政体が台頭しつつあった。両者は共通の観念や工芸技術を持ち、共存する形で発展をしつづけた。III期になるとモチェ川の政体は、南側にある各河谷の政体を従え、ランバイェケの政体は、下流域まで勢力を伸ばす。IV期になると、モチェ川の政体は、ランバイェケの政体をしたがえた。これについては、土器や建造物に北側の政体に見られた特徴が消失し、新しい建物が建てられていることを証拠としてあげる。モーズリー説は、南側は、モチェ川の政体による直接支配で、ランバイェケは間接的に支配されたと考える説である。 なお、モチェV期になると「太陽のワカ」と「月のワカ」は放棄されてしまい、より上流に区画された幾何学的な構造を持つ都市遺跡であるガリンドが建設された。また、ランバイェケでもよく似た構造を持つパンパ・グランデの都市が建設される。ただし、パンパ=グランには、ワカ=フォルタレサという高さ55mに及ぶピラミッドが建設された。この変化については、幾何学的な区画構造をもつ都市遺跡で知られるワリの侵入説が1960年代に唱えられていたが、現在は、6世紀後半の気候変動による乾燥化であろうと考えられている。またモチェV期には、写実的な象形土器はつくられず、器面全体を複雑な儀式や宗教的なシンボルの繰り返しのようなモノトーンな図像で埋め尽くすような土器が作られた。 モチェの滅亡は、ワリの侵略などではなく、テオティワカンや古典期のマヤがそうであったと考えられているように内部の反乱などによって自壊していったと推定する研究者もいる。 オハイオ州立大学の地質学者ロニー・トンプソンは、1980年代にアンデス山脈で採掘したアイスコア(氷床コア)と呼ばれる氷の層を調べることで、歴史上においてもエルニーニョという異常気象がおこった時期がわかることを発見した。エルニーニョが引き起こす異常気象は歴史上の文明の衰亡とも関係づけられるとされる。モチェ文化の滅亡前にも最大級のエルニーニョ現象があったことがわかり(565年-600年)、関連が指摘されている[要出典]。 モチェ遺跡の月のワカ。太陽のワカと対になるように配置されている。極彩色に塗られた美しい漆喰レリーフで知られる。背後の三角形の山はセロ・ブランコと呼ばれている。 月のワカの彩色レリーフ。 月のワカの彩色レリーフ。モチェIV期,A.D.500頃。 月のワカの彩色レリーフの一部拡大写真。生贄がこの神のためにささげられたと考えられている。 ^

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東海大学菅生高等学校・中等部 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “東海大学菅生高等学校・中等部” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年4月) 東海大学菅生高等学校・中等部(とうかいだいがくすがおこうとうがっこう・ちゅうとうぶ)は、東京都あきる野市菅生にある男女共学の私立高等学校・中学校。東海大学の提携校である。 学校法人菅生学園が運営する、事実上の中高一貫校(現在の中高の校舎は別の場所に存在する)。系列校として菅生学園初等学校(小学校)、多摩学院幼稚園を擁する。 東海大学の付属高校には、既存の高校が東海大学と提携して付属校となり、校名を変更した学校が数校あるが、当校は発足時から学校法人東海大学との提携により開校した学校である。 東海大学の提携校のため、東海大学関連高校独自の「高校現代文明論」という授業を中心に各教科が展開されるのが特徴。 校名に「付属」が付かないのは、経営母体である学校法人菅生学園が東海大学とは無関係なためである。菅生学園は東海大学とは全く無関係の「多摩学院幼稚園・菅生学園初等学校」も設置している。 東海大学付属甲府高等学校・東海大学山形高等学校も地元の学校法人であるが、他の東海大付属校同様、大学と一貫した学校経営を行っている。 菅生学園は、オーストラリア・シドニーに「菅生学園武道館」を開設したり、太陽光発電システムを校舎に設置、2007年には小学校「菅生学園初等学校」を開校するなど、東海大学とは独立した独自色を前面に出している。校章も東海大菅生高校・中等部は独自のものを採用している(他の付属各校は同じ校章)。現在太陽光発電システムは不具合により運用を停止している。 部活動が盛んであり、甲子園春夏8回の出場経験を持つ硬式野球部や、都内強豪で全国大会への出場経験もある吹奏楽部が特に有名である。 1983年(昭和58年) – 多摩学院幼稚園を経営する学校法人多摩児童学院(現・学校法人菅生学園)が、学校法人東海大学と提携のもと、東京菅生高等学校(全日制・普通科・男女共学)を開校。

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建長 – Wikipedia

建長(けんちょう)は、日本の元号の一つ。宝治の後、康元の前。1249年から1256年までの期間を指す。この時代の天皇は後深草天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼嗣、宗尊親王、執権は北条時頼。 宝治3年2月1日、里内裏となっていた閑院が焼失する火災(閑院火災)があったことを受けて改元が行われた。しかし、改元からわずか5日後に洛中の主要部(三条・西洞院・八条・東京極を囲む一帯)を焼き、更に鴨川対岸の蓮華王院まで焼失する大火災が発生している(2月の火災は内裏を焼いたとは言え、被害自体は近辺のみに留まっていた)[1]。 建長年間の出来事[編集] 西暦との対照表[編集] ※は小の月を示す。 建長元年(己酉) 一月 二月 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月 十二月※ ユリウス暦 1249/2/14

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スタジオ・ライブ – Wikipedia

この項目では、企業について説明しています。放送番組の形式については「音楽番組」を、音楽作品の形式については「ライブ・アルバム」をご覧ください。 この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 株式会社スタジオ・ライブは、アニメーションの企画・制作を主な事業内容とする日本の企業である。 制作協力などのクレジットではスタジオライブ、スタジオ ライブと表記されることもある。また、スタジオの共同ペンネームとして、いんどり小屋、マンドリルクラブ(まんどりるくらぶ)があり、キャラクターデザインや設定協力としてクレジットされることがある。 概要・沿革[編集] TCJ映画部(後のエイケン)の作画出身の芦田豊雄が虫プロダクションを経て1976年7月に「有限会社スタジオ・ライブ」として設立し、1994年12月に株式会社に改組した。設立当初は作画専門スタジオであったが、後にプリプロダクション(企画、キャラクターデザイン、演出、脚本)、制作元請にも関わるようになり、自社所属のアニメーターを各社へ出向の形で派遣している。 同社はアニメーターを中心に抱えた制作会社であり、仕上・撮影・制作担当のスタッフは在籍していない。従って、制作元請を行う場合は、他社との共同制作あるいはグロス出しで制作を行っている。 初期の参加作に『UFO戦士ダイアポロン』(エイケン)がある。その他、サンライズ、マッドハウス、スタジオコメット、葦プロダクション(一時期プロダクション リード)などの作品に多数参加している。 制作に参加したテレビアニメ『美少女戦士セーラームーン』の21話はアニメスタジオを舞台とし、登場するゲストキャラクターの松野裕美と只下和子の名前は、当時在籍していたスタジオ・ライブのメンバーの名前が元となっている。 2011年、初代社長であった芦田は病のため社長の職を神志那弘志へ委譲し、会長になる(なお芦田は同年7月に逝去。現在は明確に会長職に就いている人物はいない)。 2016年、ニコニコ生放送(ニコ生)の有料チャンネルとして「スタジオ・ライブ☆チャンネル」を設立。このチャンネルは2019年11月に終了したが、同年同月より定額制クラウドファンディングを利用し資金を得、ニコ生チャンネル時代に生まれたオリジナルキャラクターを使い同社初となる完全オリジナル作品を制作するという構想を公表している[1]。 作品履歴[編集] ※特記以外の作品は、スタジオライブ名義 元請制作[編集] その他[編集] テレビシリーズ[編集] 劇場映画[編集] ビデオシリーズ[編集]

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御田 – Wikipedia

この項目では、寺社や皇室等が所有する領田について説明しています。その他の用法については「おでん (曖昧さ回避)」をご覧ください。 御田(おた、みた、おみた、おんた、おんだ、おでん)は、寺社や皇室等が所有する領田のこと、またその領田で行われる行事[1]。 日本人と稲作の深い関わりを示すものとして、多くの御田に関する行事が日本各地に伝承されている。田原の御田、磯部の御神田、吉良川の御田祭は重要無形民俗文化財に指定され、御田植祭、田遊び、田植踊と呼ばれる行事や芸能なども伝承されている。皇居内の御田では天皇自らが田植えと稲刈りを行う。 明治初頭の上知令で寺社の領地(寺社領)が廃止されたため、一時的に日本全国の寺社の御田が消滅した。その後周辺の住民の寄贈などにより御田が再興された寺社があり、伊勢神宮は2ヶ所に御田を残している。 ^ 「寺田(てらだ)」、「神田(かんだ)」「御神田」とも呼ばれるが、一般に「寺田」「神田」と呼ぶ場合は領田そのもののことを指し、行事のことは指さない。また田楽と同義にも使われ、おでんと読んだ場合は一般に料理のおでんのことを指す。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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ジオス (自転車フレームメーカー) – Wikipedia

ジオス (伊: GIOS) は、イタリアの自転車メーカー。1948年設立。本拠地はイタリアのトリノ。よりイタリア語に近く発音すると「ジョス」。 創業者のトルミーノ・ジオスは元ロードレース (自転車競技)の選手である。ベルリン五輪イタリア代表に選ばれるほどの名手であり、同社のエンブレム(ヘッドマーク)に五輪があしらわれているのはそのためである。 1973年からプロチーム「ブルックリン」にフレームを供給する。エースのロジェ・デ・フラミンク(ロジャー・ドブラマンク,Roger De Vlaeminck)の活躍によりジオスも名声を得ることになる。それまでジオスのシンボルカラーはオレンジ色だったが、デ・フラミンクが駆っていたのは青色のフレームであった。以来、その青は「ジオスブルー」と呼ばれ、イタリアのペンキ屋の色サンプルにも「ジオスブルー」の呼称が登場するほど「ジオスといえばジオスブルー」というイメージが定着している。 プロチームへのフレームの供給は、1994年からスペイン・ケルメ(2004年現在はルックを使用)、2003年から2004年までイタリア・フォルマッジピンゾーロなどがジオスのフレームを使用していた。 外部リンク[編集]

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ウィレム2世 (オランダ王) – Wikipedia

ウィレム2世Willem II 第2代オランダ国王ルクセンブルク大公 ウィレム2世 在位 1840年10月7日 – 1849年3月17日 就任式 1840年11月28日 全名 Willem Frederik George Lodewijkウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイク 出生 (1792-12-06) 1792年12月6日 ネーデルラント連邦共和国、デン・ハーグ 死去

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ファ・ユイリィ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ファ・ユイリィ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年8月) ファ・ユイリィ (Fa Yuiry) は、アニメ『機動戦士Ζガンダム』及び『機動戦士ガンダムΖΖ』に登場する架空の人物。『機動戦士Ζガンダム』の主人公カミーユ・ビダンのガールフレンドである。 小説版における漢字表記は花 園麗[1]。 担当声優は松岡ミユキ(TV版)、新井里美(劇場版)、岩居由希子(一部ゲーム作品)。 本編のヒロイン。年齢は17歳。カミーユ・ビダンとは隣人かつ高校の同級生。両親が留守がちなカミーユの世話をよく焼いており、テレビ版冒頭では彼の爪を噛む癖を注意している。出身はサイド1の25バンチであり、一年戦争後にサイド7(グリーン・ノア)に移住してきた[2]。 宇宙世紀0070年10月9日生まれ。血液型はAB型。食べ物の好き嫌いはない。将来の夢は社会の役に立つ人になること[2]。 劇中での活躍[編集] グリプス戦役(『機動戦士Ζガンダム』)[編集]

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水戸学 – Wikipedia

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2016年10月) 水戸学(みとがく)は、江戸時代の日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)において形成された学風、学問である。第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書『大日本史』の編纂を通じて形成された。特に天保期以降、第9代藩主徳川斉昭のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となった。光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多い。 儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴がある。 前期水戸学[編集] 明暦3年(1657年)、水戸藩世子の徳川光圀は江戸駒込別邸内に史局を開設し、紀伝体の日本通史(のちの「大日本史」)の編纂事業を開始した。藩主就任後の寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とした。 当初の史局員は林羅山学派出身の来仕者が多かった。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘する。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672年)には24人、貞享元年(1684年)37人、元禄9年(1696年)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の彰考館の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多かった。 編纂過程においては、第一の目的である大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、佐々宗淳、丸山可澄(活堂)、安積澹泊、栗山潜鋒、打越直正(撲斎)、森尚謙、三宅観瀾らがいる。 「大日本史」の編纂方針において、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える(南北朝正閏論)。ただし、光圀においては北朝及び武家政権の確立を異端視するものではく、それらを名分論のもとでいかに合理化するかが主要な研究課題であった。 光圀死後も編纂事業は継続されたが、元文2年(1737年)、安積澹泊の死後、修史事業は50年間ほど中断状態となった。 後期水戸学[編集] 「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主徳川治保の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心として再開される。 この頃、藩内農村の荒廃や蝦夷地でのロシア船出没など、内憂外患の危機感が強まっていた一方、水戸藩は深刻な財政難に陥っており、館員らは編纂作業に留まることなく、農政改革や対ロシア外交など、具体的な藩内外の諸問題の改革を目指した。翠軒の弟子には小宮山楓軒、青山延于らがいる。翠軒の弟子の藤田幽谷は、寛政3年(1791年)に後期水戸学の草分けとされる「正名論」を著して後、9年に藩主治保に上呈した意見書が藩政を批判する過激な内容として罰を受け、編修の職を免ぜられて左遷された。この頃から、大日本史編纂の方針を巡り、翠軒と幽谷は対立を深める。翠軒は幽谷を破門にするが、享和3年(1803年)、幽谷は逆に翠軒一派を致仕させ、文化4年(1807年)総裁に就任した。幽谷の門下、会沢正志斎、藤田東湖、豊田天功らが、その後の水戸学派の中心となる。 文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著す。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。 天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」であり、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は幽谷の子・藤田東湖であり、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた。 徳川斉昭の改革は、弘化元年(1844年)、斉昭が突如幕府から改革の行き過ぎを咎められ、藩主辞任と謹慎の罪を得たことで挫折する。斉昭の側近である改革派の家臣たちも同様に謹慎を言い渡された。 この謹慎中に藤田東湖が執筆したのが「弘道館記」の解説書である「弘道館記述義」である。この中で、東湖は本居宣長の国学を大幅に採用し、儒学の立場から会沢らの批判を招きつつも、尊王の絶対化とともに広範な民衆動員を図る思想は弘道館の教育方針に留まらず藩政に大きな影響を与えた。同時期に東湖の著した「回天詩史」「和文天祥正気歌(正気歌)」は、佐幕・倒幕の志士ともに愛読された。 嘉永6年(1853年)のペリー来航は水戸藩改革派の復権をもたらし、斉昭は幕政参与に就任、東湖らも斉昭側近に登用され、農兵の編成などの軍事改革が進められる。しかし、安政の大地震で東湖は死亡し、安政の大獄で斉昭が再度処罰されるに至って、水戸藩は政治的・思想的な混迷を深めていくことになる。 水戸藩はその後、安政5年(1858年)の戊午の密勅返納問題、安政6年(1859年)の斉昭永蟄居を含む安政の大獄、元治元年(1864年)の天狗党挙兵、これに対する諸生党の弾圧、明治維新後の天狗党の報復など、激しい内部抗争で疲弊した。 明治維新以後[編集] 明治維新後から第二次世界大戦の終結までにかけて、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに盛んに称揚された。特に、明治23年(1890年)、明治天皇の水戸行幸の直後に発せられた教育勅語は、「国体」や「斯道」など水戸学における中心的な用語が使用され、内容も水戸学の影響が顕著である。

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